恩人
[登場人物]
富野瑛亮(16)高校一年生
三家繁里(88)蒼太の祖父
岡本時国(87)
岡本さんは杖を離し、マスターと抱擁を交わす。杖が倒れ、バチンと床に落ちる音が、店内に響いた。ここから見える岡本さんの手は、マスターの背をさすっていて、鼻をすする音も聞こえた。岡本さんの隣の女性も、ハンカチを片手に涙ぐんでいる。しばらくの沈黙の後、マスターがゆっくり息を吐いて、顔を上げる。
「ああ……生きてたか。生きて、帰れたか。」
そう言ったマスターも、涙で声が揺らいでいた。
「三家さんこそ。よかった、本当によかった。」
マスターは頷きながら、岡本さんを慰めるように肩を叩く。その後で、入口から一番近いテーブル席へ案内する。
「まぁ、せっかく来てくれたんだ。そこ座って、コーヒーでも飲んでってくれよ。」
「ええ、もちろんです。」
岡本さんと隣の女性が席へ座り、マスターは札を「準備中」に変えて、カウンターへ戻って来るなりコーヒー豆を挽いた。その横顔は、何か考えに耽けるような顔をしていた。
「喫茶店、本当に開いたんですねぇ。」
岡本さんがそう言った。
「帰って来て何年か経ってからかな。店開くために、お金もずいぶんと借りたけどね。」
「立派ですよ、夢を叶えて。もう閉店したんだと思って来ましたよ。娘にインターネットで調べてもらってね。でも、もしかしたら近くに住んでるかもしれないからって、来てみたら。」
「まだ店やってたなぁ。ははは。」
「そう。来てみて正解でした。」
二人は声を揃えて笑う。一方で、自分は役目もなく、彼らの会話を聞いているしかなかった。
「一度は閉めたんだけどね。近所の人の溜まり場として、土日だけ開けてたんだ。まさか、岡本さんにまた会えるとは。続けててよかった。」
「いやぁ。三家さんのコーヒーを飲める日が来るなんて、あのころは思いもしなかったなぁ。」
「本当に、生きてたらなんでもできるもんだ。」
「その通りですね。」
マスターが隣で、コーヒーを三つ淹れる。手伝えることはないかと、ずっとマスターを見ていた自分も、立ち上がってカップを一つ持つ。
「ああ、ありがとう。」
岡本さんのテーブルへ持って行って、マスターが先に、岡本さんの前に一つ、女性の前に一つ置いた。
「私もここへお邪魔しようかな。富野くん、この手前に置いといてくれるかい。」
「はい。」
言われたところへコーヒーを置き、岡本さんたちと目が合う。軽く頭を下げて、カウンターの中へ戻った。その間にマスターは椅子を持ってきて、岡本さんたちのテーブルに合流する。
「積もる話もあるでしょうから、今日は午後から貸切だ。ははは。」
「特別待遇だ。ありがたい。」
マスターは岡本さんと話をしながら、一緒にコーヒーを飲む。昔のことから最近のことまで、色んな話をして、最後に必ず二人は「生きている」ことに感謝をする。それが聞こえてくるたび、胸が締めつけられた。
一年前のあの日から、自分は葛西を追い込んでおきながら、今も生きている事実を、ずっと否定し続けた。そんな自分には、とても「生きていてよかった」なんてことが言えない。マスターたちの歳くらいまで生きていたら、こんな考えも、浮かばなくなるのだろうか。目線を自分の手のひらに落とし、青黒く残る痣を見た。自分は死ぬまで、葛西を過去にしたくない。
「そうして死ぬのが、よいとされてた時代だからねぇ。」
テーブル席で話している二人から聞こえた言葉に、顔を上げた。マスターの優しい声には、似つかわしくない言い回しに、心がざわつく。
「今思えばとんでもない話ですよ。私は今でも、生きて帰った自分を誇りに思う。あのとき、三家さんが咄嗟に米兵を撃っていなかったら、私は確実に死んでいたんだ。」
岡本さんの言葉で、やっと状況を理解する。彼らが話しているのは、戦争の話だ。途端に、体中がぞわっとして、怖さからなのか、その場で固まってしまった。
マスターと岡本さんは戦地で出会い、今日ここで再会した。そんな奇跡的な状況が、今、目の前で起きている。生きるために敵を撃ち、一歩間違えば命を落とす。戦地で死ぬことがよいとされた時代。その生々しい歴史の片鱗を持つ二人の再会に、自分は居合わせた。今の今まで、戦争なんて歴史上の出来事だった。それを急にすぐそばで感じ、深く考えもしなかったことを、肌身で感じる。だから二人は口々に、「生きていてよかった」と言うのだ。
岡本さんは話を続ける。
「あなたは、私の命の恩人だ。こうして岡本の家が続いたのも、あなたのおかげです。本当に、ありがとう。」
「いやいや。生き抜いたのは、あなたの力だよ。」
二人は何度か同じことを言い合って、段々と面白くなってきたのか、最後には笑っていた。
激動の時代を生き抜いた、彼らの強さを目の当たりにしても、まだ自分は「生きている」ことに感謝ができない。自分の未熟さに腹が立ち、再び、手のひらの痣を見る。こんなとき、葛西ならどう思うだろう。
葛西は自分なんかよりずいぶん頭がよかったから、歴史のこともよく知っていたはずだ。でも、それを知っていながら、他人事だと割り切って何も思わないでいてくれたらいいのに、と葛西に期待する。自分はちっとも良識なんて持ち合わせていない。ただ葛西に、自分の至らなさを肯定してほしいだけの、未熟な人間だ。
[次回更新]2月27日 金曜日 23時予定




