第五幕 亜空の城の迷宮都市 4
ヘリックスから、ディーバの紙幣を渡されて、メアリーは街で宿を取っていた。
何だか、酷い倦怠感に襲われていた。
どうしようもない程に、意気消沈してしまっていた。
何故、先ほど、ローザを、ヘリックスを殺せなかったのだろうか?
……ルブル、私は貴方の役に立ちたいのに。
そう言えばと、ふと、彼女は考える。
何か、自分はずっと強い敵意の最中にいたのだが、何だか、今はぼんやりとしている。
「私は何故、あの時、戦えなかったのかしら?」
他人を懐柔していく。それが、ローザの強さなのかもしれない。
少しずつ、自分の心にある攻撃性が薄れていくかのようだった。
「ふん、明日になれば再び、襲撃する。このまま、私は言いなりにはならない……」
でも、何故なのだろう。酷い安心感さえあるのだ。
スフィアの世話ばかりしていた孤児院時代、何も無かったメイド時代、それから、ルブルといた時にあった何処かで拭い去れない恐怖感。それらのものから、今は解放されているという事なのだ。加えて、今は自分の絶対的な自信に繋がっているマルトリートという強力な能力がある。
確かに、このまま戦いを続けるのが、馬鹿らしくも思えるのだ。
目的そのものが、今、何をすればいいのか分からなくなってきてしまっている。
スフィアの顔がちらついていく。
何故、こんなにも彼女を思う度に、敵意が湧いてくるのだろうか。
それにしても、このディーバの街はメアリーが住んでいたグラニットよりも遥かに豊かで物質に囲まれている。
ローザの思想はきっと、一面的には極めて正しいのだろう。
実際、メアリーもエゴイズムの塊のようなものだ。彼女の言い分はよく分かる。
ただ、これだけは思うのは。
ローザは好きになれない。ルブルは好きになれた。
この違いは、どうしようもない程に大きい。
そして、これも分かっているのは。
自分は、ローザの力によって、攻撃性などを今、奪われてしまっている。
それを、取り戻さない限り、彼女と戦う事が出来ないという事だ。
「つまりは、これも彼女の能力の一端なのでしょうね……。ドゥーム・オーブとは、別の力なのかもしれないけれども。とにかく、今の感情を抑え付けられた状態を抜け出さないと…………」
自分の純然な敵意を取り戻さなければならない。闘争意欲をだ。
その宿の一階には、サービスで飲み物が自由に振舞われていた。
バイキングなるものが行われているのだと言う。
メアリーは、基本的には贅沢というものを此れまでの人生で余りした事が無いので、少しぐらい楽しんでもいいのかな? と思った。
まず、思わず手に取ってしまったのは、甘ったるい匂いのする大きなパンケーキだった。
一人の赤髪の青年が苛立ちながら、ローストチキンを皿の中に入れている処だった。そして、彼はその後、焼き上がったポテトなどもトングで摘んで取っていく。
メアリーはすぐに、彼が能力者である事を感じ取っていた。
こんな情けない状態にお互いに追い込まれた同士なんだろうなあと、直感的にも分かった。それから、唐辛子とハーブがふんだんに盛られたトマトのパスタに、生姜やニンニクを盛り付けられた大きめの肉、メアリーは深く溜め息を吐く。
「美味しいものを食べていると洗脳されそうになるもんだなあ?」
彼はメアリーを見て、何だか強い諦観を示す。
「俺はローザにずっと復讐を誓って生きてきた。けれども、彼女の考え、というか、この街の構造というか、この世界の構造を考えているうちに…………」
メアリーはブランデーを口に入れる。
濃厚な味が口の中に広がっていく。
こんなものは、屋敷の中では自分が注いで出している側だった。
赤髪の男は、熱心に肉を口に入れていた。
そして、深く溜め息を吐く。
「駄目だな。ディーバにずっといてしまいたくなる」
「そうね」
二人はいつの間にか、トレーを持って同じテーブルの席に座っていた。
「こうやって、私達は牙を抜かれていくのでしょうね」
メアリーはワインを口に入れていく。屋敷の中で働いていた頃は、こんなに好き放題に口に入れる事なんて出来なかった。
贅沢の持つ魔力、それはどうしようも無い程に戦う意思を奪うものなのかもしれない。
この街の豊かさは、他の国や地域の資源を食い潰して積み上げられている。
二人は、同時に、深く溜め息を吐いた。
「憎しみだけが、まだ戦う意志を残せる。けれども、俺は……幸せになってもいいんじゃないかと思ってしまっている。これが、ローザの強さなんだろうな。どうしようもなく、今、俺は弱くなってしまっている」
「そうね。……まあ、私は貴方とは過程が違うけれども、目的が一緒。でも、何だろう。贅沢を取るか、愛するべき者の意志を取るのか、果たしてどちらが幸福に生きる事なのかしら?」
欲望というものを抑える事はとてつもなく難しい。
適度に、人の欲望を操作する事によって、自分の欲望を満たす為ならば、他国の顔も知らない者達の飢えや渇きなど、本当にどうでもよくなってしまうものなのかもしれない。
「でも、俺の両親、俺の兄……。彼らの事を思い出して、俺はどんどん食べ物の味を感じなくなっていく。なあ、お前はどうなんだ?」
「私は……。折れそうね。だって、考えてみると。今が一番、安全だから。でも、私が今、仕えている人に対する想いは強いものだと信じている、そうね」
「俺はやはり、砂を噛むような味がするな。馬鹿にされているとしか思えない。ふざけやがって」
彼は思わず、料理の盛られた食器を叩き割る。料理が辺りに飛び散っていく。
メアリーは騒がれると面倒臭いので、幻覚で、割れた食器を包み隠した。
「これがお前の力か?」
「そうね。ああ、幻覚による透明化、消しましょうか。間違って割った、って適当に店員に言っておくわ」
赤髪の男の名前はアンクゥと言うらしい。彼が割った食器、ぶち撒けた料理を見て、店員はそつなく、それを掃除しにやってくる。
「私達は似たもの同士なのかしら?」
「かもしれん」
メアリーはふと思う。今更なのだが、スフィアの持っているものを根こそぎ奪って、今は彼女よりも幾らでも幸福になれる選択を手にしているという事になるのだ。
口の中に広がる肉の味が、どうしようもない程に生きている実感を与えてくれていた。
†
デス・ウィングは、ルブルの城から飛び降りて、その光景を眺めていた。
城全体が、変形していっている。
ルブルの能力の概要は、おそらくは死体を好き勝手に構築して、彼女の思う通りに作り変える事が出来るんだろうなあと思った。
ルブルとかいう背徳者に対しての興味が薄れつつあった。
対面して、思っていた以上に、それ程、強力な背徳者ではないのではないのかと思った。
「能力の強さだけではなく……、その狂気の度合いも含めて。大切な者が出来てしまった瞬間に、彼女は人間の領域へと戻っていくのかもしれない。私はそれでは、つまらない。でも、スフィア。私は君の運命の方が気になってきたな?」
スフィアの人生がどのようになっていくのか。それも、水月が強く興味を持っている事象の一つだ。
彼女にとって、他人など、全てが娯楽でしかないのかもしれない。
この世界は、舞台劇でしかないと思っているのだから。
あの狼に会いに行こうと思った。
ディーバの街にいる筈なのだ。
そこに行けば、あの狼に会えるのだろう。
「じゃあ、スフィア。お前が立ち向かえるように私は案内してやった。後はもう、お前が勝手に頑張ればいい。私はお前がこれから、破滅へと向かおうが。立ち上がって、道を切り開こうがどうだっていい。私はお前を助けない。何故ならば、私は悪意でしかないのだからな?」
「やっぱり、あの狼さんの力に興味があるんだね」
気付けば、隣には何処のものともつかない異国のドレスをその身に纏った、他人の死という美少年が佇んでいた。彼はデス・ウィングにしか見えない存在だ。
スフィアは、決して彼の姿を見る事が出来ない。
「ああ、他人の死。あの狼はお前も殺せるのかな?」
「さあ? それも興味深いよねえ。でも、僕に死なんていう概念なんてあるのかなあ? それも酷く不可解なんだよねえ。試して欲しい」
「そうだな、試して欲しいものだな」
ひとまず、デス・ウィングと他人の死の二人は、ディーバへと向かう事にした。生きていたのならば、どうせ、スフィアと合流する事になるのだろう。
「私は、お前のグリーフがどういう風になっていくのか楽しみにしているよ?」
そう言って、彼女は地図を取り出す。
大体の方角は分かった。
彼女は風の中へと、自分の身体を溶かしていった。




