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ランカスター様とは知らぬ存ぜぬで通したい―エリート出世頭の彼と一夜をともにしてしまいましたが、私は無実です―

作者: 牧之原うに

「知らない天井だ……。」



 私、ヘレナ・シュクレーヌは昨晩のことを必死に思い出そうとした。


 昨晩は、来週から財務部に入職予定の学院生を歓迎すべく、部門で歓迎会を開いたんだっけ。そこで、財務課長に飲まされそうになっていた女の子を助けるべく代打で飲んで……。


 ふと周りをを見渡す。宿屋のベットにしては寝心地がいいなとは思っていたが、調度も美しくどう考えてもお高めのホテルである。



(うん。現実から目をそらしちゃいけないよね。)



 ふと、横を見る。シミ一つない真っ白い肌。高く整った鼻梁。均一に生えそろったまつ毛。さらりとした黒髪。そしてもちろん、見える範囲で洋服は着ていない。


 寝ているだけで壮絶な色気を放つこの青年は、来年から財務部財務課への入職が決まっている話題の彼、クラウス・ランカスターである。



(あっ――これはやっちまったやつ。)



 下着姿の自分を見下ろし、頭を抱えてため息をついた。そして、そそくさと服を着て、その場を立ち去った。







 私が務めているのは、王国の財務部税務課。そしてこちらに配属され早7年。所謂、立派な行き遅れである(が、お願いだからそれは言わないでほしい)。


 どんなに夢であって欲しいと願ったとしても、その日はやって来るものである。


 今日は件の彼の初出社。部署の女性たちが色めき立っている。



「ランカスター様、ほんとかっこいいわ!目の保養……。」

「さすが本家のお方!とっても品があるわ。」



 彼が籍を置く予定の財務課は我が税務課とは異なり、国内の予算編成を担っている。宰相との距離も近い、我が財務部のエリートが一堂に集結する花形課である。対し、各地の領主に“今年もきっちり納めてくださいね”と笑顔で釘を刺す、年中数字とにらめっこな裏方課、それが私のいる税務部。そう、つまり住む世界が違うのである。



――と、思っていたのだ。



「おはようございます。本日より財務部に入庁いたしました、クラウス・ランカスターです。財務課の本所属の前に一度こちらで修行させていただくことになりました。至らぬ点も多いかと思いますが、何卒よろしくお願いいたします。」


 低く、よく通る声。やわらかい笑み。流れるような所作。

 この男、寝てるだけでも色気ダダ漏れだったが、立って話すと完全無欠である。



(なんで課長がこのタイミングでぎっくり腰に……!)



 なんとも不幸なことに飲み会で大はしゃぎしていた財務課長がぎっくり腰になってしまったらしい(飲まされたことを恨んで私が何かをしたというわけではないので先に言っておく)。


 そして、ランカスター様の面倒を見る予定だった財務副課長は、課長の復帰まで代理をせねばならないとのこと。

 そこで「お前らはルーティン業務だけだろうから」みたいなノリで我が税務部に白羽の矢が立ったらしい。

 私は、顔が引きつるのを必死に隠した。もちろん脳内は真っ白だ。何人かの女性職員がすでに彼ををロックオンしているのがわかるが、そんな中、彼の視線がこちらを――



(……えっ、こっち見てる?いや、まさか。いやでも絶対こっち……ああああやめてやめてやめ)



 と、思った次の瞬間。彼が私に向かって、にっこりと微笑んだ。



「ヘレナ先輩。お久しぶりです。」

「……え、あの……その、歓迎会ぶりですね。」

「お世話になります。」



 これ死んだわ。何故か名前呼びされてしまったし。あっちで後輩女子が今にも人殺しそうな顔してるわ。歓迎会ぶりなのはみんなも同じじゃないの?っていうか、なんであえて言ったの?


 妙に意味深なその言い回しと、他の誰でもなく私にだけ向けられる目線に、思わず背筋がぞわりとする。



(いや、気のせい……気のせい……。あの夜のことは忘れてというかどうか忘れていて!お願い!)



 そう祈るように自己暗示をかけていた、その時――



「ヘレナ、彼の教育係、お願いできる?」



“ぱっと見20代にしか見えない35歳”がウリの我が税務課副課長のライル・クレヴァンが、爽やかな笑顔とともに盛大な爆弾を降らせてきた。



「……はい?」

「君なら大丈夫だろう?税務の業務はもちろん、部門間をまたがる業務も一番知ってるし。ほら、彼、特別にうちと財務課を行き来する形だから、両方知ってる人がいいと思って。」



(……地獄のような提案をありがとう、ライル!)



 私は笑った。顔面が引きつったまま。







「じゃあ、まずは庁舎の中をざっと案内してあげて。ヘレナ、頼むね。」

「では、ご案内します。ついてきてください。」



 引きつった笑顔を顔面に貼りつけながら、私は彼を連れて歩き出す。

 一週間前のことを、完全に水に流せるほど大人じゃないが、少なくとも仕事中に引きずるほど子どもでもない。……はずだった。



(うわー、距離近いなー、無言で歩くなー、気まずいなー!!)



「こちらが財務部の書庫。古い記録がぎっしり詰まってて、夏は蒸し風呂、冬は極寒。地獄のような四季を体験できます。」

「ふふっ。覚悟しておきます。」



 いい笑顔で返してくるの、やめてくれません?道中の女性職員の目が本当に痛いんで。



「ここは会議室。主に月初と月末、それから思いつきのように入る急な打ち合わせで使われます。椅子が固いのが地味に辛い。」

「なるほど……。」



 彼は真面目にうなずきながら、黙ってメモを取っている。

 顎にペン先を当てて真剣に考え込んでいるだけなのだが、その横顔さえいちいちかっこいいのが腹立たしい。



「……ここが食堂ね。まあ、メニューは……うん、気合いで選んでください。」

「気合い……ですか?」

「正直、当たりと外れの差が激しいので。初手で“本日のBランチ”に手を出すと後悔しますよ。」

「覚えておきます。先輩は、何が好きなんですか?」

「え? あ、私は……。うーん、ミートパスタかな。とりあえず安全ですので。」

「ミートパスタ、ですね。じゃあ今度、ランチのときにどれか教えてもらってもいいですか?」



(だから、そういうさりげない距離感の詰め方やめて!?!?)



 彼の声は落ち着いていて、口調も丁寧で、どこを取っても“理想の後輩”そのものだった。

 でも、私は知っている。この男、一週間前は私の隣で寝ていたのだ。裸で。



(本人はどこまで覚えてるのか。どのくらいの記憶精度で私と向き合っているのか。怖くて確認なんてできない……。私の意気地なし!)



「そんな感じで、庁舎内の主な施設は以上です。あとは業務をしながら覚えていけば大丈夫だと思われます。」

「ありがとうございます。とても分かりやすかったです。先輩が担当になってくださって本当に嬉しい限りです。」



 ランカスター様はそう言うと、それはそれは美しい微笑みを浮かべた。心の中のわたしがひゃーっと叫ぶ。廊下の反対を歩いていた女性社員2人組が立ち止まって黄色い声を上げている。そのうちのひとりが何やら私を見て呟いている。



「どういたしまして……。」


 

 私は、彼の横で愛想笑いを浮かべながら、密かに肩を落とした。

 

 これは長い戦いになる。

 気まずさと自己防衛と忘れたフリの三重苦――果たして私はこの先、無事に生き延びられるのだろうか。







 配属3日目。

 そろそろ慣れてもいい頃だろうと自分に言い聞かせながら出勤したが、いざ執務室に入ると胃がずんと重くなった。



(ランカスター様、今日も安定して輝いてる……。)



 クラウス・ランカスター。顔良し、声良し、態度も丁寧、仕事もできる。なのに威圧感ゼロで後輩力まで完備されているという、もはやバグみたいな新人だ。



 そしてその“王子様”の教育係に任命されたのが3日前。



(ライルめ……本当にやってくれたわ!一生恨んでやる!)



 朝のちょっとしたあいさつを交わすだけで、周囲の女子職員がざわつくのがわかる。

 そりゃそうだ。あの顔で、あの笑顔で「おはようございます、ヘレナ先輩」なんて言われたら、絵になりすぎて反感を買うに決まっている。



(私はただの地味な先輩です。やめてください。ほんとに。)



 今日もクラウスは書類に目を通しながら、静かにメモを取っていた。

 隣に座っているだけなのに、なんとなく場が整うのだから不思議である。


 そんなとき、背後から聞き慣れた声が飛んできた。



「おーい、ヘレナ。例の精算書、もう出してる?」

「はい、副課長。昨日のうちに処理してあります。」

「ありがとー!さすが早いな~。頼りにしてるよ、ほんと。」



 軽い調子で笑いながら近づいてきたのは、我が部署の副課長、この胃痛の原因であるライル・クレヴァン。いつもの調子でわたしの背をバンと叩いた。その様子を見たランカスター様が驚いたような顔をしている。



(ライル!痛いな!乙女にその態度どうかと思うよ!ランカスター様、驚いているじゃん。ライルも少しは彼の紳士さを見習ってほしいわ。)



「でさ、Bランチ今日唐揚げらしいよ。あれ好きだったよな、お前。」

「……あー、はい。サクサクのやつなら、ですね。」

「今日は、サクサクのほうらしいよ。ソースでべちゃべちゃじゃないほう。」

「それなら今日は当たりの日ですね、それにしようかな。」



 ライルの情報が確かなら、今日はBランチ一択だ。そういえばお腹減ったし食べに行こうかな。



「じゃあ、無くなる前にはやく行こうよ。クラウスくんも一緒にどう?」

「もちろんです!ぜひ。」



(ライル、また人の予定を勝手に……!)



 私は無言で笑顔を作りながら、机の中でそっと胃薬に手を伸ばした。







 食堂の列に並ぶと、案の定というべきか、視線が集まるのがわかった。なぜなら、私の右にはランカスター様、左にはライル。ある意味、両隣に満開の花(爆弾)を抱えてるような構図である。



(女子の視線が痛いよ。視線だけで死ねるよ。)



「Bランチ3つ!お姉さん、クラウスくん若いんだし、唐揚げ大きめの入れてあげて!」



 前に立つライルが、慣れた調子で食堂スタッフに声をかける。

 お姉さんはクラウスを見て一瞬固まり、真っ赤な顔でいそいそとからあげを盛っていく。



(なんか大きいとかじゃなくて、そもそも数が多いような。ずるい……。)



「あっ、ヘレナ先輩、なんだか僕のプレート、唐揚げの量が多いのであとでいくつか分けてもいいですか?」

「だ、大丈夫です!えっと、ありがとうございます……。」

「ヘレナは食い意地が張ってるからな、そんなじっと見てたらそう思われるって。」

「副課長には言われたくありません。」



 そんなやり取りをしていたら、ランカスター様がさらりと私のトレイを取ってくれた。私は慌てて頭を下げる。

 この人、本当に紳士なんですよ。職場で人気が出るの、よくわかる。もうやめてほしい。これ以上、女子社員を敵に回したくない。


 空いている窓際の席に3人で腰を下ろす。唐揚げは想像以上にサクサクしていて、ほんの少しだけ今日の幸福度が回復した。




「そういえば、クラウスくんの歓迎会って、あれ一週間前だったよね~。」



 ライルが箸を進めながら、ふとした調子でそう言った。



「あ、そうですね。」



 思わずぎくっとなる。今、一番出したくない話題を出すあたり、本当にライルは空気を読めない。勘弁してほしい。



「まあ、あの日は大変だったな~。君たち、財務課長にけっこう飲まされてたもんね。」



 私は、唐揚げを咀嚼しながら頷いた。



「正直、あんまり覚えていないんですよね。ランカスター様も結構飲まされてましたからね。ね~(覚えていないよね!そうゆうことでいいよね!)。」



 心の中で念を送る。頼む。


 クラウスは、ほんの一瞬だけこちらを見て――すぐに穏やかな笑みを浮かべて、静かに頷いた。



「……そうですね。あまり、はっきりとは……。」



(よし!!!この人はわかってる!!超えらい!!!)



 内心でガッツポーズを決めた私は、唐揚げを一気に頬張ってごまかした。本当に、今日のは当たりだった。サクサクしてて、味も濃すぎずちょうどいい。



「ヘレナ先輩、そんなにおいしいですか?」

「えっ、あ、はい。がっつき過ぎですよね。すいません。」

「ふふっ、本当に美味しそうに召し上がるんで……よかったです。」



 ランカスター様はまた、なんとも言えない甘さを含む優しい顔で笑った。ただ、その笑顔の奥に、何かひっそりとした複雑さがあったような気がして――



(気のせい、気のせい。全部、気のせい。)



 私は、湧き上がる考えを振り払うかのようにモリモリと唐揚げを食べることにした。うん、きっとあとで胃薬のお世話になるだろう。


 そんな2人のすぐ横で――。


 

 「ふぅん。そうゆうことね。」



 と、ライルが呟いていたのは、誰も気づかなかった。







 時計の針が、十九時をまわっていた。夜の庁舎はひどく静かで、紙とペンの音がやけに響く。いつの間にか皆が帰宅し、執務室には私とランカスター様の姿しかない。



「すいません、巻き込んでしまって。」



 私は、少し申し訳なく思って彼に謝罪した。

 税務課ではよくある“年度跨ぎ処理”というやつで、急遽書類の突き合わせが必要になったのだ。



「いえ、大丈夫です。こういうの、慣れておくに越したことはないですしね。」



 彼はほんのりと笑みを浮かべた。2人の間に静寂が戻る。私は少し気不味くなって口を開こうとしたその時、彼のほうから話しかけてきた。



「先輩は、やっぱり優しいですね。」

「そうですか?」

「はい。配属されたとき、実はちょっと怖かったんです。職場ってどんな空気なんだろうって。でも、先輩が優しく気さくに普通に接してくれて……安心しました。」



(……え、何この人。この百戦錬磨の見た目でこんなにピュアなの?)



「それに、資料の扱い方とか、すごく丁寧に教えてくださって。すごく、助かってます。」



 顔を上げると、彼は真面目な顔でこちらを見ていた。目が合った瞬間、私は思わず視線を逸らした。



(ちょ、待って。こういうこと、普通に言えるのずるい。)



「……そう言ってもらえると、こちらも助かります。やりがいはありますから。」



 精一杯、落ち着いた風を装って答える。けれどその一方で、胸の奥が、なんだかじんわりあたたかくなっていた。



「先輩、あと少しですね。頑張りましょう。」



 静かな声。変に気を遣うでもなく、ただ“そこにいる”感じの優しさ。



(私、もしかしてランカスター様のこと誤解してたかも――ちょっとだけ、可愛い。)



 私は自分のその思考に慌ててフタをした。でもなぜか、今までずっしり重かった書類の束が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。







——それから数日。



 その日の午後は、ちょっとした嵐のようだった。



「すみませんっ……! ヘレナ先輩……っ!」



 駆け寄ってきたのは、新人のリーリエ。手にしていたのは、午前中に提出したばかりの書類。そして、その端には明らかな記入ミス。


 内容は軽微なものだったが、部署をまたいで扱う報告書だったため、対応には神経を使う。私はすぐにその書類を引き取り、必要な差し替えや連絡を手際よく済ませた。同時にリーリエを責めることはせず、「次から気をつけてね」とだけ伝えた。


 彼女は、目に涙を浮かべて何度も頭を下げて去っていった。



(……まあ、よくある話。)



 けれど、ミスを挽回にするには、実務も、段取りも、言葉も――想像以上に体力を使うのだ。お昼ごはんを食べ逃し、食堂の片隅で水を汲んだコップを見ながら、私はため息をついた。


 夕方の食堂は人もまばらで、陽の落ちかけた窓からは柔らかな光が射していた。食後の残り香が漂う中で、私はほんの少しだけ、目を閉じる。



「先輩、ここ、空いてますか?」



 その声に顔を上げると、ランカスター様が立っていた。手には、小さな木のトレイと2つのマグカップ。



「これ……甘いココアです。先輩、ココアお好きですよね?砂糖多めにしています。」

「……私に?」

「はい。さっき、書類の件で、奔走されていたように見えたので。」



 彼は、トレイをそっと私の前に差し出すと、向かいの席に腰を下ろした。私は反射的にココアを受け取り、その温かさに驚く。



「……ありがとう。気が利くのね。」

「いえ。……僕も昔、すごく辛かった時に、こうしてココアをもらったことがあって。すごく救われたことがあったんです。」



 彼は、微笑んでいた。けれどその表情の裏には、どこか懐かしむような影があった。



「だから、僕もできたらなって。少しでも先輩が元気になってくれたらなって思って。」



(あれ?私、ココア好きって言ったっけ?それに、こんなに普通にそんな事、言われると……。)



 困る。心が動く。そんなはずじゃなかったのに。


 私は視線を落とし、両手でマグを包んだ。

 ココアは甘くて、やさしくて――今日の疲れを解してくれる味がした。



「……ありがとう。今日、一番癒やされた気がする。」



 ぽつりと漏らした言葉に、クラウスが少しだけ目を見開いて、そして溶けるように微笑んだ。


 その笑顔が、なんだかとても眩しく見えて、私はまた、マグの中を見つめてごまかすしかなかった。







 翌日、午後の休憩時間。

 長机の上には、分類途中の報告書と業務日誌、そして人差し指でそっと押さえていないと丸まってしまう巻物式の古い帳簿。



「だから、ライル副課長。これは『今年度』の書式ですよ。去年のファイルに突っ込んだら混乱の元になります。」

「え~、でも見た目そっくりじゃない?パッと見じゃ分かんなくないか?」

「“パッと見”で仕事してる人が副課長してるって、ものすごく不安なんですけど。」



「しょうがないなぁ」とつぶやきながら今年度の箱を取ろうと手を伸ばす。



「ヘレナ、ちょっと待って。取るよ。」



 そんな風にライルが覆いかぶさるように手伝おうとしたその時――

 すでに後ろから静かに歩いてきていたランカスター様が、そのやりとりに入ってきた。



「……先輩、重そうな箱ですね。僕、お手伝いします。」



 不意に差し出された手と、やわらかく通る声に、私は一瞬、言葉を失った。



「あ、え……うん、ありがとう……?」



 彼はさっとライルの前に割り込み、自然な所作で箱を持ち上げ、机の上にそっと置くと、私の視線を真っ直ぐに受け止めた。その瞳は、いつもと変わらず穏やかで――でも、ほんの少しだけ、熱を帯びている気がした。



「さすがクラウスくん。優しいね~。」



 ライルが楽しそうに口笛を吹くように言った。



「いえ。ちょっと、手を貸したかっただけです。……先輩には、いつも助けていただいてますから。」



耳の先を赤くして、ランカスター様が答える。



(……ちょ、なにこれ。そんな反応……普通に反則じゃない?)



 心臓が、妙にうるさかった。



「じゃあ僕はこれで失礼します。先ほどの記入作業、引き継ぎますね。」

「……うん、お願いね。」



 ランカスター様が立ち去ったあと、私は何気なく隣のライルを見る。

 彼はにやにやしながら、わざとらしく腕を組んでいた。



「……なに?」

「いや~、“手を貸したかっただけ”か。なるほどなるほど……うん、いいねぇ。」

「副課長、何の話です?」

「なんでもなーい。ヘレナってさ、ほんと鈍いよなあと思って。」

「失礼ですね。」



 全くもって、失礼だ。

 ……でも、その言葉の裏に、何かを見透かされている気がして、私はそれ以上返せなかった。







 数日後。


 午後の空気が、どこか落ち着かない。書類をめくる指先に、少しだけ力が入っていた。



「ねえ、聞いた? クラウス様、来週から本所属に戻るんですって。」



 近くのデスクで小さな声が飛ぶ。私は反射的にそちらを見て――そして、目の前の紙に意識を引き戻した。


 そうか。ついに、その日が来るのだ。



(……そうよね。最初から、そういう約束だったし。)




「おーい、ヘレナ。ちょっといいか。」



 ライルの声に顔を上げると、彼が手をひらひら振りながら近づいてくる。



「クラウスくんの件、ちゃんと聞いてる?」

「……ええ、まぁ。」

「財務の課長、腰がよくなったんだと。だから来週から本所属。まぁ、なんと言ってもランカスター様だからな。名に恥じない優秀さだから、大丈夫だろうとは思うけど。」

「……そうですね。よかった、です。」



 笑った。自分でも驚くほど、自然に笑えた。



「なーんだ、寂しがるかと思ったけど案外冷静じゃん。大人だねぇ、ヘレナ先輩は。」

「寂しがるなんて。もともと一時的な配属ですし。今さらでしょう?」

「ふーん……そう?」



 ライルはまじまじと私の顔を見ていた。そして何かを言いかけて、けれど言葉にせず、肩をすくめて去っていった。


 仕事を終えて庁舎を出たとき、空はすっかり夕焼け色に染まっていた。

 風が冷たくて、でも肌に刺すほどじゃない。普段より自身の足音が大きく聞こえる。



(……わかってたことなのに。)



 クラウスがここに来てからの日々を、頭の中でゆっくりとたどる。

 最初はとにかく気まずかったが、王子様のような見た目とは裏腹に素直で一生懸命な男の子であった。何よりふとした仕草が甘く優しい、それが、いつの間にか――とても心地よかった。



(彼が“戻る”のは、わかってたことなのに。)



 胸の奥が、じんわりと痛む。言葉にできない感情が、胸の内側を静かに叩く。



(私、寂しいんだわ……。)



 ふいに足を止めた。ほんの少し、立ち止まって。

 私はただ、風の中で、言葉にもならないさみしさを抱えていた。







「今日いよいよ最終日だな~。」


 朝一番のデスクワーク中、ライルがふいにそう言って、私の机の端に紙束を置いた。


「……そうですね。あっという間でしたね。」


 指先は書類をめくっているが、視線がほんの一瞬、となりの席へと流れる。

 そこには、いつもと変わらないランカスター様が、変わらぬ丁寧な所作で書類に目を通していた。でも、ほんの少しだけ、背筋がいつもより静かに伸びているように見えた。



「お、珍しくしんみりモード? ヘレナ先輩、まさかとは思いますが……。」

「寂しい、なんて言いませんよ。」

「……言わないのかー、言ってもいいのにー。」



 軽口を飛ばしながら、ライルは私の反応をよく観察していた。


 私も、わかっている。この日が来ることは、最初からわかっていた。

 けれど、いざその日が来てみると――



(……こんなに、胸がきゅうっとなるとは思わなかった。)


「そうだな。じゃあ、今夜は飲みに行こうか。ささやかだけど、お疲れ様会ってことで。」

「……え?」

「いいだろ? 最後に、うちのチームとして一杯くらい!」



 ライルはそう言って、彼の方をちらりと見る。



「僕も……はい。ぜひ、ご一緒したいです。」

「よし、決まり。ヘレナ、今夜空けとけよー。」

「……わかりました。」



 それ以上、何も言えなかった。言わなかった自分を、少しだけ不甲斐なく思いながら、私は静かに頷いた。







 店の奥の小部屋、ランプのやわらかい明かりの下、3人分のグラスが軽やかに鳴った。



「というわけで、クラウスくん、ほんとにお疲れ様!短い間だったけど、いい仕事してくれたわ!」



 ライルがいつもの調子で乾杯の音頭を取る。ランカスター様がグラスを傾け、私も静かにそれに倣った。



「ありがとうございます。未熟な点ばかりで、ご迷惑をおかけしました。」

「いやいや、むしろよくやってたよ。なあ、ヘレナ?」

「……はい。真面目で丁寧で、いつも助かってました。」



 そう口にしてみて、あらためて思う。

 ――ほんとうに、助かっていた。



「クラウスくんは本当に若いのに落ち着いているよね。それに比べてヘレナってさ、新人の頃さ、なんかあるとすーぐオロオロしちゃってさぁ。」

 


 急にライルが私を見て笑った。

 


「書類の出し方間違えて課長に怒鳴られて、廊下の隅でこっそり悔し泣きしてたの、俺は忘れないね~。」

「……ライル、それまだ覚えてたんですか。」

「もちろん。初々しくて可愛かったな~、今じゃもう貫禄のあるお局様だけど。」

「やめてください。まだ年齢的には――」



 と言いかけて、向かいにいるランカスター様の表情にふと気づいた。さっきまでと違って、少しだけ口元が固い。目を伏せて、グラスの氷を弄んでいる。



(……あれ、不機嫌?)



「……あ、ごめんごめん。つい昔話で盛り上がっちゃった。ね、クラウスくん、ついていけなかったよね。悪い悪い。」



 ライルが彼をちらりと見る。



「……いえ。ヘレナ先輩は昔から真面目で素敵だったんだなと、思っただけです。」



(何言ってるの!やめなさい!本気にするから!)



 年甲斐もなく照れてしまった。お酒の効果もあって絶対顔が赤いはず。恥ずかしい。ライルはそんな様子を見て、突然なにかひらめいたかのように立ち上がる。



「そっか~。あっ、用事思い出した!俺、先に帰るわ!2人とも後ははごゆっくり!」



 そう言って、すっと立ち上がると、ライルはひらりと手を振って出ていった。



(……ほんとなんだアイツ!さすがにここで普通は帰らないでしょ!)



 心の中で盛大に文句をつけながら、私は手元のグラスを見つめる。ほんの少しだけ残ったエールの泡が、細かく弾けている。


 間が落ちる。

 気まずいわけではないけど、何を切り出したらいいのか――そんな静けさだ。



「……そろそろ、出ましょうか。」



 私が声をかけると、彼はゆっくり顔を上げた。



「はい。」



 私は立ち上がり、鞄を手に取った。







 店を出た夜道は、少しひんやりしていて、星のない空に街灯の光がぽつぽつとにじんでいた。

 

 私とランカスター様は、並んで歩いていた。


 足音だけがやけに静かで、どちらからともなく、自然と口をつぐんでいた。



「……先輩。」



 彼が、ふいに言った。



「少し……酔い冷ましに付き合っていただけませんか?」


 私は、コクリと頷いた。







 王都の外れにある公園。池のほとりに設置された古い木製のベンチに、私たちは並んで座った。


 静かだった。


 どこかの木の枝が、風に揺れて小さくこすれる音だけが響いている。


「……ヘレナ先輩、本当にお世話になりました。本当にいろいろと優しく教えていただいて嬉しかったです。」

「そんなことないですよ。ランカスター様が優秀だったので、私は何も教えられてないです。むしろこちらこそ助けていただいてありがとうございました。」



 私はそう返して、小さく笑った。

 


「……でも今日、最後だから、ちゃんと謝っておこうと思って。」



でもそのあと、ぽつりとこぼれてしまった。



「謝る?」

「……あの夜のこと。ほんとにごめんなさい」

「……」



胸につかえていた思い。こんないい子に手を出してしまった罪悪感。どうしても伝えたくなってしまった。



「正直あまり覚えていはいないんですけど、はっきり言って、見苦しかったですよね?本当にごめんなさい……」


 笑って言ったつもりだった。

 けれど、どこか、苦しかった。


 そのとき――


「あの……先輩、勘違いがあるといけないので、ちゃんとお伝えしますね。あの日、僕らは一線は越えていませんよ。」

「……えっ?」


 私は驚いた。てっきりあの格好を見て「やっちまった」と思っていたから。


「あの日、酔っ払ってしまった先輩を誰が送るかという話になって、僕が送ることになったのですが、途中で先輩が『休みたい』と仰ったので、近くのホテルに入りました。そこで先輩は……あの、どうも暑かったらしく肌着になられて……。その時についでに僕に対しても『暑いでしょ?』と服を脱がしてしまって。それで僕はソファで寝ますと言ったのですが、先輩が僕にベットで寝てもらえないなら床で寝ると言い張るので、一緒に寝てしまった次第です。ただ、それ以上は何もしていないです。」

「それは……なんというか本当にごめんなさい。本当にただただ迷惑をかけましたね……。」


 改めて自分の残念さに頭を抱えそうだ。ちょっと面倒見すぎなオカン感さえある。



「でも僕は、嫌じゃなかったです」

 


 私が俯いているとランカスター様がぽつりと言った。



「……むしろ、嬉しかったんです。」


 

 横顔が、やさしくて、どこか切なくて。


「先輩に“甘えてもらえた”ことが……ずっと、憧れてた人が、すぐそばにいて。……もちろん、いろいろと抑えるのに大変で、寝付けなかったですけど。」



 そう言って、彼は苦笑した。


 私は、言葉をなくした。鼓動が、跳ねるように早くなっている。


「……実は、先輩。僕たち、昔、会ったことがあるんです。」

「……え?」

「僕が中等部に上がったばかりのころ。いじめられて、裏庭で泣いていた僕に……声をかけてくれた、優しいお姉さんがいました。」


 心が、ゆっくりと思い出に繋がる。


「“ココア、あげる”って言ってくれて、何も聞かずに、隣にいてくれた。それも何度も。」

「……えっ!あの時の!ぽっちゃりした男の子って。」

「はい。僕です。僕は昔は勉強もさほど得意じゃなくて、今より小さくて太ってましたから、いじめられていたんです。そんな僕に先輩は何度も寄り添ってくれて、何度も救われたんです。」



 裏庭で泣いていた小さな男の子を思い出す。丸い目からぽろぽろと涙を流す様子を見ていると、なんだかほっとけなくて、何度も心配して見に行っていた男の子。思わずランカスター様をじっと見ていたら、その子の面影が目の前の彼に重なった。



「でも先輩は卒業してしまって……。でも、忘れられなくて。」


「それからずっと、あの人にまた会いたくて。僕は勉強して、努力して、親も説得して――王城で働くって、決めたんです。」


「あなたに、会いたかったから」


 私は、何も言えなかった。胸が張り裂けそうだ。


「憧れの先輩は、今も昔もまぶしくて。近くにいればいるほど、その気持ちは大きくなって。」

「……あなたが笑って褒めてくれると、あのころの自分に『頑張ったね』って言ってもらえた気がして。一緒に仕事をしているうちにより一層あなたに惹かれていきました。」


 クラウスが、ゆっくりとこちらを向いた。


「僕、やっぱりあなたのことが、好きです。」

「……ただの憧れと思っていたあの気持ちが恋だったとして。僕は二度目の恋に落ちました。」

「ずっと、好きでした。……ヘレナ先輩のことがあきらめられなかったんです。」



 その言葉が落ちると、あたりの音がすっと遠のいたようだった。私は小さく深呼吸をして、膝の上で手を組んだ。


 鼓動は落ち着かなくて、でも、どこか心は静かだった。


「……そっか。」


 それだけ呟いてから、私はふと夜空を見上げた。雲が切れて、小さな星が一つだけ、瞬いていた。


「……じゃあ、もうひとつだけ謝らせてください。」


 ゆっくりと彼のほうを見て、笑った。


「こんなに大切に想ってもらってたのに、気づかなくて、ごめんなさい。」


 クラウスが何かを言おうとしたが、その前に私は言葉を重ねた。


「でも――私、ランカスター様が財務課に戻ってしまうことをとってもさみしく思っていて。今日もずっとそのことが頭から離れなかったんです。」



 私は勇気を振り絞る。



「きっと、これは、あなたと同じ気持ちだったからなんだなと。言われないと気づけなくてごめんなさい。」



 そう言ってから、私はそっと彼の手に、自分の手を重ねた。指先が少し震えていたけど、温かくて、優しかった。



「だから、よろしくお願いします。私もあなたが好きです。」



 彼の目が見開かれて、やがてゆっくりと、穏やかな笑みが浮かんだ。



「……先輩。ヘレナ先輩。夢みたいです。……あの、夢じゃないって確かめてもいいですか?」



 私がコクリと頷くと、2人の影は宵闇の中に重なって溶けた。







 朝の光が、淡く差し込んでくる。カーテンの隙間からこぼれる陽の光が、やさしく頬に触れた。



「知らない天井……ではないわ。」



 寝起きに漏れた言葉に、自分で苦笑する。

 すぐに横を向けば、そこには――



「……ん……。」



 まだ眠たげに目を閉じているクラウスがいた。

 薄い寝息を立てながら、くしゃっとした髪が額に落ちている。



(……なんて、幸せな朝。)



 私はそっと起き上がり、シーツの中から抜け出す。静かに身支度を整えようとしていたとき、



「……先輩、もう起きちゃうんですか……?」



 クラウスの声がした。まだ夢のなかみたいな、甘ったるい声。



「うん。そろそろ起きようかな、と。……おはようございます、ランカスター様。」



 そうからかうように笑って言うと、クラウスは布団に顔を埋めながら、もぞもぞと呟いた。



「……“クラウス”って、呼んでほしいってあれだけ言ったのに……。」



(あっ……もう無理。可愛い。)



「……クラウス、おはよう。」



 そう呼ぶと、クラウスが顔を上げる。その耳まで、真っ赤になっていた。



「……っ、今の、ちょっと……いいですね……。」

「えっ?」

「いえ、なんでも……ないです……。」



 ふふ、と笑っていると、クラウスがそっと私の頬に触れた。



「……やっぱり夢じゃないって、改めて、ちゃんと確かめていいですか?」

「……はい。」



 そう答えた瞬間、彼の唇が、そっと、私の口元に触れた。



 一瞬で、鼓動が跳ね上がる。

 触れたのはほんの数秒。けれど、それは確かに――“今日から始まるふたり”の、最初のキスだった。


後日――。クラウスがふと思い出したように言う。


「それにしてもヘレナ先輩って、ライル副課長と仲いいですよね?」

「ライル?彼、従兄弟ですから。」

「えっ?うそ?やたら距離近いなって思ってて。」

「嫉妬しました?」


私が少しからかうように言うと、クラウスは少し口先を尖らせる。

意外と彼は子どもっぽいところがあるのだ。


「でもいいんです。ライル副課長が知らないヘレナの色んな姿、僕、見てますから。」

「……もうっ。ほんとに。」


彼の指先が、そっと私の手に触れる。


――まったく。

うちの王子様は、油断ならない。


おわり。

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