ライラックの香り・リバース版
なんとなく静かな初夏の雰囲気の短編を書きたくなった作品。
こちらは繰り返しを前提に書いた「リバース版」です。
通常版はまだ構想のみで書けていません。
【ライラックの香り・リバース版】
少し汗ばむ初夏の昼さがり、薄紫のワンピースを着た女性がひとり、前を歩いている。彼女がハンカチを落としたのをみつけた私は、「そこの方、ハンカチを落としましたよ。」と、声をかけた。
振り返って私を見た彼女は、すぐ鞄を確認すると足早に私のところにやってきて、「拾っていただいてありがとうございます。そのハンカチはとても大切なものでしたので助かりました。」と言った。
ニコッと笑ってお辞儀をし、ハンカチを受け取って去ってゆく彼女からは、ハンカチと同じライラックの香りがした。
「ライラックの花言葉は純潔だったか。彼女にピッタリの言葉だな」
ふと、意識せず口から漏れたこの言葉に自分でも驚いた。なんだか少しこそばゆい気がした。
私は小城行人、兼業作家だ。
兼業作家というと聞こえはいいが、その実、書店で働きながら細々と小説投稿サイトへ読まれない文章を排泄し続けている名無しだ。
一時は夢を追って、文芸誌の新人賞やコンテストへの応募を続けていたこともあった。だが何度目かの三十路を過ぎ、周囲が就職結婚して行く中で考えを変えた。大学も途中でやめて物書きを気取ってはいても、結局なんの実績も出せずにいた自分を恥じたのだ。
「負けを認めるまでは負けてない」
自分がいくらそう強がっても、親は、友達は、世間は、実績のない日陰者を甘やかしてはくれない。ならせめて格好だけはと、持ち込みで知り合った編集者から、書店の仕事を紹介してもらった。
そうして私は、まだ負けていない兼業作家となったのだ。
散歩から帰った私は冷凍庫を開け、グラスに氷を入れながら、ふとあのハンカチの女性を思い出した。
薄紫色のワンピースに、甘く優しい紫丁香花の香りを纏った彼女。ノースリーブからスラリと伸びた白い腕は、北国の女性の色の白さをイメージさせる。そして耳を擽る鈴の音のような爽やかな声。
「北国の初夏の訪れ。そこに彩りを添えるライラックかぁ、、、」なぜか声に出して納得してしまった。
カランッ
手が止まったままの私に、飲み物に早く溶けたいと願う氷が、風鈴のような音色でかわいらしく催促をしてくる。
「おやおや、彼女の声を真似ているのかい?」
クスクスと笑いながら望み通りアイスコーヒーをグラスに注ぎ、ミルクを表面に浮かべてみた。普段はミルクを入れないが、今日はなんとなく、この小さな硝子の舞台に、北海道の雪原をイメージしてみたくなった。
書斎と銘打ったキッチン脇のテーブルには、大層立派なペン立てが幅を利かせている。そこでも一際目を引くモンブランのポエム。鮮やかなブルーに一目惚れをし、使い勝手も考えず購入した逸品の万年筆だ。
「珍しく私の出番かしら?」
嫌味の一つも言いたくなるのは分かる。最近はもっぱら、小説を書くのはパソコン。背伸びをしてこいつを買った10代の頃こそ使っていたが、私の下がり続けるモチベーションとともに、思い出になろうとしている。
しかし昼下がりのライラックを見てから、どうしても彼女の描写をこの手で、万年筆で表したい衝動に駆られていた。
それを察しただろうこその、彼女なりの嬉しさ半分の皮肉なのだ。
私は、馴染み深い彼女のボディーラインをその手に感じながら、その辺の便箋を引っ張り出した。ライラックの彼女を思い出そうとすると、やはり最初に香りが思い出される。その次は声だ。そして白磁器のような肌と薄紫色のワンピース。
これらの魅力を何も考えず、感性のままに書き連ねた。
「まるでラブレターだな」
苦笑いの後、丸めて捨てる。
これではいけないと、今度はエッセイのようにしてみようと、情景から書き始めることにしたのだった。
『少し汗ばむ初夏の昼さがり、薄紫のワンピースを着た女性がひとり、前を歩いている。彼女がハンカチを落としたのをみつけた私は、「そこの方、ハンカチを落としましたよ。」と、声をかけたーーーー
【リバース】
これは作家の夢なのか、それとも異世界へ迷い込んだのか。
本人も自覚がないので答えはあなた自身で考えて下さい。