匂い
[登場人物]
富野瑛亮(14)中学三年生
吉沢花音(14)中学三年生
日が落ちて薄暗くなった部屋、ベッドの上に仰向けになり、天井へ向かって溜め息をつく。
花音のことが好きなのは、今に始まったことじゃない。家が近所で、同じ幼稚園に通って、親同士が仲良くて、物心つく頃には好きだった。その頃から今まで成長していないのか、ずっと花音が魅力的だからか、好き、という感情は変わらなかった。
しかし今日、少し形を変えた。漠然とした子供心から、ちゃんとした性愛感情として意識し、行動にまで移させた。あの肌を、色を、思い出すだけで、全身の神経がジリジリと熱くなって抗えない。今まで、そのためにあるような対象で発散すれば、それで終わりだった。何を思うこともなかった。だけど今は、罪悪感が残って消えない。
今まで続いていた純粋な感情に、非難されるみたいだった。
「瑛亮!下りて来て!」
突然聞こえた母親の声に飛び起き、ベッドの足元にあったゴミ箱を蹴飛ばす。自分でやったことなのにイライラして、そのまま部屋を出ようとしたところで、母親が階段を上がる足音が聞こえる。足元に散らばったのは、絶対に悟られたくない。一気に焦る。
足音が部屋の前に来るまでに、扉を開けて顔を出す。
「今行くから!」
「早くしてよ、花音ちゃんわざわざ来てくれてるんだから。」
「えっ、は?まじで?」
散らばったゴミを急いで片付けて、階段を駆け下りる。すぐ下に見える玄関で、花音が紙袋を持って立っていた。
「え、何、どうした?」
花音と目が合い、少しずつ心拍数が上がっていく。彼女は微笑み、紙袋の中身を取り出してみせた。
「これ、ありがとう。」
それはついさっき貸したジャージだった。鮮明に焼き付いたあの状況を思い出し、戸惑いながら受け取る。
「明日、体育あるでしょ?洗っておいたよ。家近いから、届けちゃったほうが楽かなって思ってさ。」
「えっ俺が悪かったのに、ごめん。ありがとう。」
「いいの!助かったよ。やっぱりエイちゃんって優しいよね。」
「いや……。元はと言えば俺が水ぶっ掛けたんじゃん。」
「あれは仕方ないじゃん!わざとじゃないでしょ?」
「まぁ……。」
ジャージを受け取ると、花音は「じゃあね」と言ってすぐに玄関を出て行こうとした。学校以外で会うのなんて久しぶりで、もう少し話していたくなった。
「家まで送るわ。」
花音は遠慮していたが、一緒に外へ出てしまったら受け入れたようだった。小学生の頃、一緒に帰っていたことを懐かしみながら、なんでもない近所を最短距離で歩くだけ。
ここに新しく出来た一軒家は、数年前はキャベツが植えてある畑だったとか、あの家で最近飼われ始めた子犬が、時々窓からこちらを見ていて可愛いだとか、他愛もない話。すぐに花音の家に着いて、玄関前で手を振って別れる。
手に持った自分のジャージから、嗅ぎ慣れない柔軟剤のいい匂いがして、思わず近くで嗅いでしまう。匂いは不思議だ。脳は無意識に記憶していて、この匂いを花音のものだと判定する。
いてもたってもいられなくて、走って家に帰った。部屋に直行して、いつもの調子でベッドの上にジャージを放る。
そんな意図は無かったのに、まるでそこに、教室で見た花音が寝そべっているかのように思えて息を呑む。触れたくて、知りたくて、確かめたい。
衝動的に伸ばした手を止める。また性懲りもなく、想像の中で好きな人を犯すのか。こんなことをしているとバレたら、きっと幻滅どころか、軽蔑される。この感情のどこまでを「好き」に分類していいのだろうか。
「人がキスをするのはね。気持ちいいからだよ。」
唐突に、すっかり忘れていた彼の言葉を思い出す。ハッとした。
何を馬鹿馬鹿しいことを、ちまちまと考えていたんだ。人は快楽を求めて当たり前だったんだ。自制が効く大人でさえ、この衝動を止めないのなら、何を聖人ぶって罪悪感を抱える必要がある?
途中で止めた手を伸ばし、抱きかかえるように隣へ寝そべる。痛いくらいに熱い体が、花音の幻影をそこに見せる。いくら想像したって、自分の手の温度しか知らないから、それは幻のままそこにいるだけ。目を閉じても視えるのをいいことに、何度も聞いた声を再現して、焼き付いたあの状況をも重ねて補完する。
その内に満足してしまったら、そうまでして快楽に浸りたかったのか、と再び思うのだ。ずっと変わらず好きだったからこそ、過去の自分に罵られれるのは、まだ過去のほうが長いから。それも段々、飽きられて当たり前になった頃には、現実で関係性が発展しているかもしれない。だったら抗う必要なんて、最初から無かったのだ。
仕方がない。わざとじゃなかったから。
[次回更新]10月28日 火曜日 23時予定




