門出
[登場人物]
富野瑛亮(15)中学三年生
頼りたいと思うひとも、信じたいと思うひとも、居なくなってしまった。これ以上、母に自分のことで迷惑をかけるわけにいかない。ありのまま弱音を吐けるのは、何も言葉を返さない葛西だけになった。
「休みの日は、家か図書館にいるって、言ってたっけ。」
自分の頭の中だけに存在する葛西が、何も話してくれないのは寂しくて、何か言ってほしくてたまらなかった。葛西のことが知りたい一心で、重たい体を起こし、図書館へ向かった。
初めて図書館の中へ足を踏み入れると、紙の匂いと静かな空間が心地よく感じた。たくさんの本が並ぶ本棚の間を歩いて、ぼうっとタイトルを眺める。葛西も同じ景色を見ていたと思うと、少しだけ近づけたような気がして嬉しかった。しかし、これだけ本があっては、葛西が読んだ本に出会える確率は低いのだろう。読んでいた本のタイトルくらい、覚えておくんだったと後悔した。
読みたいと思う本は特に見当たらないながら、何か読まなければずっと葛西は話してくれないままだと焦って、純文学と書かれた本棚から、適当に目についた本を一冊を取った。「人間失格」というタイトルが、今の自分にはとても惹かれる魅力があった。近くの椅子に座り、表紙をめくる。活字を読むことには苦手意識があったが、もしかしたら葛西も読んだページかもしれないと思うと、次へ次へと文字の羅列に目を通して、ページをめくることができた。
そのうちに、物語の景色が頭の中に浮かんでくる。薄暗い、昔の大きな家の一室で、黙って食事をする大家族の様子だった。思い浮かぶといっても、人の顔までははっきりしない程度の家族から、無言の圧を感じている。自分はその様子を端の席から見ている、そんな景色だった。
ふと、ファミレスで葛西と話したときのことを思い出す。葛西が本を読むのは「現実よりはこっちのほうが退屈しないから」だと言っていた。きっと、このことだったんだろう。物語を読むことで、その一瞬だけでも意識がこの世界の中へ向く。今になって、葛西の言っていたことをまた一つ知ることができた。この日はそれだけで満足して、キリのいいところで本を閉じた。
夕食の席で、めずらしく母が口を開いた。
「瑛亮、卒業式出る?」
「……出たほうが、いい?」
母の様子を伺う。母は心配そうな顔で「無理はしなくていいけど」と言った。母の反応を見て、自分はそんなに弱々しく問い掛けたのか、と不安になった。
高校に落ちた後から、母には迷惑をかけたくないと一層思うようになった。だからこそ、母が何を思っているか、というのは自分の決定の最優先事項だった。「普通」なら、卒業式は出て当たり前だ。しかし、母の様子を見る限り、そこまで卒業式を重要視していない気もした。
母の反応ばかりを気にしていると、頭の中に浮かんだあの景色を思い出した。母と二人の食事は、どことなくあれに似ている。一口大のごはんを口に運んで、押し込むときにそう思った。本の中に書かれていた通りで、食事の時間は苦痛だった。
「……行かない。卒業式出て、また体調崩したら嫌だから。今度こそちゃんと、受かりたいし。」
「それもそうだね。先生に連絡しておくね。」
「うん。」
母のためにも、せめてものことはしなくてはと考えて、公立の通信制高校への受験を決めていた。入試は卒業式の十日後。卒業式で同級生に会うことで、調子が狂うのは避けたかった。
入試は面接と作文で、内容は高校生活で頑張りたいことを書くというものだった。どちらも決して得意とは言えない、どちらかというと避けて過ごしたい分野で、作文を書くのは苦労した。高校で頑張りたいことなど何一つ無くて、法で裁けない自分の罪への戒めに、これからずっと死んだように生きていくことしか決まっていない。高校へ行くのなんて、両親を立てるための通過点でしかない自分にとって、書き始めの一文すらも分からない状態だった。それでも、周りに頼りたいと思うひとは誰一人いない。
図書館へ行って、作文の書き方なる本を見て、一日に何度も書き直しながら、作文を完成させた。面接も、本の中に書いてある基本の方法をひたすら頭の中で反芻した。高校へ行きたい、という意欲があるように見せるのは母の前でだけで、本音を言えば、自分の進路なんかどうでもよかった。失敗したら失敗したでいい、という半ば投げやりな諦めがついていた。面接の実践ができないことには不安があったが、自分なんかのために、誰かに時間を割いてもらうことのほうが、今の自分にはつらかった。
数か月ぶりに、中学校へ行った。卒業証書を受け取って、願書に同封する作文を一度見てもらうためだった。「卒業式」と書かれた衝立が立てられた校門を通り過ぎ、二度と来ることが無いと思っていた校舎の入口が見えた。あの日のブルーシートを思い出すと、なかなか足は進まず、呼吸が苦しくなる。ぐっと拳に力を入れ、下を向きながら校舎へ入った。
校長室で卒業証書を受け取り、校長と教頭、担任教師に深々と頭を下げて、何度も「すみません」と言った。自分なんかのためだけに余計に時間を取らせてしまったこと、二学期と三学期、全く授業へ出なかったこと。そして、何も考えずに行動して、同級生を一人を死なせてしまったこと、責任の取れない弱い人間であること。そんな意味を含んだ「すみません」を、何度も繰り返した。謝っても、許されるわけはないことは、分かっていた。
教師たちは皆、一様に困った顔を続けていた。空気を変えるように、担任教師が入試の作文について切り出した。鞄から提出用の用紙を取り出し、担任が目を通す。
「うん、よく書けているね。面接のほうは、大丈夫そう?」
「はい。」
「じゃあ……当日は頑張ってね。」
教師たちに背中を押されるようにして、校長室を出た。これでもう、本当に二度と中学へ来ることは無くなった。葛西と出会い、自分の罪を自覚した場所だった。
参照文献 「人間失格」太宰治
[次回更新]1月23日 金曜日 23時予定




