女王陛下の時代に
「レディールイーズ、どうなさいましたの」
声をかけらたルイーズは同僚のレディーグレイシーにてあわてて微笑みを返した。
教師としてこの学校に来て以来会っていなかった弟の来訪に、彼女は少しとまどっているのだ。
家を離れて、もう6年。そう、あの時から……
「働くですって! 馬鹿なことを言わないで。ちゃんとした家の娘が仕事をするなんて。いったいあなたは何を考えているの」
激高した母の声に、ルイーズはシチューをすくうスプーンを止めて顔を上げた。
「お母様……。お気持ちはわかります。でも、お父様の遺産だけでは暮らしていけないの。幸いミスター・ブランドンが女学校の教師の口を紹介してくださったわ。わたしにはこれ以上のお仕事は望めないと思います」
「なんてこと。あの男があなたに仕事をですって。なんて恩知らずな。あの人にさんざん世話になったのに」
母はあられもなく叫ぶと、こらえきれないように俯きすすり泣きはじめた。
弟のアレックスは困ったように母と姉の諍いをただ眺めている。
父の友人だったブランドン・ヘイズは残された一家を心配して、ルイーズにそれほど体裁の悪くない仕事を紹介してくれたのだが、女が仕事をするというだけで母には気に入らないのだろう。
ルイーズは目の前の皿を眺めた。
シチューには言い訳け程度の肉しか入っていない。それが今の彼らの暮らしなのだ。弟のアレックスに紳士にふさわしい教育を受けさせるためのお金も、ルイーズに人品卑しからぬ結婚相手を探すための持参金も手元にはない。
だが、ジェントリー階級出身の母に、そんな現実を受け入れろというほうが無理なのかもしれない。
「認めません。そんな恥ずかしいまねをするというなら、もうあなたのことは娘とは認めません。教師にでも何にでもなると良いわ」
ルイーズは喉元からあふれ出そうな言葉と一緒にシチューの最後の一匙を飲み込む。
口に出したのはただ一言だけ。
「ええ、そういたしますわ」
それからずっと、娘盛りの体を黒や灰色のドレスに押し込め、さほど年の変わらない少女たちの教師として過ごしてきた。
久しぶりに会う軍服姿の弟はすっかり背が伸びて少年から青年に変わっていた。
「元気そうね。すっかり背も高くなって、立派に。軍に入ったとことは聞いていたけれど」
アレックスは悲しそうな困ったような曖昧な笑みを返してくる。
「ごめん。ずっと姉上には苦労をかけていたのに会いに来られなくて」
ルイーズは首を振った。
「仕方ないわ。お母様が許してくださらないのだから。でも今日はどうしたの? お母様のお気持ちが変わった。……わけはないわね。もしかして、どこかに赴任することにでもなったの?」
「それもある」
彼は久しぶりの姉の顔を見つめたあと、意を決したように口を開いた。
「母上が亡くなったんだ。ただの風邪かと思っていたんで姉上には知らせなかったんだけど、急に容態が変わって、昨夜」
その時の気持ちをどう言い表せばいいのだろう。
悲しいでもなく、嬉しいでもなく、ただ体からすうっと何かが抜けていく気がした。自分の全てがひどく頼りなくあやふやになっていく。
大きな腕に抱き留められ、自分が倒れかけていたことに気が付いた。
「ごめん。すぐに知らせればよかった」
アレックスは姉をきつく抱きしめる。
しかし大きくなった体にとは裏腹に、声は昔と変わらずどこか頼りなげに響く。
やはり自分は姉なのだ。ルイーズはなんとか気持ちを奮い立たせ微笑みらしきものを作りあげる。
「いいの。あなたが側にいてくれたのでしょう。だったら大丈夫……わたしが側にいてもお母様は喜ばないもの」
言葉にするとひどく痛かった。彼女だって、できることなら母を喜ばせてあげたかったのだ。でも、できなかったから。
「違う……違うんだ」
アレックスがあわてて向き直る。
「取ってあったんだ。姉上からの手紙。たぶん全部だと思う。丁寧に包んで、机の奥にしまい込んであった。何度も何度も開いて読み返したあとがあって」
びっくりして弟の瞳を覗き返す。
「うそ」
送金は――おそらくアレックスのためにだろう――受け取ってもらえたけれど、手紙の返事が返ってきたことは一度として無かったのだ。
「本当だよ。嘘なんかじゃない。本当なんだ。側で見ていてわかったよ。母上は姉上にはずいぶんひどい態度をとっていたけれど、でも、怒っていたのは姉上に対してじゃなかったんだ。母上自身になんだよ。だからこそ姉上と顔を合わせられなかったんだと思う」
つんと鼻の奥が熱くなる。
そう。たぶんそうなのだろう。本当のことを言えば、胸の奥でそのことはうすうすわかっていた。でも、だからといって拒絶され続けた歳月の寂しさが和らぐものでもない。
ただ、それを自分ではない弟の口から聞いたとき、張りつめていたものがほんの少し緩んでいく感じはした。
一筋だけ静かに涙が流れた。
それから二人はぽつりぽつりと思い出話を語り。これからのことを相談した。
それからは慌ただしかった。
取る物も取り敢えず家に戻り、葬儀を終えるとまたとんぼ返りで学院に戻る。
泣いている暇も嘆いている暇もない。
「もう少しゆっくりして来てもよかったのよ」
報告に訪れると、院長のレディークレメンスは苦笑を浮かべた。
「あまり長く授業を休むわけにもいきませんから。でも子どもたちが長期休暇に入ったら、その間に家に戻らせていただいてよろしいでしょうか。弟と今後のことを相談したいんですの」
「もちろんよ。ゆっくりしていらっしゃい。よく話し合ってくるのよ。弟さん、あなたに戻ってきてほしいのではなくて」
そう、今のアレックスなら未婚の姉一人くらいは何の問題もなく養える。母の後悔を受け継いだ彼は、できることならこれ以上姉を働かせたくない。と言った。
「少し。考えたいんです」
レディークレメンスはテーブルの向こうからルイーズを見上げる。
「そうね。あなたがどうしたいかよく考えて決めてちょうだい。わたしとしては生徒たちに慕われているあなたには、ずっとここにいて欲しいわ。でもね。働く女はやはり低く見られてしまうわ。あなたの年なら今から良いお相手を見つけて結婚することも可能よ。弟さんもそのつもりでいるのではないかしら。そのチャンスもあることをよく考えて」
率直な言葉にルイーズはほんの少し悲しくなった。
教室に入ると少女たちが軽やかな笑い声を上げていた。
母の死を彼女たちには知らせていない。
ルイーズを見つけて、キンバリーが駆け寄ってきた。
「先生、ご用は済んだの! ねえ、びっくりしちゃったレディールイーズの弟さんて素敵なのね」
「キンバリー、レディは走ったりしないといつも言っているでしょう」
おてんばでいつも手を焼かされるけれど、裏表のないまっすぐな良い子だ。
「あの、先生を迎えに来られたって本当なんですか」
メイジーが消え入りそうな声で聞いてくる。まじめで頭も良いけれど、気が弱いのが少し心配だ。
「どこからそんな噂話を仕入れたの。わたしはまだまだここにいます。少なくともあなたたちを送り出すまでは。さあ、みんな席について」
少女たちはあたふたと自分の席に戻っていく。
そんな生徒たちの一人一人の顔を眺めていると、ルイーズは自然に笑みが浮かぶのを感じた。
はたして結婚して夫に使える日々は、このやっかいだけれど愛すべき娘たちを見守る今よりもいいものなのだろうか。
それに、仕事をやめたとしても、もしかしたらこのまま老嬢として弟の世話になりながら老いていくだけなのかもしれない。
それでもここを選べば、いつか寂しくなる時が来るのかもしれない。自分の家庭が欲しかったと思う時があるのかもしれない。
選ぶことが許されたからこそ、どちらがいいのか彼女には決められずにいる。
ただ、一つだけ確かなこともある。
初めて教室に立ったときにはひどく心細くて、どこかで惨めさを引きずっていた。けれど今はこの場所にいて幸せを感じている。
生徒たちと過ごした六年の歳月は彼女にとって間違いなく大切な時間だった。
ルイーズは教壇に立ち娘たちを見渡した。
穏やかな春の日差しは、未来ある娘たちを照らし、ルイーズ自身にも降り注いでいた。