第2話:悪戯っぽい後輩
季節は春。
舞い散る桜が新入生たちを歓迎してから二週間ほど経った頃だ。
高校二年に上がったばかりである俺は、茜色に染まる教室で一人、プリントと格闘していた。
それは本来授業中に提出されるはずだった宿題に加えて余計な問題がプラスで印刷されたものだ。
プラスと言っても、実際の所プラスされた問題の方が多かったりするのだが。
せっかく家で宿題をやってきたと言うのに、忘れただけでこの仕打ち。家に取りに帰らせてももらえないなんてあんまりにもあんまりだと愚痴ったところで、聞いてくれる相手は誰もいないため心の中だけに留めておく。
そうして、途中で何度もダラけながらも問題を進めていくが、一向に進まず思わずため息を吐いた。
そのときだ。
「キャーッチ!」
少女の声だった。
活発な印象を与える明るい声。同時に声の主であろう子の両手は、目の前で吐いたため息を包み込むように手が合わされていた。
俺は僅かに驚きながら、いつの間にか近づいていた人物へと顔を向ける。
茶色がかった黒髪をサイドポニーにまとめ、その下に覗くのは、くりっとした大きな瞳。短めのスカートを隠すためかただのおしゃれなのか腰にはピンク色のカーディガンが巻かれていた。
「ため息つくと、幸せが逃げてっちゃいますよ」
「……誰?」
全く見覚えのない女子生徒がそこに居た。
それもそのはずだ。彼女の首元に飾られたリボンの色がまだ入ってから二週間しか経っていない一年生を示す水色だったからだ。
「あれ? 先輩、ひょっとしてあたしのことをご存知でない?」
「いんや、全く」
俺の反応の意味が分からないと言うように、少女は不思議そうに首を傾げた。
何故知っていると思われているのか謎だ。こんな派手な外見していたら、そうそう忘れるとは思えない。
「人違いじゃないのか? 俺には全く覚えがないんだが」
十中八九彼女の勘違いだろうと思いながら発言すると、少女は「いやいやいや」と右手を横に振った。
「ほら、あたしって可愛いじゃないですかぁ」
「…………は?」
一瞬、俺の中で時が止まった。
この女は一体なんの話をしているんだろうか?
俺が頭に疑問符を浮かべている間にも、少女は止まらない。
「新入生代表の挨拶もあたしがしたじゃないですかぁ」
「じゃないですかぁって言われてもな。寝てたから知らんよ」
確かに世間一般的に見れば、彼女は可愛いのかもしれない。だが、だからと言ってそれだけで騒がれて学内アイドル化するのはフィクションの世界だけだ。
というか、こいつが新入生代表の挨拶をしただと?
言われて改めて見てみるが、見た目がギャルギャルしく、偏差値が低そうに見える。
「」
そのことを伝えてやるべきか考えてみるが、宿題のこともあり一瞬で面倒になったので単刀直入に用を尋ねることにした。
「で、何の用だ? 人の幸せを掴みに来た訳でもないだろ?」
「あはは、先輩。ちょっと、何言ってるか分かんないですよぉ」
笑顔で馬鹿にしたように笑い飛ばす少女に、僅かばかりに頰をひきつらせる。
この女、一度泣かせてやろうか。
「いいから要件を言え。無いなら邪魔すんな」
殴りたい気持ちをなんとか抑えてそれだけを言うと、人差し指を口元に当てて、頭に疑問符でも浮かべてそうな表情をした。
「そういえば先輩、こんな時間まで何やってたんですか?」
「……宿題だよ。忘れたからペナルティ食らってんの」
俺は答えながら残りの問題に手を付ける。
すると少女は俺の前の席に横向きに座って、両手で頬杖をついた。
「ちゃんとやらなきゃダメですよ」
「やったっつの。ただカバンに入れ忘れただけだ」
だが、忘れは忘れなので、あまり強くは言えない。
そんな俺の言動に何を勘違いしたのか疑いの眼差しを向けてくる。
「えー、ホントですかねぇ……」
どこか探るような言葉を無視して、将来なんの役に立つのかわからない公式に数字を当てはめていると。
「本当は、深夜に外を出歩いてたからじゃないんですか?」
刹那。ぞわり、と背筋に嫌な感覚が走った。
俺は思わず顔を上げるが、そこには満面の笑みを浮かべる彼女がこちらを見ているだけだった。それがまた、一層不気味さを引き立てている。
この笑顔の一体どこから声が出てきたのだろうか? 幻聴だと言った方がまだ信じられるくらいには、少女の表情と先程の声はズレていた。
低く、背筋の凍るようなあの声は、本当にこの子の口から出たものなのだろうか。
「深夜に、俺が?」
なんとかそれだけを絞り出して考える。
確かに昨日は宿題をやって、何故か無性に眠かったから次の日の準備は朝にしようとそのまま寝てしまい、見事宿題のプリントだけ入れ忘れてしまったのだ。
だから、俺が深夜に外に居たなんてことはあり得ない。
そもそもなんでこいつはこんなことを聞くんだ?
「そうです。昨日は何してたんですか?」
「何でお前にそんな事を話さなきゃならんのだ。取り調べでもしてるつもりか?」
なんの話か分からないが、いきなり俺を何かの犯人のように詰め寄る彼女に強く返すが、彼女は柔和な笑みを崩さない。
「そうですか。では質問を変えますね」
「そういうことじゃなくて……」
止めようとする声は虚しくも空回り、少女は言葉を続けた。
「先輩は『魔王』って知ってますか?」
「魔王?」
俺は首を傾げるが、それは知らないからではない。この話題との関係が分からなかったからだ。
『魔王』
それはちょうど一年前から囁かれ始めた噂だ。
復讐を願う者の前に現れては、その願いを聞き入れてくれる復讐の代行者。
正体不明で、容姿も性別も年齢も分からない謎の人物。
復讐された者は皆一様に心を砕かれて、犯罪を犯した者は自首し、人を虐げて生きてきた者は引きこもるようになった。そして人によっては自殺までするのもいた。
そんな犯罪者達の心をも砕いていくそのやり方に、いつしか、囁かれるようになった。
それが魔王。復讐の代行者と呼ばれた男の噂だ。
「その都市伝説にも近い噂話と、さっきの話は関係あるのか?」
「もちろんです。あたしね先輩……」
そこで少女は言葉を区切ると、声のトーンを一段下げて。
「先輩が魔王なんじゃないかって、思ってるんですよ」
今までのやりとりで薄々感じていたことだが、やはりこの少女は、俺の事を存在するかどうかも怪しい魔王だと疑っているらしい。
誰と見間違えたかは分からないが、迷惑な話だ。
俺は一度ため息を吐いて。
「俺がそんな玉に見えるのか? どう見ても平凡だろ」
「魔王の噂は、有名な割にその本人と分かるような特徴が何一つ出てこないそうです。つまりそれって、一般市民に上手く溶け込んでるって考えられませんか?」
言いたいことはなんとなく分かる。だが、一般市民というのは俺以外にも腐るほどいるわけで、何故その中で俺が疑われたのか全然分からない。
それに、深夜に俺が出歩いていたという話も気になる。
世界には、自分と同じ顔をした人間が三人はいると言われている。
どんな現場を目撃したのかは知らないが、俺が何を言ったところでこの少女は肯定以外の反応は信じないだろう。
「どうあってもお前は俺を魔王様にしたいんだな。だいたい一年前からずっと噂されてきて、尻尾すら掴めなかった奴が、こんな簡単に見つかるようなヘマをすると思ってんのか?」
「魔王だって人間ですよ? そういう時もあるんじゃないですかね」
「いきなりフワフワし出したな……」
俺がジト目を向けると、少女は明後日の方向に視線をぶん投げていた。
こいつ、何も考えてないな。
俺は何度目かになるかも分からないため息をもう一度吐いて、右手で頭痛がしてきた頭を抑える。
このまま話していても平行線だ。
深夜なんて時間に、どんな現場に遭遇したのかは分からないが、彼女の中ではどうやら俺が魔王だという確証に至る何かがあるらしい。
俺がどうしたものかと悩んでいると。
「魔王に会ったことがあるんです。それも目の前で」
「それって……」
そう言った彼女の表情はいつの間にか、先程までの笑顔とは違って影が差し込んでいた。
魔王に会った。それはつまり。
「あたしも、復讐を望んだ人の中の一人ってことですね」
彼女は弱々しく、たははと笑うと頰を掻いた。
復讐を望むくらいだ。そこには当然良い話はないのだろう。
「それで、探してどうするんだ? 一言お礼でも言いたいってわけか」
「違います」
俺が口にした予想を、少女はあっさりと切って捨てた。
お礼とか一言言いたいわけじゃないとすれば、他にあることと言えば……。
――もう一度、誰かに復讐したいということだろうか?
魔王なんて存在が本当に実在するかどうかは別として、目の前に復讐したいと考えるほどの憎しみを抱いている人が居れば嫌でも緊張する。
俺は聞いても良いものか一瞬だけ迷ってやっぱり聞いた。
「……じゃあ、なんで?」
恐る恐ると言った感じで聞くと、少女は僅かに眼光を鋭くさせて。
「あたしは、彼を止めるために探してるんです」
予想外の言葉を口した。
今彼女は、止めると言ったのだろうか?
自分も一度は復讐を望んで、魔王とやらに代行してもらった一人のはずだ。なのに何故? 一体何のきっかけがあってそんな事を。
「彼は笑ってたんです。復讐を代行している時、本当に楽しそうにして」
そう語る彼女の目はどこか遠くを見ているようだった。
何を思ってるのか、その表情から読み取ることはできない。
「きっとあの人も、一度は壊された……うんうん、今もまだ壊れてる。だからあたし、あの人を助けてあげたい。悪人相手だとしても、人を傷つけて笑ってられるなんてそんなのおかしいです」
「…………」
言葉は、俺に向けられていた。
残念ながら、俺は魔王ではない。だが、彼女の言葉に共感はできなかった。
俺もかつて、一度に何度も裏切られ、自身の手で復讐に手を染めたことがあるからだ。
その当時のことは、今でも鮮明に覚えている。
裏切り、俺を見て笑っていた奴らが、皆一様に怯えた目でこちらを見て、俺が少し動けば短く悲鳴をあげる。これほど楽しいことはないだろう?
そこに何かを感じて止めようと言っているなら、俺は。
「分からないな」
「え……?」
当然、口から出てきたのは共感ではなかった。
「だって笑えるだろ。今まで人を貶めて笑っていた連中が怯えた目を向けてくるんだ。何でこれで笑えないのか理解できん」
「やっぱり、先輩が――」
「悪いが、その推理はハズレだよ後輩君。俺は魔王じゃないし、そもそも人の復讐を手伝う趣味はない」
確信しようとする少女の言葉を遮るように、その後に続いたであろう言葉を先回りして否定すると、俺は馬鹿にしたような笑みを作る。
「つか『やっぱり』ってなんだよ。俺が魔王だって確信があったからここにいるんじゃなかったのか?」
「それはそうですけど。あの時は暗くて、顔もしっかり見たわけじゃなかったから……」
「そんなんでよくもまあ、あれだけ詰め寄れたな」
呆れるように言うと、少女は「でも」と続けた。
「これで先輩が怪しいのは確実ですよね!」
そう言って、少女は人差し指を自分の口元に当てて悪戯っぽく笑った。
どうやら俺は墓穴を掘ったらしい。
「違うんだけどなぁ……。どうしたら、信じていただけるのでしょうか」
何となく敬語で返すと「そうですねぇ」と、さも楽しそうに考えると。
「もし先輩が魔王じゃないって言い張るなら、本物がどこかにいるはずですよね?」
「……ああ」
もう既に嫌な予感しかしないのはきっと気のせいなんかじゃない。
俺は半ば諦めて言葉を待って。
「なら先輩が見つけてください。あたしもその間、先輩が魔王だって確定するまで見張りながら探しますから」
そんな予想通りの言葉を聞いて、俺はガクンと肩を落とした。
宿題に続き、今度は得体の知れない魔王なる人探し。今日は飛んだ厄日だ。
意識を現実に戻してもプリントの問題は当然残っていて、その後すぐに来た先生に「まだ終わってないのか」と嫌味を言われたのは言うまでもない。
俺が嫌味を言われている間に教室の入り口へといつの間にか回り込んでいた少女は、去り際に口パクでこんなことを言っていた。
――よろしくおねがいしますね。セーンパイ。