第37話 その眼で・見つめ・ないで
風のハンカチが、涙で静かに濡れていく。
誰も応えない。
夢生の言葉に、誰も答えられない。
似た境遇の他人に火を点けられただけの、誰も知らない彼の「罪」からあふれでる身勝手な怒り、悲しみ、虚しさに――共感することなど、誰にも出来ようはずがない。
だから少年も、応えの言葉など求めていない。
ただ、
「――でもね。先輩。そんな僕に、ある日……『天使』がやってきたんです」
「!」
「――むー、」
ただ、知ってほしかったのだ。
その先で少年を待ち受けていた光を。
その奇跡に、少年がどれだけ救われたかを。
「その天使は、逃げてばかりだった僕の背中を押してくれた。何にも踏み込まずに、誰にも踏み込ませずにいた僕の壁を壊して、手を引いて――――霧洩先輩の言葉を聞いてはっきりわかりました。それに僕がどれだけ救われていたか。ちゃんと話して、叱って、導いて――支えてくれる人がいることが、どんなに大切なことか。だから、先輩――――僕達と、友達になりませんか?」
「!」
「――むーくん」
「はぁ……!? と、友達って」
風が笑う。
ハンカチで、涙をぬぐい、泣きはらした目で夢生が笑う。
「僕らとお昼食べましょう。僕らと学校でなんでもない話をしましょう。それで、もし霧洩先輩が辛い目にあったり、苦しいことを思い出したりしたときは――一緒にその話を聞かせてください。そして今日みたいに泣いたり、叫んだりして……そうやって、一緒に前に進んでいきましょう。僕だけじゃない、きっと風ちゃんも、レピアだって話を聞いてくれます」
「いやアタシ別に聞かないけど痛ッッた石なげるなし!?」
「うるさいバカ。――霧洩先輩。もちろん、私もむーくんと同じ気持ちです。そして、こうも思うんです……何かから逃げることで得た力も、立派なあなた自身の力だって」
「! 地味子」
「……紀澄、」
「霧洩先輩とは少し違いますが、私も罪を犯して、自分を誇れない生き方をしていた時期があります。幸い、叔父がそんな私を叱って、導いてくれて……そうして力を磨いてきました。まだまだ道半ばな身であることは自覚しているつもりでしたが……あなたの力は私など遥かに凌駕していた。正直ショックでした。それくらい、先輩の実力はすさまじい。たとえ何かから逃げようと身に付けたものだとしても、その実力は本物です。偽物だなんて誰にも言わせません」
風がレピアを見る。
レピアはどこか照れ臭そうにそっぽを向いて、風に届かない小石を投げた。
「……私は……」
組み伏せられたままのサクラがつぶやく。
風がその拘束を解き――夢生がサクラの正面へ回り込み、
「これからよろしくお願いします。霧洩先輩」
サクラの目を見た。
「――――――――――やめて」
「え?」
「やめてぇぇえええぇえぇぇッッ!!!!!」
『!!?』
――頭を抱え、サクラがうずくまる。
先程の半狂乱に負けない大声で、サクラが叫び続ける。
「な――なんなのマジそいつ、むーに顔見られただけで発狂したの今? ヒステリーにもほどがあん――」
「どうしたんですか先輩、一体むーくんの何が――」
――――レピアと風は気付く。
霧洩サクラが最初に発狂した時も、レピアを守ろうと割り込んだ雛神夢生を正面から「見た」時であったことを。
サクラがレピア・ソプラノカラーを「におい」で識別し、襲いかかっていたことを。
そのサクラが、
〝ぴきょェッ!??!??〟
〝ん……すんすん……〟
そのサクラが――最初ににおいをかいだ人物が誰であったかを。
においをかがれたレピアは、人間ではなかったことを。
では、
「私はキレイ私はキレイ私はキレイ――――だから悪魔に堕ちたりしないッ!! あなたなんか好きにならないなっちゃいけない!!!」
「――――――!!!!!!!!」
〝大好き。ひなくん〟
(むーくん――君はッ)
(むーあんたまさか、)
(僕は、)
では。
雛神夢生は、果たして、人間か?
(僕は、何だ?)
「だからお願いお願いお願い――――ッッその眼で私を見ないでえぇえぇッッッ!!!!」
サクラが落ちた銃を拾い、夢生に向ける。
「っ地味子ッ!」
「しまッ――」
「ごめんなさいごめんなさい――ごめんなさい。雛神君」
銃声。
銃声銃声銃声銃声銃声、銃声。
『――――――――』
六発の弾丸に、撃たれ。
霧洩サクラは、倒れた。
『ッ!!!?』
突如、塔屋から屋上に現れた人物がいた。
理解の追い付かない皆の目が、そちらへ向く。
現れた人物の意味不明さにレピアと風が目を見開き、
「――――――笠木、先輩」
すべてを悟った夢生が、震える声でその名を呼ぶ。
「……間に合った。ホントによかった」
全身に手当と傷の跡が残る笠木が、硝煙を上げる拳銃を下げて歩く。
雛神夢生に、近付いていく。
「何――なんであいつ、今病院でしょ、」
「笠木――なんでこんなッッ」
「は? 決まってんだろ。見て分かんねーのかよ」
笠木が止まる。
止まり、雛神夢生の、前で――――熱く甘い、息を吐く。
「ケガはねーか? 雛神」
「…………………………」
「……は??」
レピアがその意味不明さと嫌悪に、大きな声で疑問を示す。
風が笠木を――雛神夢生の背を、声も出ない様子で見つめる。
「来るのが遅くなった。病院抜けるのも家から銃盗むのも、ちょっと苦労してな。でももう、抑えらんねぇんだ――――やっと気付いたんだ、俺」
(…………笠木は、)
「その目で見るな」という、サクラの言葉が。
風に、確信に近い悪寒を、立ち昇らせる。
(プールで…………むーくんの目を、どれだけ見た?)
「俺はお前が好きだ。雛神」
「…………………………」
「なあ、どうだ? 受け入れてくれるか? 俺、これからはお前のためだったらなんでもするぜ。なんでもできるぜ。お前を必ず守ってやる。病院だっていくらでも抜けてくる。武器だっていくらでも調達してやる。家の奴らを殺してでも――――だから、なあ。受け入れてくれるよな? 雛神。なあ?」
「…………………………」
「……むーくん。こっちを向いてくれる?」
夢生が、ゆっくりと風の声に応じる。
愛と想いをささやき続ける、笠木を背に。
夢生が風を、見る。
思わず風は、目を細めた。
「…………何、むーくん。その目――」
「……え?」
ハンカチが落ちる。
雛神夢生の目は――――その眼には、桃色の円を基調に、緑の深いオーロラのような輝きが揺らめいていた。
「……むー。あんた……人間じゃないの?」
「――――僕は――――」
「ああ。」
恍惚とした、声で。
伏里は屋上へ、現れた。
「とても綺麗な、恋堕の輝きだ」




