影の棲む水槽
白川疏水の水面を撫でた冬の風が、すきま風となって古いアパートの窓枠を微かに鳴らした。
疏水沿いに枯れ残ったヨモギやイタドリの群生を揺らす冷気は、薄い壁をすり抜け、這うように足元へ絡みついてくる。
アヤは衣服をすべて脱ぎ捨て、部屋の隅に置かれた姿見の前に立った。
青白い蛍光灯の下に晒された自分の体には、無数の「影」が棲みついている。
首筋から両肩にかけて、皮膚を突き破らんばかりに張った鎖骨の稜線。
その下にくっきりと穿たれた暗がり。
洗濯板のように波打つ肋骨の間に落ちる、等間隔の黒い縞模様。
骨盤の腸骨が二つの角のように突き出し、その内側に広がる空虚な影。
それは肉体が極限まで削ぎ落とされた者だけが持つ、死のデッサンだった。
アヤは指先で自身の肋骨をピアノの鍵盤のようになぞり、そこに確かな硬さと、指を沈めるほどの深い影があることに安堵の吐息を漏らす。
鏡を見つめていると、不意にその骨格の上に、別の女性の影が重なって見えた。
『アヤ、女の子はね、限りなく透明に近くなきゃいけないのよ』
唐突に、耳の奥でカチャカチャと陶器の皿を叩くフォークの音が鳴る。
ドレッシングを徹底的に水で洗い流した生野菜だけを口に運びながら、母はいつも何かに怯えるようにそう呟いていた。
母の細い首筋にも、今のアヤと同じ深く暗い影が棲んでいた。
母は決して、娘を虐待しようとする悪鬼ではなかった。
彼女自身が、「肉という重さ」を持つこと、つまり社会の中で欲望を持った生々しいメスとして消費されることを、病的なまでに恐れていたのだ。
豊満な体を持つ女性とすれ違うたび、母の瞳には軽蔑よりも強い、哀れみと恐怖が浮かんでいた。
肉は罪。脂肪は自制心の敗北。
母を縛り付けていたその強迫観念という名の呪いは、愛情というオブラートに包まれ、へその緒を逆流するようにアヤの細胞へと深く、静かに染み込んでいた。
「大丈夫、私は軽いよ……」
誰に向かってともなく呟き、アヤはパジャマを羽織った。
部屋の片隅で、微かなモーター音が鳴っている。
三十センチ四方のガラス水槽。
それがこの部屋で唯一、アヤ以外の命が呼吸する場所だった。
水槽の中には、一匹の淡水フグが棲んでいる。
テトラオドン・ショウテデニィ。名前は「プク」。
黄色地に黒い斑点を持つその体は、はち切れんばかりに丸く膨らんでいる。
独立して動く大きな瞳でキョロキョロとせわしなく外界を窺い、ヘリコプターのように短いヒレを回して水中でホバリングする。
アヤの気配を感じると、ガラス面に口を擦り付けてきた。
冷凍庫から赤虫のブロックを取り出し、ピンセットで水面に落とす。
プクの目の色が変わった。
狙いを定め、弾丸のように飛びついて貪欲に血色の虫を啜り込む。
ちゅるっ、と音を立てるかのような勢いで。
一粒、また一粒と飲み込むたびに、プクの白い腹がさらに膨張していく。
LEDライトに照らされたプクの影が、巨大なシルエットとなって壁に揺らめいた。
以前は、その丸っこい姿がただ愛らしく、救いであった。
自分が削ぎ落としていく肉の代わりに、プクがふっくらと太ってくれる。
自分が決して満たすことのできない空腹を、プクが代わりに満たしてくれる。
しかし、冬が深まり、アヤの体重が三十キロの境界線を割り込んだ頃から、プクの存在は徐々に変容し始めていた。
壁に映るプクの巨大な影が、不気味に蠢く。
アヤの目には、プクが単なるペットではなく、母が恐れ、自分が拒絶し続けてきた「底知れぬ食欲」と「生々しい肉の塊」の化身のように見え始めていた。
無防備に栄養を取り込み、肥大化していくその姿は、アヤの心の奥底に何重にも鍵をかけて封じ込めた飢餓感そのものだった。
『もう、抱いてる気がしないよ。折れそうで、怖いんだ』
水音に混じって、去っていったタカシの声がフラッシュバックする。
タカシがキッチンで煮込んでいた、バターと肉の暴力的な匂い。
吐き気を堪えるアヤの背中を撫でた彼の手が、浮き出た背骨の感触に思わずビクッと強張った、あの夜の生々しい記憶。
彼が持ち去っていった「誰かに愛されるための柔らかさ」を、水槽の中のプクだけが、これ見よがしに腹に抱え込んで揺れているように思えた。
その直後だった。
強烈なめまいがアヤを襲い、視界が唐突に白く反転した。
受け身をとる筋肉のクッションを持たない膝と肩が、フローリングに激突する。
ゴツン、という乾いた音が自分の骨から響き、鈍い痛みが走ったが、呻き声を上げる力すら湧かなかった。
床に頬をこすりつけながら、霞む目で部屋を見る。
暗闇の中、水槽の青白い光だけが、祭壇のように浮かび上がっていた。
見上げると、ガラス越しにプクが底の方へ降りてくるのが見えた。
大きな黒い瞳が、床に倒れたアヤをじっと見下ろしている。
壁に投影されたフグの影が、水面の揺らぎとともに不規則にうねり、やがてアヤの体の上に重く覆い被さってきた。
ふっくらと膨張した影の腹が、アヤの極端に陥没した腹部をぴったりと満たすように重なる。
波打つように動く影の縁が、洗濯板のような肋骨の溝にすっぽりとはまり込み、彼女の骨格が作り出す空虚な暗がりを、別の生々しい質量で塗り潰していく。
圧倒的な母性のような、あるいはすべてを貪り食う怪物のような、重たくて生温かい影。
アヤ自身の輪郭が影に侵食され、彼女の肉体そのものが、この巨大な影を飼い殺す水槽へと変貌していくようだった。
アヤは、枯れ枝のような腕をゆっくりと持ち上げ、虚空を這わせた。
どうか、このまま私を飲み込んでほしい。
削ぎ落としきれなかったこの忌まわしい骨と皮を、そのふっくらとした腹のなかに溶かして、跡形もなく消し去ってほしい。
甘美な消滅の予感に、アヤは深く目を閉じた。
しかし。
翌朝、白川疏水の水面を反射した冬の容赦ない朝日が、カーテンの隙間から部屋を白日の下に晒した。
アヤは目を覚ました。
床にこすれた頬骨の痛みが、ここが透明な水の中ではないことを告げていた。
体を起こす力はすでになく、首だけを動かして水槽を見上げた。
いつもなら、朝の光とともに激しく餌をねだるプクの姿があるはずだった。
水槽は、静まり返っていた。
プクは、水面近くで浮いていた。
白い腹を上に向け、パンパンに膨れ上がったまま、ピクリとも動かなかった。
死んでいた。
丸みを極め、これ以上ないほどに張り詰めた完璧な球体のまま、その時間を止めていた。
アヤは、ただその光景をじっと見つめた。
ゴツン、と力なく頬骨を床に沈める。
眼前に広がるのは、埃の積もった木目と、自分の腕の薄い皮膚に浮き出る青い血管だけだ。
削ぎ落としきれなかった骨と皮が、ただ硬い床の上にへばりついている。
その時、アヤの腹の奥底で、ぐう、と長く無様な音が鳴った。
自分自身の内臓が発する音だった。
胃袋が、腸が、ただ物理的な収縮を繰り返している。
立ち上がる力はない。
指先を動かすことすらできない。
ぐう。
もう一度、鳴った。
意志とは無関係に、空っぽの臓器がただ蠢いている。
水槽の中でプカプカと浮く、丸く満たされた死骸。
床に這いつくばり、己の腹の音を聞き続けるだけの生体。




