第24話 少年・口付ける・十字架
「辛いことがあったの?」
ぼそぼそと、しかし明瞭に聞き取れる印象的な声で話しかけてくるサクラ。
黒髪に覆われた眼鏡の奥で、黒く光る目がまっすぐに夢生を見下ろす。
「ッ……」
顔を隠してしまわんばかりに突き出た、重力さえ蹴散らしていそうな張りのある胸。
その胸の間から何かを言いたげに、そしてどこか蠱惑的に開かれた小さな口。
視線を唇に吸い寄せるような、口元のほくろ。
どこもかしこもが、どこか浮世離れしているように夢生には感じられた。
「……は、はは。すみません霧洩先輩。うるさかったですよね。あの、この間は手の結束バンド、取ってくれてありがとうございました。あれやってくれたの、たぶん先輩ですよね。あれがなかったら僕、何もできないところでした」
「…………」
「さっきのは……気にしないでください。よくあることなんですよ。ホラ、僕なんていつも誰かにパシられて、バカにされて……自分が嫌になって仕方ないことがたまにあるんです。情けない所見られちゃいました。黙っててくれると助かります」
「…………」
「そんなわけなので……今はいいんです。僕には構わないでください」
サクラを遠ざけたいあまり、次から次へと口をつくでまかせ。
このタイミングでどうしてまた女の子なんだ、と悪態さえつきたい思いをこらえ、夢生は赤くなった目で最大限の愛想笑いを浮かべる。
だが、霧洩サクラはまるで聞こえていないかのように、夢生へ手を差し伸べた。
「保健室。行こう?」
〝私の手をとって。むーくん〟
「ッッ――あなた会長の彼女なんでしょうッ!!? どうして僕に構うんですかッ!」
イライラを抑えきれず、ずきずきと痛む片目に手を当て怒鳴る夢生。
印象の良くない、たった二回会っただけの、霧洩サクラと何の関係もない一年生。
(なのにどうして、この人は――――)
〝ん……すんすん……んん、〟
「……!!」
思い出す。
否――余裕がないにせよ、何故あんな衝撃的な出来事を忘れていたのかと、夢生は自分に呆れさえした。
彼女は、夢生のにおいを嗅いだ。
すれ違いざま、何も面識のない夢生のにおいを、何の断りもためらいもなく。
首筋に顔を近づけて、においを嗅いだのだ。
「困ってる後輩に。手を貸すのは当たり前のこと。なんでも言――」
「!!!」
その言葉を、聞きたくなくて――サクラが言い終わらないうちに、夢生は熱いやかんに触れてしまったかのように、彼女の差しだした手をつかむ。
サクラは虚を突かれたのか、夢生の思惑通り言葉を切り、しばし彼を見つめ――やがて腕に力をこめた。
その力を手伝いに感じた夢生はサクラになるべく近寄らないよう、背中の壁を支えにしてなんとか立ち上がる。
「っ、……ありがとう、ございました……」
感じる寒気、目の奥の痛み。
実際、体調も急速に悪くなっているようだった。
食欲の不振。
外傷が原因でない、慢性的な体調不良。
すべてこの二日のことだ。
(……どうなってるんだ? 僕の、体……)
「…………」
霧洩サクラが腰を曲げる。
背の低い夢生に、顔を近づける。
「ッ!!? なに、を――――」
夢生の額に、彼女の額が合わせられた。
〝うん。やっぱりちょっと熱があるね〟
「――ッ!! や、やめて……くださいっ、先輩……!!」
「…………」
ガンガンと痛む目。
消そうとしても消えない、網膜に焼き付く「好き」とその声。
霧洩サクラが、離れない。
「ッっ、く……ぁ……ッ!?」
――少女の額が離れる。
離れ――――代わりに鼻先が、唇が近付き、近付き――
〝もっとちょうだい。むーくん〟
――サクラの鼻先が、夢生のまぶたをかすめ。
「……すん。すん、すんすん……んぅ」
文字通りの目の前で、何かを嗅ぎ始めた。
「…………!」
「くん……ここが一番……ぅん、ん……」
階段の裏。
背後には壁。
前には夢生とサクラの体で押し潰された、胸。
視界がぼやけるほどの熱。
鼻腔に飛びこんでくる、圧倒的なまでの女の香りにしびれる首筋。
体の疲労感も手伝い――天羽の女と何もかもが近いという倒錯的な状況に、夢生は声を上げることも出来なくなっていく。
はぁあ……。と、サクラが息を吐いた。
「――――においが、する」
「ッ!!?」
サクラが顔をわずかに離し、自分の首元にその細い人差し指を差し入れる。
長い黒髪に隠れていた、細い金色の鎖が引っ張られ――サクラの見えない深い谷間から何かが、ずるぅ……と引っ張り出されてくる。
それは十字架。
金色に光り輝く指ほどの長さの十字架が――サクラの胸元で、揺れ弾む。
「なに、を……」
「においがする……から、」
「ッ――!!!!」
サクラが左手で、夢生の頭をなでるようにして抱え――彼をその暴力的な柔らかさと乳臭さの弾力に押し付ける。
〝どう、むーくん〟
人肌に温かい、十字架が――――夢生の口に、触れた。
〝私の、おっぱい〟
「――ゴホン、ゴホン!!」
「ッ!!!!!」
「――――」
――その咳払いに、唐突に。
熱も香りも弾力も、離れた。
「見てしまった以上、注意をさせてもらうよ。学校での不純異性交遊や、それに準ずる行為は一応、校則で禁じられている」
「…………」
「……伏里、先生?」
「それとも――そう見えたのは俺の見間違いかな? 雛神夢生君、そして霧洩サクラさん」
「……彼、熱があるみたいで」
「そうか、ありがとう。じゃあ俺が保健室に連れていこう。風紀派である俺が連れていった方が、色々と面倒がなくていいと思うんだけど。どうかな?」
「…………」
サクラはじっと、眼鏡の奥にある伏里の目を見つめ。
やがて完全に夢生から離れ、伏里に一礼した。
「よろしくお願いします」
「うん。任された。授業に遅れないようにね、と一応言っておくよ」
――まるで何事もなかったかのように。
霧洩サクラは、夢生の前から去っていった。




