02 矛盾
「……」
男はとまどった。
こんな狂った存在の前で、俺は死のうとしているのか。
こんな化け物を満たす為に、俺は死ななければいけないのか。
しかし次の瞬間、思った。
いや、そうじゃない。
これは俺の中に残っている、生への執着が見せている幻なんだ。
こうして人は、幾度となく死の誘惑に打ち勝ち、また悪夢のような現実へと戻っていく。
俺はまた、あの現実に戻りたいのか?
そんな筈はない。もしそうなら今、ここに立っていない。
これは俺にとって、自分との最後の戦いなんだ。そう思った。
男は息を吐いて笑うと、柵から手を離した。
少女の目が見開かれる。
その時、大地が揺れた。
何かにつかまらなければ立っていられない、大きな揺れ。
「じ……地震?」
男は反射的に、柵にしがみついた。
揺れは長い時間、縦と横に揺れ、やがてゆっくりとおさまっていった。
「……」
下を見ると、人々が騒めいてるのが見えた。
電柱にぶつかった車から、クラクションの音が鳴り響いている。
「……おさまった……のか」
男はそうつぶやき、安堵の息を吐いた。
そして次の瞬間、慌てて少女を見上げた。
「お……おい」
少女は柵の上に立ったまま、微動だにせずに男を見下ろしていた。
そして男は、少女の目を見てぞっとした。
男を蔑む冷ややかな視線。
落胆、侮蔑、嫌悪。
様々な負の感情がその目に宿っていた。
「最低」
「え……」
「あなたは今、死のうとした。だけど地震が起きた。これは流石に私も、想定してなかった。でもね……本当に死のうと思っていたなら、どうしてそのまま飛ばなかったの?どうして柵をつかんだの?」
「それは……」
「結局あなたには、死ぬ覚悟なんてなかった。絶望する自分に酔って、自己否定の真似事をして遊んでただけ……ほんと、興覚めだわ」
そう言うと、少女はつま先で柵を蹴り、宙に浮いた。
「こんなの初めて。ほんと、馬鹿馬鹿しい時間だった」
男をどこまでも蔑みながら、少女は空へと上がっていく。
遠ざかっていく少女を見つめる。
まだ柵にしがみついている自分に気付き、情けなくて泣いた。
そして笑った。
滑稽な自分を。
「……」
大の字に寝転がった男は、煙草をくわえて空を見ていた。
――どこまでも青く澄んだ空。
こんなに空を見つめるのは、いつぶりだろうか。
子供の頃、この空に魅入られた。
自分の夢もまた、この空の様に限りなく広がっている、そう信じていた。
しかし今、自分に残された最後の望み、死からも見放された。
そんな自分が滑稽で、男は自嘲気味に笑った。
周囲はまだ騒がしい。
突然襲い掛かった地震は、また世界に消えない爪痕を残した。
誰も望んでいない傷跡を。
「アホらし」
男はそうつぶやき、くわえていた煙草を吐き捨てた。
今すぐこの世界から消えたい、そう思った。
しかし俺はあの時、死から逃げた。生を渇望した。
自分の中にある矛盾に答えが出ないまま立ち上がり、階下へと足を向ける。
あの女の望みを叶えなかった。
それはいい。いや、どちらかと言えばせいせいした。
ざまあみろ。
そして……
自分に残されたこの体。今という時間。
何をしたらいいか、それは分からない。
でもあの時のように、体が動くままに、心が望むままに任せるのもいい、そう思った。
体が軽い。
階段を降りながら、男はもう一度小さく笑い、助けを求める声に向かった。
明日のことは明日の自分に任せよう。
今は……好きなように生きてみるか、そう思った。