第三十話 逃亡
クルルがシャルロットを背負って走っている間は何も起こらなかった。
追手も。
怒鳴り声も。
矢も飛んでこなかった。
ただ、冷たい夜風だけが山を吹き抜けていく。
クルルは息を切らしながら、ようやく馬を繋いだ場所まで戻ってきた。
「……っ、は……」
肺が焼けるように痛い。
背中も腕も限界だった。
シャルロットを地面へゆっくり降ろす。
ぐったりとして動かない。
呼吸だけが、かろうじて命を繋いでいた。
「頼むから……死ぬなよ」
掠れた声で呟く。
返事はない。
クルルは震える指でロープを解き、馬へ跨った。
それから、シャルロットを前へ抱え上げる。
細い。
軽い。
怖くなるほど。
「……ちゃんと食わせてもらってなかったのか」
思わず零れた声に、怒りが滲む。
クルルは唇を噛み、木に結びつけていたロープを掴んだ。
手際よく、でも慎重に。
シャルロットの身体を、自分へ固定する。
落ちないように。
離れないように。
気を失ったままの身体が、力なくクルルへ寄りかかる。
クルルの薄い金髪に、シャルロットの淡い金髪が触れた。
昔なら、社交界でこんな姿になったら、大スキャンダルだと笑っていただろう。
でも今は、そんなことを考える余裕もない。
クルルはマントを広げた。
自分とシャルロットを、まとめて包み込む。
姿を隠すために。
寒さから守るために。
「……絶対、見つかるなよ」
小さく呟く。
自分へ言い聞かせるように。
もう後戻りはできない。
シャルロットを助けた時点で、終わりだった。
皇太子の駒だった。
便利に使われる側だった。
なのに、裏切った。
もし見つかれば、どうなるかなんてわかりきっている。
捕縛。
尋問。
処刑。
下手をすれば、家族まで巻き込まれる。
クルルは奥歯を噛み締めた。
怖い。
当たり前だ。
怖くないわけがない。
でも、山小屋に転がっていたシャルロットを、あのまま見捨てるなんて。
そんなこと、できるわけなかった。
「……っ」
馬の手綱を握る。
どこへ行く。
どうする。
王都には戻れない。
医者に連れていけば、
すぐに足がつく。
知り合いの貴族も駄目だ。
皇太子の目は広い。
誰も信用できない。
その時、一人の男の顔が浮かんだ。
「……オーウェン」
田舎町に住む、クルルの親友。
一人暮らし。
無駄に広い家。
そして。
薬屋。
ちょっとした診療所代わりにもなっている。
昔から変わり者で、王都の権力争いを嫌って田舎へ行った男。
情報も遅い。
皇太子の目も届きにくい。
そして何より、クルルが、数少ない“信頼できる人間”。
「……助けてくれるかもしれない」
希望だった。
真っ暗な中で、ようやく見つけた細い糸。
クルルはシャルロットを抱き直す。
冷たい。
でも、まだ生きている。
「間に合わせるからな」
誰へ向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
クルルは強く手綱を引く。
夜の山道を馬が走り出した。
王都から遠ざかるように。
追手から逃げるように。
一人の令嬢の命を抱えて。




