桜色
[登場人物]
富野瑛亮(14)中学三年生
葛西愁吾(14)中学三年生
生徒がそれぞれの部活へ向かう中、教室から動かないで、このジャージをロッカーにしまうかどうかと考えていた。持ち帰ったって、昨日ほど匂いは残っていない。なのに、置いていくには寂しい気もした。鞄から少し袖を出して、匂いを確かめる。
「何してるの?富野くん。」
声を掛けられたことに驚いて、体が跳ねる。そこには、微笑みを貼り付けたような顔で、葛西が立っていた。
「びっくりした。居たのかよ。」
手に持ったジャージの袖は、咄嗟に鞄の中へしまった。
「富野くんって不思議だよね。部活も行かないのに、放課後も少しの間学校にいる。」
「悪いかよ。」
人の行動をいちいち観察しているのか。教室に入って来たことも気付かないくらい、気配を消している奴だから、普段から見られていたのかもしれない。彼に対して、警戒心を抱いた。
「それ。昨日、吉沢さんに貸してたんじゃないの?」
「えっ。」
鞄の中へ隠した袖を見られていたことに、目が泳ぐ。
「……ああ、昨日のうちに洗って返してくれた。家、近所だから。」
「へぇ。もし、僕が富野くんに水を掛けられたとしたら、それ、貸してくれたりするの?」
「貸さねーよ。」
葛西は、偽物みたいな笑顔でそう訊いてくる。なんだかムッとした。昨日の失敗を蒸し返されたのと、花音と対等な立場として踏み入ってきたのが嫌だった。
「下着まで濡れても?」
「は?」
思いもよらない言葉に、心臓が一度ドクンと鳴って、速くなる。頭で考えて思い出すよりも先に、ジャケットを脱ぐ花音の、焼き付いた情景が浮かぶ。
「水、結構な量だったから、きっと中まで濡れちゃったんだろうなって。着替えるなら当然、濡れた下着も着けてられないもんね。」
「は……?」
何を淡々と話しているのか、すぐに脳内で処理ができなかった。こいつの頭の中に、想像上の花音がいることを気持ち悪いと感じながらも、言葉の処理が少しずつ追いついて、見てもいない花音の着替えが、頭の中に空想の映像として現れる。
葛西は、近くにあった机の中から、国語の教科書を出して表紙を指差す。
「僕からも見えてたよ。ちょうどこんな色だった。」
葛西の指先に、泳いだ視線をゆらゆらと落とす。その指先に広がるのは、薄いピンクの桜色だった。彼に対する気持ち悪さを、怒りが凌駕する。
自分の机を押し退け、胸ぐらを掴む勢いで向かって行く。
「お前!」
葛西は一歩引いて両手を小さく前に出す。近づかせまいと、声を張り上げる。
「僕は見ただけ。」
葛西の顔から、貼り付けたような笑みが消えて、そのまま静かに続ける。
「あれは事故だった。そもそも、見たって何も思わなかった。何か思ったのは、富野くんのほうでしょ。」
一歩向けた足のほうから、順番に体が硬直していく。
そうだった、こいつは、花音も含めて女に興味が無い。それなら、どうしてこんなことを訊く?なぜ、わざわざそんなことを言ってくる?
葛西は軽蔑するような視線を、こちらに向ける。
「吉沢さんで、したの?」
「はっ?」
葛西の一言で、怒りはスッと跡形もなく消え、それでも顔中の熱さは残ったままだった。恥ずかしさと惨めさとで動揺しているところへ、葛西は微笑むでも、軽蔑するでもない顔で一歩ずつ近づく。
「もっといいこと教えてあげる。いくら心許なくたって、濡れたブラは着けて帰らないんじゃないの。」
竦んで動かない足、脳は警戒しながらも、想像することをやめない。
葛西はまた一歩近づく。
「富野くんのジャージ、貸してよかったね。だってそれ、肌が直接触れてたと思うから。」
精一杯、視線だけを床に逸らす。頭の中に存在していた、花音の幻が解像度を増していく。
葛西の足がまた一歩、こちらへ来る。
「もっとある。その日のうちに洗濯して返してくれたって聞いてさ。全部まとめて洗ったんじゃないの。富野くんが濡らした、彼女のシャツも下着も全部。一緒に。」
顔から火が出そうなほど熱い。すぐそこまで、勝手に踏み込まれたのが、恥ずかしくて仕方がない。
手を伸ばせば肩に届きそうな距離で、やっと竦んでいた体が動く。
「やめろ……。お前みたいなキモい奴の頭で、花音のそんなこと、想像すんな!」
葛西は、至極真面目な顔をしていた。
「どういうつもりで怒ってるの?富野くんは、僕よりも罪深いじゃない。」
彼の澄んだ黒い瞳が、惨めな顔を写す。
「僕が今言ったこと、全部今、頭の中で想像したんでしょ。僕は、いつか富野くんが自力で辿り着く妄想を、気付かせてあげただけ。」
もうすでに、戦意は喪失している。負けを認めて力なく俯く。彼がどれだけ聖人なのかを訊いて、自滅しようと思った。
「そういうお前は、しないのかよ。してないって言い切れるのかよ。」
葛西は嬉しそうに「ふふっ」と笑う。その反応が気味悪くて、顔を上げた。彼はその顔にそぐわない、ニタッとした笑顔の口元だけを手で隠し、こちらを見ていた。
「僕は、富野くんがそういうことしたんだろうなって想像して、同じことした。」
背筋がゾッとして、気持ちが悪くなった。
「は……。キモ。」
葛西がまた少し笑う。避けるように一歩、後ずさる。
「吉沢さんが知ったら、今の富野くんと同じことを思うだろうね。」
その気味の悪い笑顔は、言葉じりにかけて中へスッと吸収されていくようだった。
自身で感じたからこそ、その気持ち悪さが本物だと分かって、余計に苦しかった。自滅もさせてもらえず、おびき出されて、至近距離でとどめを刺された気がした。もう止まってくれと願っても、彼は「でも」と言って続ける。
「僕はキモいとか思わないよ。だって、抗えないんでしょ?分かるよ。僕らにとって、それって普通の、日常じゃない。」
葛西の言葉は、内側をぐちゃぐちゃに掻き回した後、全てを包み込む。情けなさや辱めを曝け出したのは、自分だけじゃなかった。彼は、同じことを暴露して、同じ砲弾をくらったのだ。
「最初に言ったでしょ。僕は、望まれたら何でも応えてあげる、って。君は妄想を続ける限り、誰のでもいいから、温度や感触を、一秒でも早く知りたいんでしょ?」
一度、曝け出してしまえば、恥や惨めさなんてもう感じなかった。それは、相手も同じという安心感も、後を押していた。
「知りたい。」
[次回更新]10月31日 金曜日 23時予定




