軋轢
[登場人物]
富野瑛亮(18)高校三年生
二年という期間は、その生活が体に馴染むのに、じゅうぶんすぎる期間だった。心の中で葛西と共に過ごしているという感覚は、鍵が持つ物理的な安心感とは違い、自身の精神的支柱の役割を果たしていた。その柱を壊してしまった今、自分の生きている意味さえも分からない。些細なきっかけで簡単に壊れそうなほど、今の自分は脆い。常に頭がぼんやりとして、自分の目に映った自分の手が、時折、他人のように感じた。
学校へ提出するレポートが間違いだらけで再提出になったのは、入学してから初めてのことだった。アルバイト先の工場では、些細なミスを何度もしては、作業をやり直す。自分以外誰にも迷惑を掛けないのは幸いだが、ミスのせいで作業効率はぐんと下がっていた。かと言って、今さらこの工場を辞めるのも難しい。今、この工場にはアルバイトが自分一人しかいない。すでに作業内容を覚えている自分には、細かい説明も不要で雑務の指示ができる。そういう意味で、ここで働くひとたちは皆、自分のことを頼りにしてくれている。そんなときに自分が辞めるなどと言ったら、一度馴染んだ方法を変えなければならない。自分には、それをする勇気はなかった。
その日は夕方で勤務を終えたあと、社長さんから事務所へ呼ばれた。入り慣れない事務所へ緊張しながら入ると、事務員さんは誰もおらず、社長さんだけが席へ座っている。その空気で、自分の置かれている状況を悟った。社長さんは、最近の自分の目に余るミスを把握しているのだろう。つまり自分は、これから用済みであることを宣告される。自分で決めずとも、ここのアルバイトを辞められるならよかった、と思いながら俯いた。
「富野くん。学校を卒業したら、先の進路はもう決まっているのかな?」
「いえ……。」
「どこと決まってなくても、大学へ行こうとかは考えていたりする?」
自分は首を横に振る。
「……いえ、大学へ行くつもりは無いです。」
「そうか。一つ、考えてることがあるんだけどね。」
「はい……。」
心構えはあるのに、いざクビを宣告されると思うと緊張した。心の中では、ひとに決めてもらえて楽でよかったなんて思えているくせに、必要無いと言われる瞬間に自分は怯えている。一度でも手に入れた感情を、こんな自分でも役に立てた、誰かに頼られたという喜びを、捨てるのが惜しいのだ。なんて、ずうずうしいのだろう。
「富野くんさえよければね。来年度から、うちの社員になってはくれないだろうか?」
「……えっ?」
耳から聞こえた言葉を、すぐに理解することができなかった。
「富野くんは仕事も丁寧だし、この二年でもう、すっかり業務を覚えてくれてる。もし他に就職先を探しているなら、ぜひこのままうちで働いてはくれないだろうか。」
「あ……自分が、ですか?あ、えっと……。まだ、先のこと何も考えてなくて。学校も通信なので、まだ一年あるんですが。」
「あ!そうかぁ!いや、もう三年生だっていうから、もう三月には卒業だと勘違いしてしまっていた。申し訳ない。それじゃあ、この話は再来年からってことで、考えておいてはくれないかな?」
「あ……はい、分かりました。」
予想もしないことを言われて、深く考えられないまま帰路につく。最寄り駅に着いて、バスに乗っているとき、どうやってここまで帰ってきたのかを思い出せないくらい、何も考えられていなかった。窓の外に流れる見慣れた景色を眺めていると、少しずつ実感が湧いてくる。窓ガラスに映った自分の顔は、小さく微笑んでいた。こんな自分でも必要とされる場所があることが、素直に嬉しかったのだ。
家に着くと、リビングに父親がいて、自分は眉をひそめる。父親はたいてい、平日は夜にしか帰らないし、家にいるとしたら土日くらい。だから、なるべく顔を合わせないように過ごすことができた。日曜日は朝からスクーリングへ行って、土曜日はアルバイトだと嘘をつき、一日のほとんどを図書館で過ごす。そうして避けてきたひとが、いま目の前にいる。父親はこちらに視線を向け、口元にいやな笑みを浮かべた。
「今度は受験に失敗しないだろうな?」
その声を聴きたくもなければ、話したくもない。無視してリビングを出ようとすると、父は話を続ける。
「まさかあんな大失敗を忘れたのか。俺なら恥ずかしくて、生きていられないような出来事だっていうのに。」
「お父さん、そういう言い方。」
キッチンにいた母が出てきて、父を制止する。自分のせいで母の手を煩わせるのは嫌だった。溜め息をついて振り返り、その目を見る。
「高校、いいところだったし行ってよかったと思ってる。一度だって見に来たこともない父さんの基準で、勝手に判断しないでくれ。」
「はぁ?通信制がいいところ?……馬鹿らしい。いかにも落ちこぼれの集まりだろ。うちの会社の面接に来たら、確実に不採用。お前の学歴はそういうものだ。お前はその自覚が足りない。ただ、最終学歴さえよければ途中はどうだっていい。今度こそ、きちんと受験勉強をして、大学はちゃんとしたところへ行きなさい。」
父親の声を受け取る耳も、言葉を理解するために働く脳も、全部どろどろに腐っていくような感覚だった。
「……行かないよ。大学。」
「おいおい……。何を聞いていたんだ。今のお前の学歴じゃ、どこの会社にも受からないって話をしてるんだ。」
「父さんはそう言うけど……俺もうバイト先から内定もらったから。卒業したらそこへ就職する。」
母が驚いて、すぐに表情をパッと輝かせる。母と目が合ったのが、少しだけ気恥ずかしかった。
「瑛亮、内定もらったの?……すごいじゃない。」
「ああ……うん。なんか、向こうがそう言ってくれて。」
「そっか。毎日頑張ってたもんね。」
母との会話を遮るように、いやな声の混ざった大きな溜め息が耳に入ってくる。
「なんだ、その向上心の欠片も無い進路は。呆れる。お前には失望したぞ。」
「父さんは……何がしたいの?平均ど真ん中の普通か、それ以上にこだわって、誰かと自分を比べたりするのって、なんか楽しい?俺は、誰かと比べて劣ってたとしても、今の生活でじゅうぶん満足してるけど。」
父はよく、世間体を気にした。父の兄弟は皆、勉強やスポーツのどちらか、あるいはどちらも優秀で、その子供である自分の従兄弟たちも、その類だった。兄弟で一番末である父は、常に劣等感を抱えて、それに抗おうとしている。だから、普通以下と判断したひとを、異常なほど見下す。こびりついた劣等感など、受け入れてしまったほうが楽なのに。このひとはこの年になっても、まだ兄弟と自分の出来を比べ、劣る箇所を見つけては独りで抗っている、可哀想な人間なのだ。
[次回更新]3月13日 金曜日 23時予定




