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今年の漢字と流行語大賞とあと何か

少し早い年越し蕎麦

作者: 黒田皐月

 12月28日午後7時、俺たちは蕎麦屋にいた。

 安く食べようと思ってチェーン店に入ったわけではない。亜子が突然、年越しそ蕎麦を食べたいなどと言いだしたからだ。

 だからそれらしい門構えの店を探して、今ここにいる。この一年で食べ物屋探しがうまくなったものだと、我ながら感心する。

 店に入るまで気づかなかったが、今日は28日、世間一般では仕事納めの日だ。明らかにスーツ姿の会社員ばかりである。

「蕎麦屋ってお酒もいろいろあるんだねえ。知らなかった」

 隣の会社員たちの席に日本酒の瓶が運ばれていくのを見ながら、亜子が感心している。

「俺たちも飲むか? ちょっと」

「ううん、今日はやめとく」

 軽く誘ってみるが、あっさりとかわされる。

「やっぱ年越しだから、豪華に海老天は欠かせないよねえ」

 などと言って亜子が天蒸籠を注文したので、まだ決めかねていた俺は慌てて同じものを頼む。やはり年越し蕎麦のつもりらしい。まだ28日なのに。

「それで? なんで年越し蕎麦が今日な訳?」

 いつもどおりの亜子の急展開ぶりに呆れて、ついそんなことを言ってしまう。今日こそは我慢しようと思っても、この悪気など何ひとつ感じていなさそうな顔を見ると、嫌味のひとつでも言わずにはいられなくなってしまうのだ。

「だって、私明日実家に帰っちゃうし。でも義雄くんと食べたかったんだよね、年越し蕎麦」

「あ、そう…」

 新年を一緒に迎えられない残念と、俺とそういうことをしたいと思ってくれた嬉しさとがないまぜになって、あいまいな返事になってしまう。

「お蕎麦を食べながら今年を振り返るの。義雄くんにとって、今年はどんな年でしたか?」

「亜子に会えた年」

 そんなの即答に決まっている。

 自分は何をしゃべるかまだ考えていなかったのか、亜子はしばらく絶句した。

 常に表情がくるくる変わる亜子の顔が凍りついたようになっているのを見るのは、もしかすると初めてかもしれない。珍しくてつい凝視してしまう。意外とまつげ長い。いや、付けまつげなのか。

「……ずるい」

 そんなことを思っていたら、顔をうつ向かせてしまった。

「私だって、そうだよ……」

 でもそれじゃ話終わっちゃうじゃん、とそのままか細くつぶやく。

 悪いことはしていないのに悪いことをしたような気がして、どう機嫌を取ったらと俺も内心焦りだした頃、

「じゃあさ、今年の流行語大賞って何だっけ?」

 これだ。

 泣いたカラスがもう笑う。表情も言うことも何の脈絡もない、いつものとおり。

「何だっけ……?」

 最近聞いたばかりのことでも、思い出せそうで思い出せない。なまじ思い出せそうなので調べようともせずに頭をひねっていると、もう亜子がスマホで検索していた。

「あそうそう、村神様。野球だったんだ。今年そんなに野球盛り上がってたんだあ」

「ホームラン日本人選手新記録だっけ」

「そう書いてあるね」

 亜子も俺も野球には興味がないので、それ以上話題が膨らまない。話が途切れてしまったところにちょうどよく注文した天蒸籠が来たので、いただくことにする。

 それから、会社員たちのように二次会などということもなく、明日朝早いという亜子をアパートまで送っていく。

「今年と言えば、今年の漢字って何だっけ?」

「戦、だな」

 それは覚えていた。

「戦、かあ……」

 何を思ったか急に立ち止まった亜子が、歩を進めていた俺に引っ張られてつんのめりそうになる。ごめん、と謝ると、なぜか亜子はくすくす笑い出した。

 何だかわからない時は、とりあえず待ってみる。俺が今年覚えたことの一番は、これかもしれない。

「私たちってさ、けっこうバトってたじゃない?」

 ああ、それは間違いない。でもそれはさすがに言ってはいけないだろうと、かろうじて喉元で抑え込む。

「夏の時なんかさ、もう嫌われたんじゃないかと思ってマジで青くなった」

「あれか…」

 夏休み、帰省していた亜子が高校時代の友達に、子供みたいなお前に彼氏なんかできる訳がないとからかわれて、急に呼びつけられたことがあった。バイトの都合で行けないと答えた俺に、亜子は散々駄々をこねて、何を言っているのかわからないほどに泣いてわめいて、一方的に電話を切った。

 さすがに俺も頭に来てそのまま放っておいたら、次の日に亜子の方から電話が来て、今度も何を言っているのかわからないほどに泣きながら謝ってきたのだった。

 それで夏休みが終わるといの一番に実家で飼っている犬の写真を見せてこの子可愛いでしょだったのだから、参った。ああ、俺は亜子に参っているのだなと、その時に本当にわかったような気がする。

「おかーさんにその顔を見られてね、それで謝れって言われて、それで許してもらって。あの時私、初めておかーさんを尊敬した。おかーさんがいなかったら今ごろ、私の隣に義雄くんはいてくれなかったんだもん」

「俺が許してやったから、じゃないのか」

 あの時ほどではないが、それからもけっこう無理を言われ続けている。現に今日だっていきなりだ。

「うー…、そうだよゴメンねありがとね」

 ちょっと口をとがらせて、ちょっと目線をそらして、ちょっとむくれたように、でも顔は俺に向けてそう言った。満足した俺は、無言のまま亜子の手を引いて歩きだした。

 しかし、すぐにその手は逆に引かれた。大通りから住宅街に入る狭い路地だが、アパートの方角ではないはずだ。

「そっち、近道なのか?」

 今度は亜子の方が何も言わない。十歩ほど入ると、そこで足を止めた。ぶつかりそうになった俺はかろうじて直前で踏みとどまったのだが、今度は亜子が急に振り返った。

 近い。

「ねえ、今年最後のバトル、しない?」

 その至近距離から、挑むように俺を見上げる。たじろいだ俺は、思わず半歩下がる。

 しかし、首から後頭部に回された両腕に捕らわれた。風がふわっと、香りを運ぶ。

 そのまま、

 キスをした。

 触れている唇に、もっと温かい感触。それが俺をこじ開けて、侵入してくる。誘われたように俺もそれに触れ返す。

 子供の頃に初めて友達の家に遊びに行った時のような、緊張とか楽しみとかが入り混じった、そして懐かしいような、不思議な、感覚。

 それに気づいたのは、唇が離れて湿った唇に風を感じた瞬間だった。

 行こうと言ったのはどちらだっただろうか、俺たちは大通りに戻り、黙々と歩いていた。それなりの距離があったはずだったが、時間などまったく感じなかった。

「じゃ…じゃあね、よいお年を」

 アパートにつくと、亜子はそれだけ言って俺のそばを離れた。

「よいお年を」

 俺もそんな亜子の後ろ姿に声をかけるのが精いっぱいだった。その後ろ姿が遠ざかっていくのも、早いのか遅いのかよくわからない。

 その亜子が、階段に足をかける直前で、振り返った。

「来年もいろいろ、バトってこうね!」

 それがいい意味なのか悪い意味なのかわからなかったが、

「ああ!」

 などと近所迷惑なのではないかというくらい大きく、答えてしまったのだった。

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