喫茶店
[登場人物]
富野瑛亮(16)高校一年生
三家繁里(88)蒼太の祖父
マスターは手始めに、カウンターの後ろにあるレコードで音楽を流す。それから、テーブルとカウンターをふきんで拭いて、入口横の窓に掛かっている札を「営業中」に変えた。開店準備を終えたマスターは、カウンター内に置かれた椅子に腰掛け、天井のすぐ下、店内の角に取り付けられたテレビをつける。カウンターの奥にいる自分には、テレビで流れる朝のワイドショーに、音はレコードのクラシック音楽が聴こえるような状況だった。
開店から三十分ほど経ったころ、常連らしいお客さんがやって来て、マスターに挨拶をしながらカウンター席へ座る。マスターがコーヒー豆を挽き、熱いお湯を注ぐと、柔らかなコーヒーの香りが店中に広がった。コーヒーが一杯できあがるのと同じくらいにトーストが焼けて、鍋から出したゆで卵と一緒に皿に盛る。
マスターの動き一つ一つには、まったく無駄なものがなく、自分はそれにひどく感動していた。長い間続けてきた工程が、すべて体に染みついている。これが、プロなのだと思った。
マスターは常連さんと一緒にコーヒーを飲みながら、テレビを見て、会話をする。二人にとってこれは、なんてことない日常でありながら、無くてはならない時間なのだろうということが、端から見ていても伝わった。
それから、何人か常連さんがやって来て、一言挨拶を交わしてから、皆近くの席に座る。たいていのひとはカウンター席へ座り、マスターがコーヒーを淹れ、トーストとゆで卵を皿に盛る。なにか大事な話をするでもなく、聞こえてくるのは日常的な会話。彼らの日常が、当たり前に目の前で過ぎていくので、自分だけがどこか違う世界からやって来たような感覚がしていた。
常連さんは代わる代わるやって来るが、新規らしいお客さんは一人も現れなかった。結局、自分が出る幕など、ほとんどないまま午前中が過ぎようとしていた。お昼前になると、営業時間を知っている常連さんは、お会計を済ませて次々と帰っていく。
最後の一人が帰ると、マスターは椅子から立ち上がって、シャツの袖口をまくりながら、こちらを見る。
「富野くんは、オムライス食べれるかい?」
「えっ、あ、はい。」
マスターは冷蔵庫から、卵とボウルに入ったご飯を取り出す。
「そうか。そしたら、お昼はそれでいいかな?」
「えっいいんですか?」
思わず、椅子から立ち上がった。マスターはこちらに耳を傾け、聞き直す。
「ん?悪いね、耳が遠くて。」
「あ……ありがとうございます!」
さっき言った言葉よりも、こっちのほうが端的で伝わりやすいと考え直して、そう声を張った。
「ははは、いえいえ。少し待っていてね。」
マスターはフライパンを火にかけ、鶏肉、玉ねぎ、ご飯とケチャップを入れて手際よく炒め、途中で調味料を入れる。ケチャップと玉ねぎの香ばしい匂いが、緊張感で忘れていた食欲を掻き立てる。
「昔はね、ここで料理も出してたんだけど、今は、まかない飯だねぇ。」
「へぇ……。」
頷きながら聞いて、マスターの手元をずっと見ていた。具材が全てケチャップと絡まり、フライパンの中にチキンライスができあがる。
「一度店を閉めてから、料理を出すのはやめてしまってね。もう、八年くらい前か。店閉めるって言ったら、常連のひとたちに、コーヒーだけでいいから続けてくれって毎日言われてなぁ。つい押し負けて、今でも店を開けなきゃならなくなってる。」
マスターが「ははは」と高らかに笑い、自分も一緒になって笑った。
ボウルに卵を四つ割り入れ、溶き卵にしてから、その半分を、バターを入れた別のフライパンに流し入れる。菜箸で素早くかき混ぜ、丸く焼き固まってきた卵の上に、チキンライス乗せて包む。皿に盛り、最後にケチャップを上からかけて、スプーンと一緒に目の前のカウンターに置いた。
「はい。おまちどうさん。」
「あ、ありがとうございます!」
自分はすぐにカウンターの中から出て、座席のほうからオムライスを受け取った。椅子に座り、顔の前で手を合わせる。
「い、いただきます。」
「はい、召し上がれ。」
硬めに焼かれた卵に、ケチャップの濃い味、中のチキンライスにはコショウが効いていて、噛むと玉ねぎのシャキシャキとした食感がする。具材や調味料の味が、全部綺麗にまとまって、旨味を引き立て合っていた。こんなに美味しいオムライスを食べたのは初めてで、思わず目を見開く。
「どうだい?」
「……すごく、美味しいです!」
「よかった、よかった。孫たちも皆それが好きでね。一番下の子は、これを楽しみに手伝ってるんじゃないかと思うよ。」
「その気持ちも、分かる気がします。」
マスターは楽しそうに笑いながらカウンターを出て、入口横の窓にかけられた「営業中」の札をひっくり返す。それから、自分の分のオムライスを持って、カウンター席に座った。
「富野くんは、今何年生だい?」
口に入ったご飯を急いで飲み込んで、答える。
「……高一です。」
「そうかそうか。勉強は難しいかい?」
「あー……はい。」
「高校生にもなると、勉強も一段と難しくなるかぁ。頑張ってな。」
「はい。」
会話をうまく続けられなくて、こんなふうでよかったのか、と何度も頭の中で返事の代替案を考えた。しかし、マスターにはそんなことどうでもいいようで、視線はすでに、テレビで放送しているドラマのほうへ向いていた。
[次回更新]2月17日 火曜日 23時予定




