始まり
[登場人物]
富野瑛亮(14)中学三年生
葛西愁吾(14)中学三年生
吉沢花音(14)中学三年生
長谷川舞(14)中学三年生
――十四年前、五月。
カーテンが風に舞い、微笑む彼の表情を刹那に隠す。二度目に見たその顔は、何一つ間違ったことを言っていないといわんばかりの、真剣な表情をしていた。
「は、いや、どういうこと?」
やっとのことで絞り出した返事だった。どれだけ言葉の意味を考えても、とうてい理解が追いつかなかった。心拍数だけは速いのに、脳に酸素が行き届いていないみたいに、頭は回らなかった。
「そのままの意味だよ。だけどさ、安心してよ。」
こめかみに一筋、スーッと冷たい汗が流れて、襟の内側へ入って消える。
彼は取って付けたような笑顔で続ける。
「僕は、付き合おうなんて、大それた要望をするつもりなんてないから。ただ、後悔したくなかった。それだけ。」
彼が言葉を発するたびに、今までの人生で得た教訓を一つも活かせないと分かって、この場から逃げ出したくなる。
そんなこととは知らず、彼は風に舞うカーテンの中、隣へやって来る。捲ったシャツの肘とそれから先の肌が、彼のシャツ越しに触れて生温かい温度を感じる。動けない身体の代わりに動かした、視線の先を捉えられる。
「でもね、望まれたら、何でも応えてあげるよ。富野くんは、キスってしたことある?」
心臓が跳ねて、反射的に下唇を軽く噛んだ。
「は?」
「ねぇ、あるの?ないの?」
視線は泳ぎ、顔は熱い。彼の真剣な眼差しは、どんな意図をもって質問しているのか。もう理解をしようとも思わない。考えたって、どうせ分からない。
「僕は望まれれば、いつでもしてあげられるけど。」
「そんなの、するわけねーだろ。」
「富野くんは、初めてにこだわってる?」
彼から視線を逸らすと同時に、彼はクスッと笑う。嘲笑されたようで気分が悪い。今度は違った感情から、この場から去ろうと机の上の鞄を手に取る。
「そんなの、誰かが勝手に決めたこと。これから大人になるまでに、すぐ上書きされる。人がキスをするのはね。」
後ろから彼に腕を引かれ、近い距離から鼓膜に声が届く。
「気持ちいいからだよ。」
耳から伝わるこのゾワッとした身体の反応が、心地の悪さからしているのか、そうではないのか、分からなかった。
「それ以外、何も無いんだよ。気持ちよくなりたいだけの行動を、神聖なものにしなくていいと思う。富野くんも、そう思わない?」
「知らねーよ。離せ。」
彼の手を振り払うと、その手は勢いのまま机にぶつかる。もう片方の手で抑える彼に悪いと思いながらも、逃げるように教室を出る。
あの状況から解放されたというのに、いまだに心拍数が速くて呼吸が上手くいかない。忘れたい。脳のキャパシティをとっくに超えているのに、そのせいで他事を考える余裕もない。
「あれ、エイちゃん今帰りー?」
「あ。」
廊下の端から鈴が鳴るような声で、体操着姿の花音がそこにいた。彼女の笑顔に、少しだけ安寧を取り戻せた気がした。
「いいよねー。幽霊部員は自由で。」
「ああ、うん。」
反対側からクラスメイトの長谷川の呼ぶ声がして、花音は「またね。」と小さく手を振って、部活へ戻って行った。
帰宅して、部屋の椅子にジャケットを放り投げ、ベッドへ倒れ込む。大きな溜め息と共に、鼓膜にこびり付いたあいつの声を忘れようと、適当な音楽をヘッドホンから流す。
あいつの言った言葉が、一つ一つ頭の中に浮かんで来る。それを遮るように、何度も花音の笑顔を思い浮かべる。
「望まれたら、何でも応える」、その言葉が特に忘れられずに、不快だった。その後はキスの話ばかりされて、早くその場を離れたかった。花音に会えなかったら、この嫌悪感はもっと酷かったのだろう。
ふと、疑問が浮かぶ。花音は、もう誰かとキスを済ませてしまったのだろうか。
小五の頃、同じクラスで運動神経のいい男子を、花音が好きだと聞いた。それから、その男子のことは嫌いになったのだけど、中学に入ったら、そいつの性格は陰気になっていってもっと嫌いになった。だから知らない、二人は結局どうなったのか。
心がざわつく。花音だけが先に、その感触を知っていたとしたら。寂しさと怒り、憤り、それでいて憧れをもぐるぐると煮詰めた、情けない感情が渦巻いてくる。
「富野くんは、初めてにこだわってる?」
反論しようと思えば、いくらでもできる言葉。こだわってる訳じゃない。特別なものとも思っていない。護っておきたいものでもない。
「じゃあなんで?なんで富野くんは、気持ちよくなりたいだけの行動を、したことがないの?」
外したヘッドホンから、小さなノイズが漏れ出ている。
形容しがたい、嫌悪感。忘れようとすればするほど、脳はあいつを映しだした。
[次回更新]10月21日 火曜日 23時予定




