私の婚約者3
扉の前で方向転換し、歩き出そうとしていた彼女の腕を咄嗟に掴んだ。上手く言葉が出てこなくて黙り込んでいると、しびれを切らしたのか彼女から話しかけてくれた。
「何か?放していただきたいのですが。」
「すまない。…レティ…シア…嬢は、私との婚約解消を何とも思っていないのか?」
さっきレティ呼びを拒絶されたから、レティシアと呼ぼうかと思ったけど、婚約者でもない異性を呼び捨てにするのは外聞が悪いと思って、レティシア嬢と呼んだ。でも、迷いながら呼んだから、途切れ途切れで変になってしまった。
「何とも思っておりませんが?強いて言うならこれで自由だと思っております。」
彼女はお得意のアルカイックスマイルは浮かべず、そんなことも分からないのかと言わんばかりの嘲りの彩をその美しい顔に浮かべてみせた。
「何で。だって、家格の釣り合う婚約者を今から探すなんて大変だろ?」
「だから、私にしておけとでも?笑わせないで下さる?わたくし、もう何かに耐えるのは懲り懲りなんですの。政略的な物だとしても、相手を蔑ろにする方には興味ありませんわ。」
彼女は私のことなどもう微塵も興味ないのだろう。アメジストの瞳が冷たく見つめてくる。
「…それは謝る。これからはもう蔑ろにしたりはしない。だからもう一度考え直してはくれないか。」
縋り付くような声で頼んだ。もしかしたらまだ、何処かで私を好きでいてくれるかもしれない。
そうでなくても、彼女は私を選ぶはずだ。家格も容姿も問題ないし、次期宰相という地位もある。好条件の人物がいるのに、それを蹴ってまでわざわざ他の令息と一緒になったりしないだろう。
「何度考えても答えは変わりません。貴方様の考えてること、当てて差し上げましょうか?…レティシア嬢はまだ私のことを好きかもしれない。そうでなくても、家格と容姿があって、地位だって期待できるような好物件を捨ててまで、他の令息の元へ行ったりしないだろう。…ふふっ、何で分かるんだって顔ですね。簡単なことですわよ?わたくし、誰よりも貴方様のことを見て参りましたから。何を考えているかくらい分かりますわ。」
ぐしゃりと、何かを踏み潰されたような感じがした。頭に血が上って、掴んでいた腕に力を込めた。
ともすれば折ってしまいそうな細い腕。目の前の存在は、女なのだと思い知る。守らなければと思うのと同時に、踏み躙ってもいい弱者なのだと思った。弱者は強者に従わなければならないはずだ。
「こっちが下手に出ていれば調子に乗って。可愛げのないお前なんかをもらってくれるやついるはずがない。私がもらってやると言っているんだから従ったらどうだ?」
「可愛げなんていう辺境では何の役にも立たないもの、必要ありませんわ。後継者の心配をなさっているのなら余計なお世話ですわ。親戚筋から養子をとって、わたくしが鍛え上げますから。」
「……この、減らず口が…!!」
カッとなって、手が出た。女性の顔面を殴るなんて、紳士としてはあるまじき行為だ。そう分かっていても止められなかった。
殴ってしまうと思った。でも、次の瞬間、振りかぶっているのと逆の手を引っ張られてバランスを崩されると同時に、右脇腹に強い衝撃を受けた。それが彼女の膝だと気づく頃には、私は回廊の壁に追い詰められ、鉄扇を突きつけられていた。
「これ以上何かするのであれば衛兵を呼びますわよ。」
彼女の目は本気だった。元婚約者への情など欠片もない、ただただ冷淡なアメジストがそこにはあった。
もう彼女にとって、私とのことは過去になってしまったのだと悟った。力なく首を振る私を見て、彼女は去ろうとした。
だか、数歩進んだところで私に半身だけ振り向いて、口を開いた。
「あぁ、そうだ。最後に一つだけ。…わたくし、貴方様をお慕い申し上げておりました。今はもう昔のことですが。」
どこか悲しげな彼女の様子に、私は彼女に愛されていたことを知った。
彼女は、上っ面の私ではなく、きちんと私自身と向き合おうとしてくれていたのに。ひた向きに想ってくれていたのに。彼女に笑顔の仮面を付けさせたのは、他でもない私だったのだろう。
この結果は、彼女を、その想いを、蔑ろにして上辺だけの関係に縋った私への罰だろう。
もう二度と、女神は私に微笑みかけてはくれない。




