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『他人の死と匿名性』
死はいつだって、他人の死でしかなく“自分の死”を人間は知覚出来るのだろうか?
そして、ある物語が展開された場合、それが小説にしろ、歴史にしろ、名前の存在する人間の死や生存以外にも、匿名性の者達の死が確実に存在する。
名も無き者は“物体”として、現しているのではあるまいか。
死は多くの匿名性によって、存在しているといってもいいのかもしれない。
一人の死は物語だが、数万名の死は匿名性によって覆い隠されている。
かくして、物語における幸福と不幸とは何なのだろうか。
一人の死は物語だが、多くの人間の死は統計の数字でしかない。
たとえ、物語が一見、ハッピー・エンドを迎えているように思えても、匿名性を帯びた人間の側からは、悲惨な終わり方を迎えているという事実も存在する。
たとえば、戦勝国だとか。たとえば、国家における幸福の絶対数だとか、そのように積み上げられた勝利や幸福の下には、大いなる犠牲が存在するといっても、過言ではない。
死はいつだって、他人の死でしかない。
他人の死は、何処までも、自分の死には無関係でしかないのだから。




