模索
[登場人物]
富野瑛亮(15)中学三年生
呼吸が不安定なまま来た道を戻った。下を向いて歩いているせいで、向こうから来る人と何度もぶつかりそうになりながら、頭の中で朝からの記憶を辿る。
起きてすぐ、ポケットの中に鍵を入れたのは間違いない。ポケットの中で手が鍵に触れたとき、緊張した気持ちが和らいだ。それは家を出てから、ここまで来る間のことだ。途中の道に鍵は必ずある。
頭では分かっているのに、気持ちは平常心を失いそうなほど焦る。早く見つけなければと急ぐせいで、足元の雪に足を取られ、後ろに仰け反り尻もちをつく。ほとんど溶けた地面の雪が、ズボンに染み入る。不快な感覚が感情を苛立たせた。冷たい風が吹くたび、濡れた部分は冷たさで感覚を無くし、体温を奪っていく。
地面に目を凝らして歩いても、鍵は一向に見つからない。無情に過ぎていく時間と、周りを通る受験生が少なくなっていく光景が、集中力を奪っていく。寒さと焦り、不安感のせいで上手く呼吸ができなかった。もう雪の上など関係なく、鞄をその場に置き、母に持たされた薬を震える手で鞄の中から取り出し、水で胃の中へ流し込む。その場でうずくまり、風にさらされるたび勝手に震え出す体を必死に抑えた。道行く人は皆、自分の姿を不審に思い視線を投げかけた。
少し気持ちが落ち着いてきて、ふと思い出す。鍵に触れたのは、歩道の雪が少なくなってポケットに手を入れたタイミング、つまり大通りに出てからだ。冷え切った体を持ち上げ、大通りの道を何度も往復した。歩道の真ん中からずれて、端の日陰で半分雪に埋もれた状態の鍵が、そこに落ちていた。
「あ……あった……。」
おそらくカイロをポケットから出したときに鍵を落とし、後から来た人に蹴飛ばされたりしながら、ここへ来たのだろう。ようやく鍵を見つけたときには、試験開始時刻をとっくに過ぎていた。急いで高校までの道を走る。冷たい空気が喉の奥を刺し、血の滲む味がした。鞄の底に付いた泥がジャケットに移り、靴の中やズボンの裾は雪で濡れて、足先の感覚はほとんど感じなかった。校門をくぐり、そこにいた教師らしいひとが眉間にしわを寄せ、大幅に遅刻している事実と汚らしい格好を蔑視してから、自分を教室へ案内した。
すでに一科目は終了しており、次の試験が始まる前にやっと席へ着いた。教室に入ったとき、着席している受験生から冷たい視線を感じたが、気にするほどの余裕はなかった。足元から腰にかけては雪に濡れた冷たさが残り、小刻みに震える手は、書き慣れた名前さえ上手く書けないほどだった。ずっと、自分がこういう未来を選んだことを、葛西は許してくれていないのではと気が気ではなかった。
試験が終わっても、自分の中では何も変わった気がしなかった。自分には曇って見えない希望を、周りの受験生は皆見ているみたいに表情が明るかった。帰り道を歩きながら、ポケットに入った鍵に触れる。
「葛西……。そんなに俺、一人で行っちゃだめなのかな。引き留めたのは、やっぱり俺を許さないってこと……?」
葛西は当然、何も答えなかった。
玄関の扉を開けると、すぐに母はリビングから顔を出す。
「おかえり……どうしたの。大丈夫?」
あまりにもみすぼらしい自分の姿に、母は驚いていた。
「……ごめん。」
「え?」
「たぶん、落ちたと思う。」
絞り出すように、そう言った。自分が招いた現状に、母を巻き込まないため、たった数か月だけれど頑張った受験勉強は、今この瞬間全く意味のないものになった。
「……瑛亮が自分でそう思うの?」
母の返事に黙って頷く。
「瑛亮は、よく頑張ったと思うよ。」
母の言葉は、全く想像もしていないものだった。受験に失敗して、高校へ行けないことが確定したのに、母は自分を見捨てなかった。
「寒かったでしょ。お湯入れるから、今日はもうお風呂入っちゃったら?」
「うん……。ありがとう。」
母は微笑んで、頷く。
「あのさ。父さんには自分から話すから。母さんは、何も言わなくて、大丈夫だから。」
「そう、分かった。」
母の返事を聞いてから、自分の部屋へ行ってポケットから鍵を取り出した。雪の中に半分埋もれていた光景が、目に焼き付いていた。いつものように、風呂場で鍵が水に濡れないようビニール袋に包む。
「葛西、ごめんな。俺、置いてかないって言ったのに。やっぱり、どんなこと言っても先に行くなんて、勝手過ぎたよな……。」
気づいたら、そんな本音を口にしていた。
湯船に浸かり目を閉じる。今日までのことを振り返って、自分の判断は正しかったのか。その答えが知りたくて、葛西の言葉を求めていた。共に過ごした、あの短くて濃い時間から、葛西の言葉や行動を思い出す。今の自分に、葛西は何を言うだろう。受験して、勝手に一人で未来へ行こうとして失敗した自分を、嘲笑い軽蔑するだろうか。
ハッとして、目を開ける。葛西が自分の都合で引き留めたことなんて、一度も無かった。葛西は、あんな歪な関係性を自ら望んで、最後に会った日は泣くまでしたのに、それでも辞めるなと言った。それは自分が、自分勝手に葛西を求めてしまったから。きっと葛西は自分を、単に引き留めたわけではない、他に必ず理由があるはずだ。頭の中に葛西を思い浮かべる。
自然に「あっ」と声が出ていた。
「まだ心は怪我をしたままだから、元の場所に戻れない……。」
とっくに怪我は治っているのに、自分が部活へ行けないことを話したとき、葛西が言っていた言葉だった。あのときは意味が分からなかったけれど、印象的な言葉で憶えていた。今になって、やっと意味が分かる。目から落ちた水滴が、湯船に落ちて波紋になった。
「葛西は……俺が無理してるって、教えようとして。あのまま時間通りに着いて、試験を受けて、用紙に名前を書いてしまったら、高校でもまた無理しなきゃいけなくなるから……。だから……引き留めてくれたんだ。」
ビニールに包まれ、タオルの上に置かれた鍵を手に取り、葛西の思いを感じて静かに泣いた。
[次回更新]1月16日 金曜日 23時予定




