変化
[登場人物]
富野瑛亮(15)中学三年生
引き出しの鍵は、常に肌身離さず持つようになった。風呂に入るときでさえ、濡れたりさびたりしないように丁寧に防水対策をして持っていた。葛西との繋がりを自分以外の誰にも触れられないようにするためと、この鍵を持っていることで葛西と常に繋がっていられる気がした。
色付いた木の葉が落ちて木の枝が目立つようになり、季節は冬へと移り変わろうとしていた。それなのに、自分は何も変わっていなかった。
自分なりに、少しは変わろうと努力したことが表れているのが、部屋の隅に並べられたゴミ袋だった。勉強机の上や引き出しの中にある要らないものを捨てるところから始まって、部屋中にそれが伝播した。この部屋にあるものは、ほとんど何も要らなかった。自分にとって必要なのは、机の一番上の右の引き出しの中だけに存在している。その一か所だけは鍵が掛かる仕組みになっていて、葛西との思い出が誰の手にも触れられないようになっている。自分がこの鍵を持っている限り、自分しか葛西との思い出には触れられない。この事実は、毎日飲む薬よりも心に安心感をもたらした。
二ヶ月くらいかけて必要の無いものをまとめたゴミ袋は、何週間か部屋の隅に置いたままだった。ある日の夕食時それを思い出して、母に訊ねた。
「ゴミって、出すのいつ?」
「可燃ゴミなら、明日だけど。玄関に置いといたらまとめて出すよ。」
「分かった。」
食事が終わってすぐ部屋へ行って、溜まったゴミ袋を何往復かして玄関へ置いた。そのうちに母が来て、入口を塞ぐほどのゴミの量に驚いていた。
「えっ。どうしたの、これ?」
「部屋片付けたら、こうなった。」
「ああ……そう。まだある?」
「あと二つくらい。」
再び階段を上がると、後ろから母もついてきて廊下に出されたゴミ袋を一つ持ち、部屋の様子を覗く。部屋と勉強机がすっかり片付いたのを見て、パッと母の表情が明るくなった。
「本当、すっきりしたね。机も。」
「うん。」
翌日、母は仕事の帰りに買ったという問題集を渡してきた。どうやら勉強机が片付いたことで、やっと受験にやる気になったと思ったらしい。言葉が出なかった。
物を捨てたのは、葛西に出会ったころの何も考えない自分を捨てるためだった。過去の自分を否定するために、物を手放した。部屋を見回したときに一目で葛西が死んだのは自分のせいだ、と分かるようにしたかった。あのゴミは過去との決別だった。
母が笑顔で話すのを黙って見てから、受け取る以外に選択肢の無くなった問題集を部屋まで運んで、部屋の中で辺りを見回す。置き場所に困った。
この問題集が、自分の未来に繋がっていると思うとすごく気持ちが悪かった。葛西を過去に残して、自分だけが未来へ行くなんて考えるだけで吐き気がした。今すぐにでも破り捨ててしまいたくて、問題集を持った右手に力が入る。実行できずに留まっていたのは、母があんな笑顔で話す姿を久々に見たからだった。選ぶことに疲れて何を考えても分からなくなって、結局問題集はベッドの下へ投げ入れてしまった。
翌朝、母が扉を叩く音で、やっと現れたばかりの眠気から目を覚ました。
「瑛亮。これ全部ゴミ袋に入ってたけど、何してんの?」
母が部屋の中に入って来るのを見ながら、沸々と怒りがわいた。母は手に、何冊も重ねられた教科書やワークを持っていた。余計なことをするな、と思った。
「今の、三年生の教科書も入ってたよ。間違ってそのまま捨ててたらどうするつもりだったの?」
母は持っていたそれらの束を勉強机の上に置いた。その光景を見て、気が狂いそうになった。
「そこ置くな!」
「えっ?」
「だからどけて!」
いつもはすぐに動けない体が、怒りのおかげか勢いよく起き上がった。母を押しのけて、机上に置かれた教科書の束を床へ落とす。バラバラと落ちる音が部屋中、床を伝って一階まで響く。
机の引き出しの中にある葛西との繋がりだけが大切で、その神聖な領域を汚されたくなかった。母は驚き絶句していた。
「何してんの!?」
「余計なことすんな!もう早く出てって!」
「意味の分からないことしないで!本当に何してるの?」
「出てけって!」
「瑛亮、あんた本当におかしいよ。病院行こう。」
母が腕を掴んで引っ張った。強い力だったが、簡単に振り払うことができてしまった。いつまでもどこか子供扱いの母に嫌気が差した。
「どこも、おかしくない。」
感情は涙になって溢れていた。泣きたいとは思っていなかった。何も悲しくは無かったし、腕を引かれて振り払ったときに怒りも少し落ち着いた。でも、実際は勝手に泣いている。おかしくないと言葉で否定しながら、涙の理由さえも分からない自分は、やっぱりおかしいのかもしれないと考えていた。
母が部屋を出て行こうとして、扉の前で止まった。
「あの子が自分勝手に自殺したりするから。本当、いい迷惑。」
耳から入ったその言葉は、一瞬のうちに体を駆け巡って、触れた部分の温度を全部奪っていった。意識が飛びそうになって、目の前が歪んだ。言葉の意味を理解する前に、体の力が抜けたその時、初めて実感した。今なら、葛西が最期に見た屋上からの景色のあとを、追っても全く恐怖は無いのだろう。
終焉の決意も虚しく、力の抜けた体はもう外へ出掛けられるほどのエネルギーも持ち合わせていなかった。ベッドの上へ這い上がり、いつもの倍の量の睡眠導入剤を飲んで溶けていくようにベッドの中へ身を沈めた。
[次回更新]1月6日 火曜日 23時予定




