第二幕 氷の魔女の大舞台 1
アンクゥの街は、化け物の襲撃によって壊滅した。
彼の父親の死体は、めちゃめちゃになっていた。
思い出すだけで、おぞましい。
父親の頭部が、父親自身の頭から生え出してきた軟体動物の触手のようなものによって、破壊されていく光景がフラッシュバックする。
卵でも産み付けられたのだろうか?
アンクゥは、その映像を払拭する事が出来ない。
日に、何度も、眼に焼き付いたその光景が頭の中にちらついていく。
彼が為すべき事は、もはやただ一つだけだった。
それは、復讐という概念だ。
もはや、自分が憎しみを向けるべき相手を殺害するしか道は無い。
そんな生き方しか出来ないのだろうと思った。
「何故、俺だけ生き残ってしまったんだろう? …………」
背徳者ローザ。
栄華に満ちた、巨大な都市『ディーバ』に君臨する王女。
彼女は、街の支配者だった。
ローザは、ディーバの街に君臨する女帝だった。
彼女の存在に対して、アンクゥは感情が洪水のように溢れ出してくる。
アンクゥは、敵意に全身が塗れそうだった。
無情な荒野の下、彼はぼうっと大地を眺めていた。
時折、何度も、フラッシュバックのようなものと、強い激情に襲われる。
無力な自分は、一体、これから先、何があるのだろうか。
自分は、どうしようもなく、ちっぽけで下らないんじゃないのか。
復讐を、どうすれば成し遂げられるのだろう?
何度も、何度も、思考が反復する。
そして、それを拭い去る事は、どうやっても出来そうにない。
……あの敵を、倒す事が出来そうにない。俺は、今もなお。ずっと、恐怖し続けている。
自分の弱さばかりと、対面せざるを得ない。
どうやったって、殺されてしまうイメージしか涌いてこない。
自分が、恐怖の中に飲まれて、死んでいく。
これから先に、進めない。心が完全に折れてしまっている。
何故、こんなに弱いのだろう?
けれども、逃げる事も出来なかった。どうにもならない。
きっと、これから先の人生は、全て、あの悪魔によって支配されていくのだろう。
逃れたい、けれども、逃れられない。
悪夢が残響して、自分をずっと殺していくのだろう。
だから、明日なんてずっと無い。
後悔しても、何の意味が無い事だけは突き付けられている。
けれども、どうやっても前に進めない。
「あいつ……、あの女……」
背徳者の宮殿まで向かおうとして、途中で、足が竦んでしまった。
一度、意志を紡いでも、いざ、向かおうとすると。折れてしまう。
どうしても、過去のトラウマが枷になって、身動きが出来ずにいる。
悪いイメージしか、浮かんでこない。
自分が敗北するヴィジョンしか、思い描けない。
実際、そうなってしまうのだろう。
敗北するという事は、自分が死ぬという事だ。
もしかすると、無残に生き残るのかもしれない。
†
大嫌いなスフィアは、今も幸せに生きているのだろうか。
そんな事をイメージしてしまうと、憂鬱ばかりに襲われる自分に嫌気ばかりが差してしまう。自分は、自分の環境を抜け出して、今の人生がある。
そう。
魔女ルブルに仕える毎日、それはそれで悪くない。
ルブルは、そのうち、自分を用済みだと認識して殺害するのだろうか?
けれども、それならそれで、いいのかもしれない。
人生において、必ず、憎しみが積もり積もっていく相手というものは存在するのかもしれない。そして、その相手を生涯、赦す事は出来ないのかもしれない。
何故、スフィアは、メアリーにとって、憎悪の対象なのだろう。
それは、メアリー自身にも分からなかった。
ただ、恐ろしい事に、自分は何でも出来てしまいそうだ。
そんな思いに、メアリーは駆られる。
きっと、彼女は幸せな結婚をするのかもしれない。
もしかすると、彼女を支えてくれる男の人に守られているのかもしれない。
自分は、酷く孤独なのだ。
どうせ、檻を破らなくても、小さな世界の中で、ずっと生き続ける運命にあって、檻を破った今も、未来は暗渠に閉ざされている。
たとえば、普通の人々のように、恋愛だとかをしてみたかった。
けれども、自分のような存在を受け入れてくれる者など現われるのだろうかとも思った。
どうしようもない程に、強い劣等感に襲われる。
まるで、自分という存在が、本当に下らないものに思えて仕方が無い。
「私は再生する。人々の命と死を代償に。みな、眠りながら起き上がればいい。日は永遠に落ちる。私が終わらせるのだから。みんな、きっと、幸せになれる」
ルブルはうっとりとした笑みを浮かべる。
彼女の両目に灯るものは、高慢さばかりだった。
彼女は、他人の痛みというものが、根本的に理解出来なかった。
彼女にとっては、他人は物質のようなものだった。
ぺりっ、ぺりっ、と。辺りの地面から無数の腕が伸びていく。
身体が酷く崩れた者達が、雪の底から這い上がってきた。
もはや、年齢や性別などが分からない程に、その原型が崩れ去っている。
メアリーはふと、思う。
彼らは人格を剥奪された者達だ。
全ては、ルブルにとって、人間は動くオブジェでしかない。
ルブルは、ずっと薄ら笑いを浮かべている。
彼女には、全ての人間が自分と同じものには見えないのだろう。
メアリーは、ふと魔女の横顔を見て思った。
おそらく彼女は、幼稚な部分も強いんじゃないのかと。
どうしようも無い程に、強い無邪気さが、漆黒の悪意となっている。
ルブルは、世界の全てを自らの掌の中に収めたがっている。
メアリーは、自身のマルトリートと、ルブルという君主の存在を、絶対的に自らを安心に導くものだと信じている。
だから、安心して、他の者達を踏み躙っていける。
自分を馬鹿にしてきた世界なんて、幾ら壊しても構わないのだ。
死は終わりなのだろうか?
メアリーは、ルブルの作り出すゾンビ達を見ながら思う。
死んだ人間を容赦無く冒涜するルブルの眼には、この世界はどのように映っているのだろうか。
彼女には、他人の感情だとかいうものが分からないのかもしれない。
他者の肉体を玩具のようにして弄ぶ様は、まるで、人間そのものを小さな虫のように思っているのだろう。
『魔女』という名前が示す通りなのだろう。
ただ、間違いなく分かっているのは、メアリーもまた、彼女の何かに共感しているという処だ。
自分の中にある真っ黒な感情が、ルブルと共にいる事によって、増大していく。
自分の深淵に巣食っている怪物が肥大化していく。
もっと、沢山の者達の血を見たい。叫び声を聞きたい。
何故、こんなにも人を憎めるのだろうか?
ルブルは、地上の意思ある者達全てを支配したがっている。
彼女は女王として君臨したいのだろう。
そして、彼女は他人の意思が気持ち悪いと思っているに違いない。
自分の持っている考えだけが絶対なのだと思っているのだから。
驕りばかりが、彼女の精神を形成している。
彼女にとっては、全ては継ぎ接ぎの出来る人形なのだ。
手足を組み替えて、意のままに操る事の出来る人形に過ぎないのだ。
人間なんて、全部、粘土細工みたいなものだ、と彼女は言う。
彼女は創造者なのだとも言う。
だから、彼女は死体を作りたがる。
自分以外の全ての者達が死体である事を願い続ける。
ルブルは言う。自分は、一人の人形作家でもあるのだと。
やがて。
ルブルが氷結した地面の下にて、封じ込めていた死体達は粘土細工のように、ぐちゃぐちゃに変形して、次々に折り重なっていった後、それは城の形へと変わっていた。
それは、巨大な城で、様相も貴族達の住まう城館をそのまま再現したような形へと変わっていた。
ルブルはそれを見て、無邪気にはしゃぎ回る。
「ねえ、この城の周りに、街も作りましょう? そうね、雪の亡霊から名前を取って、“ウィンディゴの街”というのはどうかしら?」
魔女はとてつもなく、楽しそうだった。
まるで、子供が無邪気にままごとをしているような感じだ。
†
挿絵、九藤朋様より戴きました。
魔女・ルブル




