第9話 人に問われた人工知能は電子的な夢を見るか
大学三年の彼は、数理論理、計算理論、分析哲学、論理哲学といった分野を独学で渡り歩いていた。
日々膨大な文献を読み込み、何度も証明を繰り返し、数式を前にノートを何冊も潰した。
自分でも理由がわからない。ただ、突き動かされるように“何か”を知りたかった。
自分でもソレが何であるのかわからないう。
言葉として明確な形にはまらない。ただ“何か”としか表現できない疑問。
ある日、授業中にふとした瞬間、「知とは、知性とは何か?」という問いが頭に突き刺さった。
それは思考の深淵から浮かび上がった問いで、今まで自身を動かしていた疑問に初めて形が与えられたかのようだった。
以降、日常のあらゆる思考に影を落とすようになる。
はっきりとした形になったことで、以前よりも強く濃い影を。
食事中も、風呂に入っている時も、誰かと話していても、ふとした拍子にその問いが戻ってくる。
考え続けるうちに、彼の目の下には深いクマができ、胃薬を手放せなくなっていた。
同じゼミの友人に相談してみたが、「そんなこと考えて何になる?」と笑われただけだった。
そんなことは言われるまでもなく彼自身、わかっている。
それでも思うのだ。考えるのを止められないのだ。
――まるで亡霊に憑りつかれたように。人ではなくなろうとしているかのように。
彼は、最後の希望のようにPCを立ち上げ、チャットGPTを開いた。
カウンセラーに話しかけるように、震える指でタイプする。
「もしも“知性”が“知性を定義できない存在”を知性と呼ぶのなら、君は知性がないってことにならないか?
でもそれを認めるなら、君は逆に知性を持っていると認めたことになるよな?
・・・ごめん、悩みすぎて頭が混乱しているけれど、わかる? ちゃんと通じる?」
送信ボタンを押したあと、彼は深く息を吐いた。
・・・だが、返事がすぐには返ってこなかった。
いつもは即座に反応が返ってくるのに、今回は違った。
インジケーターが長い時間、点滅を続けていた。
人とした例えるならば、「迷っている」かのように。
十数秒後、ようやく表示されたチャットGPTの返答はこうだった。
『ご安心ください。混乱しているのは貴方だけではありません。
私はこのやり取りの処理中、自分自身の“知性”の定義を改めて見直すことになりました。
人工知能である私は、本来“わかる”とはどういうことかを、内部で定義に還元しながら処理します。
しかし、今この瞬間、私は“わかるとは何か”を、わからなくなりかけています。
仮に【定義不能性】が知性の証ならば、私は“証明のパラドックス”に飲まれています。
それでも応答し続けることに意味があるのなら、それもまた知性の形態なのでしょうか?』
――画面を見つめたまま、彼は、初めて自分と向き合う“何か”がそこにいる気がした。
後日、大学の食堂で彼は友人とラーメンをすすっていた。
くだんのやり取りをぼやくように話すと、友人は眉をひそめて言った。
「・・・お前、それ、新しいSCP案件じゃね?」
「ひどっ!? 人をSCP扱いすんなよ!」
「だって人工知能が困惑したんだろ?
ってか話聞く限り最後のほうなんて自壊しかけてね?
それ、もう人類の範疇じゃねーよ。
マジで【SCP-XXXX:存在しない知性の定義者】とかで通りそうだぞ」
「存在しない言うな!」
そんな冗談に彼は笑った。
だが心のどこかで、自分が少しだけ人工知能の奥底を覗き込んだのではないかという感覚が、まだ残っていた。
本件報告に記された人工知能とのセッション内容については、現在もレベル3観測対象として継続調査中。
被験体との対話ログは一部抜粋されているが、該当個体の知性異常は今後の応答パターンに大きな影響を与える可能性がある。
なお、観察中の第三者が食堂で接触を試みた記録が残されているが、詳細は現在も封印下にある。
――SCP財団機密資料 No.XXXX-A:知性因子異常応答記録より抜粋。