第五幕 亜空の城の迷宮都市 3
メアリーはローザの城の中へと案内された。
彼女は、ローザの片腕だとかいう少年を慎重に警戒しながら歩みを進めていく。
くすくすと、不気味に少年は笑っていた。
此処は『婚礼の間』だと聞かされる。
沢山の男達が、この間の中で、ローザの食事にされたのだと。
そこには、天蓋の付いた寝台が置かれていた。
シーツで隠しているが、中には女が一人いた。
「貴方がローザ?」
シーツの中にいる者は、小さく笑っている。
「そう言う、貴方の方はジュダスが見てきたという魔女なのかしら?」
「ジュダス……。私とルブルを襲撃したあの狼の名前ね。彼はこの城にいるのかしら?」
「そうね。私じゃ、どうも、手に負えなくてねえ。出来れば、引き取って欲しいくらいなのよ。そう言えば、貴方は私を殺しに来たんでしょう?」
メアリーは身構える。
隙あらば、シーツの中にいる敵を剣が何かを生み出して、切り刻んで殺してしまおうとは考えていた。
しかし、何故だか、踏み込めない。
後ろの方では、少年が笑っている。
「私は貴方達の罠に仕掛けられたというわけかしら?」
「いいや、君は正式に客人として招待されただけだよ?」
ヘリックスは言う。
シーツの中の女は言った。
「一人で乗り込んでくるとは見上げた者ねえ。ワイズは……重症を負ったけれども、何とか一命を取り留めたみたい。氷帝も貴方は殺していない。どうかしら? 今ならば、和解してもいいと思っているわ。お互いに痛み分けは嫌だからね?」
ふうん? と、メアリーは唇に指先を当てた。
「当然、お断りさせて頂くわ。下らない貴方達の為に、私は動くつもりなんて無いし。私はルブルに仕えて、この世界を踏み潰すつもりだから」
ローザは敵意を露にした声音で言う。
「へえ? 君はそのルブルとかいう奴なんかの下に一生、つきたいの?」
ヘリックスは本当に不思議そうな顔で訊ねる。
メアリーは首を捻る。
「あの魔女。ジュダスと同じ臭いがするよ。人を人だと思っていないよ。君は今は気に入られているかもしれないけれども、いずれ、身を滅ぼすような気がするんだ。君は何も分かっていないんじゃないかな? ローザ様はこの国を統べている。この国に吸収された人達を、決して不幸になんてしない。ねえ、君、名前は何て言うの?」
「メアリー……」
「そう、メアリー、君は騙されているだけだと思うよ。魔女ルブルを僕は見たから分かる。ジュダスと同じような存在に見える。この概念を聞いた事はあるよね。“背徳者”。神に背く者、人間に対して裏切る者、人間を人間と思わない者。確かに、僕もローザ様も、君と同じように特殊な能力を手にしている。でも、まだ人間の領域だとは思うよ。背徳者と言う概念は、一体、何なのか、人それぞれが定義するものなのかもしれない、僕が思うには」
「思うには……何なのかしら?」
「悪魔、と端的に言えばいいのかなあ」
メアリーは少しだけ、困惑していた。
自分はルブルと酷く似ているのだと思う。
けれども、確かにこの少年、ヘリックスの言っている事は納得の行く部分もある。
「背徳者か……それなら、私も同じよ。私は人を人だと思えない。人間なんて、簡単に皆殺しにした。…………」
「君はまだ、人間に戻れると思うよ?」
彼は少しだけ、真顔で彼女に告げる。
シーツの中から、一人の女が現われる。
彼女は純白のドレスを身に纏っていた。金色の髪を靡かせている。
「メアリー。私も背徳者と呼ばれていた。そして、私自身、それを否定しないわ」
ローザはうっとりとしたような仕草で微笑みを浮かべる。
「“仲間を大切にしないといけない。”その唯一の戒律によって、私は私を人の域に戻す事が出来た。人間が人間たらしめている事、それは他者の苦痛が想像出来る事なんだと思う。ヘリックスから聞く限り、ルブルにはそれが無い。彼女は他者を人形や虫けらだと思っている。メアリー、今は貴方は彼女にとってのお気に入りの人形だけれども、飽きたら、簡単に壊されるわよ?」
彼女は甘言を弄してくる。
前後、二人の能力者に隔てながら、メアリーは思考していた。
こいつらの話に耳を傾けてはならないのだと。…………。
「私も幻覚が使えて……。この空間に過去の記録映像を満たす事が出来るわ」
気付けば。
メアリーの周りは、一面が夜空のような暗黒空間へと変わっていた。
彼女は自分が幻覚使いだから、これが幻覚である事は分かるのだが、一体、何をされているのかしばし、思考が停止する。
かつかつかつと。
軍靴の音が聞こえる。
沢山の者達が剣などで、首を切られたりして殺害されていく。
肉体を激しく損壊されていく死体達、生きながらにして焔の中へと放り込まれる者達、彼らは確かな実感を持って、大宇宙のような空間の中に存在していた。
そして、もう一人の自分自身の幻影のようなものが、映像の中に浮かんでいた。
その顔は、鮮血に染まっている。
「メアリー……。私の『ドゥーム・オーブ』の世界にようこそ。私は人間の持っている欲望を映像化する事によって、醜悪な自らの心を反射させる事が可能だ。私の食事になる男達は、私を欲望の対象にしようとする願望を持つ事によって、その悪意が反射されて、私の胃袋に納まる事になる。私の存在を見た多くの男達は、私を“絶世の美女”と認識したがるのよ。メアリー、女の貴方が私を視た場合、別の現象が引き起こるのだけれども。貴方は何を見ているのかしら?」
「貴方の理屈なら……私の中の破壊欲を、私自身が視ているという事になるのかしら?」
「貴方は、この光景を見て。何も感じる事が出来ないのかしら? メアリー」
「そうみたいね……私は背徳者という存在の素質があるのかしら?」
「まだ、戻れると思うよ?」
ヘリックスは後ろで告げる。
「メアリー……。私は殺すべき者と生かすべき者は切り分けられるべきだと考えている。それが、この世界に存在する多くの者達を結果として、幸せにするのだと。けれども、私は偽善的な事は一切、述べるつもりはないわ。この世界においては“生贄”が必要なんだと考えている。誰かの血肉によって、誰かの飢えを満たすべきだと。ディーバに住まう国民達の殆どは幸福だと思っている。スラムは無く、自殺者の数も極端に少ない。可能な限り、国のみんなが幸せになれる社会を形作っているのだけれども、それは私が他国の資源を貪り尽くしているからなの」
ローザは、言葉を紡ぎ続けていく。
「人間という虚空のような小宇宙を統べる者、それが私、虚空の姫君ローザ。そう呼ばれている。私も人殺し、メアリー、貴方も人殺し。でも、大丈夫。罪を償う事は出来ないけれども、善を成す事は出来ると思う。そして、私にとっての善は、私の国と私の同胞のみの幸福を願う事だったわ」
メアリーは、ううん、と首を傾げた。
「つまり、貴方はこういう事? 自分達の幸せの為になら、誰がどのように苦しんで死んでいったって仕方が無いと?」
「まあ、平たく言うと、そういう事ね。ねえ、メアリー。私は極悪人?」
「まあ、普通に考えて、そう思うわね。でも、ディーバにいる人達は、貴方を凄く尊敬して、敬うと思うわね」
しばし、二人の間に沈黙が流れた。
「メアリー、私の考えだとかに賛同出来なくて。私を物凄く嫌っても構わない。でも、私達は共通の敵が必要だと思う。“誰の事も人間と見ない奴”は死んだ方がいいと私は思う。何故なら、そんなものは人類の敵だと思うのだから。たとえば、魔女。たとえば、貴方も知っている、あの大きな狼ジュダス。彼らはこの世界に生きていていいとは私は思わない。いずれ、彼らは人類という種そのものを根絶やしにしかねない。ねえ、メアリー……分かって欲しい。貴方は加担しているんじゃないのかしら? 人間存在を冒涜しようとする行為に。…………」
ローザは、にっこりとメアリーに向けて微笑む。
「ねえ、私を殺したい? メアリー。なら、一日だけ待って欲しい。一日考えれば、貴方の中で何かが変わるかもしれない。そして、もしこの場で私を殺したい場合も、私を殺す事の意味を考えて欲しいの。それも真摯に、ねえ、私が何を言おうとしているか分かるでしょう?」
メアリーは、ローザの言葉に、少しだけ圧倒されていた。
ルブルとはまた違う、どう返答すればいいか分からない言葉を投げ掛けてきている。
思わず、メアリーはこう答えていた。
「分かったわ……。一日、考える。私に危害を加えずに、城の外に出して頂けないかしら? 一日経ったら、貴方をまた殺しに向かうかもしれない…………」
こう答えてしまったのは、判断力が麻痺させられてしまうような映像を延々と見せられ続けているからだろうか。
メアリーは、心の中で自嘲的に笑った。ああ、敵の策略にはまったんだろうなあ、と。
†
ヘリックスは知っている。
ローザの本当の強さは、駆け引き、なのではないのだろうかと。
そして、彼自身も彼女のそういった駆け引きの力から、学ぶ処がある。
アンクゥもあっさりと説得してしまったし、メアリーから敵意を無くすのも時間の問題なんじゃないのだろうか?
ローザは相手の心に抱えている悪意や敵意の刃を受け止める盾のようなものなんじゃないのか。あるいは、相手の心を溶かす酸なのかもしれない。
とにかく、ローザの言葉にまともに耳を傾けたものは、どんどん懐柔されていく。それが、ドゥーム・オーブの力ではない、彼女の本当の強さなのではないのだろうか。
もし可能ならば、ローザは、ルブルも、ジュダスも説得する事を考えているのかもしれない。そして、ジュダスの方は、交渉次第では、何とかなる可能性もゼロでは無い……。
ヘリックスは考える。ローザは真の意味で、他人を支配する力があるんじゃないのかと。
……僕も氷帝も、それで彼女に負けちゃったんだよなあ。…………。
ふう、とヘリックスはへたりこむ。
やはり、彼女の言葉は恐ろしいと思ってしまう。
メアリーが陥落するのは時間の問題かもしれない。
ならば、後は魔女のみに集中すればいいんじゃないのだろうか。
しかし、何故だろう。酷い胸騒ぎがした。
どうやったって、どうにもならないような気もした。
……ローザ様が交渉するのが巧いのは、復讐心とか嫉妬心とかを持っている相手に対してのみなんじゃないのかなあ? そういった恨みを持っている者が有している罪悪感に働きかけているのかもしれない。
しかし、そういったものは、簡単に均衡が崩れてしまうものなんじゃないのだろうか?
ローザは、多分、“騙す”力が巧いのかもしれない。
自分が述べている事が“正しい”のだという“彼女なりの真実”を植え付ける事が巧いのかもしれない。多分、ローザは人間の持っている弱さを知っている。ローザは、決して対話する相手の激情を否定しない。怒り、憎しみ、妬み、そういったものを在りのまま受け止めて、肯定し、しかし、相手の心の隙間に入り込もうとする。
ローザは、自身の力に絶大な自信を持っていた。
ヘリックスは、彼女のそんな力は、たまたま巧くいっているだけに過ぎないんじゃないのかという疑いも抱いている。
一時的に、アンクゥもメアリーも、彼女に味方するかもしれない。
けれども……、ガラスのように、信頼なんて脆くも崩れ去る可能性だってある。
いつだって、裏切る理由なんてあるのだし。裏切る事を正当化する為の論理だって、幾らでも出てくる。
ヘリックスは、ジュダスとまた話したくなった。
あの狼も……ローザや、あるいはメアリー同様に、人間が強く持っている表向きの価値観などを破壊するような思想を有している。
ヘリックスは分からない。人間とは一体、何なのかという事を。
ヘリックスは考える。人間にとって、何が善なる行為かという事を。
多分、幸福だとか不幸だとか、弱さだとか悲しみだとかは、そういったどうしようもないささやかな考え方の違いにおける断裂によって、生じるものなのだろうから。
†
城の最上階にまで登りつめた。
途中、現われたゾンビや怪物達などは、水月が簡単に薙ぎ払ってしまった。
スフィアは、とにかく彼女の強さに絶句していた。
自分はこんなにも守られていいのだろうかと思ってしまう。
……私も戦わなければならないのに。
何と戦いたいのだろうか? 自分自身の弱さとだろうか。
あるいは、自分自身の浅はかさなのかもしれない。
彼女は拳を固く握り締めていた。
窓が開いていた。
そこからは、石の像となった時計塔が見えた。
「水月さん……」
「ああ、いるな」
水月は、唇を歪める。
暖炉に火が燃えている。
一面には、割れた窓ガラスや壊れた食器などが散乱している。
部屋の奥には、気配があった。
「あら、お久しぶり。待っていたわよ、また会えるのを」
真っ黒なドレスを身に纏った女が、奥の部屋から現われた。
土気色の肌をした女だった。
誰何するまでも無い。
「また会いに来てやったぞ、ルブル」
「魔女さん、ですね?」
二人は訊ねた。
女は、漆黒の髪を靡かせる。そして、同じように漆黒の手袋で髪をかき上げた。
「狼さんに、窓を割られちゃって。本当に困っちゃってね。此処はとっても見晴らしが良かったのだけれども。…………」
「魔女、お前は寒さを感じるのか?」
水月は訊ねる。
「ええ、体温はあるわよ。一応、私は死人じゃないから」
「そうか、私は寒さだとか暑さだとかを感じない。まあ、私の方が化け物なんだろうな、お前よりも遥かにな」
二人の異形は、お互い、睨み合っていた。
スフィアは思わず、訊ねる。
「ねえ、ねえ、メアリーはいないの? メアリーは何処に行ったの?」
「あら? 貴方はメアリーのお友達?」
魔女は意地悪そうな微笑を浮かべていた。
「彼女、とっても可愛くて、可愛くて。どんな方法で嬲ったら、綺麗な声で死んじゃうのかなあって、思ったりして。とっても素敵な音色で命を絶つんじゃないかって、そう思ってしまって……」
スフィアは震えていた。
右手から、何か力が漲っていく。
そして、それが形を帯びていって、大型のナイフへと変わっていく。
「お前なんて、お前なんて、大嫌いっ!」
スフィアはどうすれば、魔女を殺せるのかを考えていた。
水月に頼らずに、魔女を切り付けて殺してやりたい。
そんな事ばかりを考えてしまっている。
「あら、そんな怖い顔をして。ふふっ、冗談よ。冗談。メアリーはね。ちょっと、ディーバという街へと向かって貰った。可能なら、ディーバの女帝ローザやその親衛隊達を倒して貰う為にね」
「貴方が、貴方がメアリーをあんな風に変えたんじゃないの? 街の人達をメアリーが殺したのも、貴方が唆したからなんじゃないの?」
スフィアは怒りで真っ白になりそうだった。
「あらあら、そんな事は無いわよ。そう信じてもいいのだけれども、ご自由に。グラニットの街の人達を焼いたのは彼女の意思。私を眠りから呼び覚ましたのも、彼女の意思。そして、ディーバを攻める事を選択したのも彼女の意思。私と共に地上を破壊したいと願っているのも、彼女の意思。ねえ、貴方はスフィアというお名前の子でしょう? メアリーが言っていたように、本当に、……“見たいものしか見たくない子”なのね」
魔女ルブルは完全なまでに、目の前にいる少女を小馬鹿にしていた。
スフィアは怒りで頭の中が、真っ白になりそうになる。
けれども、どうすれば、目の前の敵を倒せるのか分からずにいた。
ぶわっ、と強い風が再び、室内の中へと入り込み、水月とルブルの髪の毛を靡かせる。
二人の背徳者はとても楽しそうな顔をしていた。
スフィアは二人に対して、困惑を浮かべた表情へと変わる。
「さて、ルブル。私はお前を簡単に倒す事が出来るぞ?」
水月は断言する。
ルブルはそんな彼女を強く見据えていた。
「お前が何をしてこようが。私はお前を簡単に倒す事が出来る。私の目からしてみると、お前は弱い。私の敵なんかじゃない。さて、どうしようか?」
ルブルは水月のそんな言葉に、何か反論でも示そうかと考えているみたいだった。
「ふうん? なら、何故、私を早く殺さないのかしら?」
ルブルは水月の行動を慎重に伺いながら、訊ねる。
「私をいつでも殺せるなら、貴方は一体、何がしたいのかしら?」
「ああ、そうだな。まず、言っておく。私は人間の悲しみや苦しみ、そしてどうしようもない絶望が見てみたい」
水月は淡々と自身の望みを述べていく。
「お前を殺す意味が私には無い。お前と敵対する意味もだ。お前のやっている事に対して、何の憤りも無い」
「なら、何で、この城に乗り込んできたのかしら? 私の事は放っておいてもいいんじゃないのかしら?」
「そうだな。私はお前達のやっている事に興味があるだけだ。お前と其処のスフィアと、メアリー。お前らが何を考えて、どのような解答を見い出すのかを最前列の席で見ていたい。それだけだ」
「理解に苦しむわね……」
「そう、言っただろう? 私も背徳者だ。人間の理解出来るような概念で此処にいるわけじゃない。お前が人間を物体としか思えないように。私は人間の行う邪悪さや悲劇を鑑賞したいが為に。人間の行動の結果を物語のように見立てて、それを傍観したいが為に。今、此処にいる。理解される必要なんて無いよ。私の名前はデス・ウィング、悪意を撒く者だ」
そう言って、水月は両手を広げた。
スフィアは頭がおかしくなりそうになってきた。
水月は、スフィアに何をさせたいのだろうか?
ルブルを倒してなど、くれないのだろうか?
水月は唇を歪める。
「私は知りたいだけだ。人間の持っている闇の総体をだ。人間とは何なのか、私は未だ分からない。多分、誰も分からないのかもしれない。ルブル、私はお前とも再び会話をしに、此処に来ただけなのかもしれない。さて、ルブル。お前はメアリーに対して何を思っているんだろう? その処はとても聞いておきたい。お前がメアリーに対して、どんな感情を抱いて、どんな考えで、彼女を自らの手元に置いているのかを、私は知りたいんだ」
スフィアは、水月が何を言っているのかどんどん分からなくなってきた。
スフィアにとって、水月は優しいお姉さんみたいなものだった。
メアリーも同じだった……優しいお姉さんだった。…………。
「メアリーは、私と近い魂を持っている者だと思う。ねえ、スフィア」
スフィアは思わず、ルブルに名前を呼ばれてぎょっとする。
ルブルは身の毛もよだつような声で言った。
「私、貴方を早く殺してやりたいんだけれども、いいかなあ?」
その眼は、かなり本気に見えた。
「メアリーは本当に、何かと貴方の名前ばかり口にしている。いつもいつも、スフィア、スフィア、スフィア……私は早く貴方と会いたかった。何なの? この感情は、初めてかもしれない。私は生まれてきて……」
「ルブル……」
デス・ウィングは言う。
「お前は、初めて人間の感情を知ったんじゃないのか?」
スフィアとルブルは、しばしの間、絶句していた。
また、再び、窓から寒風が室内へと入り込んでくる。
「スフィアを殺したいけれども、メアリーは愛しいか。お前はもう、背徳者と言えるのか? あるいは、魔女だとか……あるいは、悪魔だとか。お前は今、この瞬間、人間になったのかもしれないぞ?」
ルブルの眼は、明らかに泳いでいた。
水月は窓の方へと向かう。
「楽しくなってきた、なあ、スフィア。お前はルブルを殺したい、と。そして、ルブルはスフィアを殺したいと。私はお前達の戦いが見てみたい。どうなのだろう? お前達は結局の処、三人共、嫉妬や猜疑が渦巻いていて、自分だけが正しいと思い込んでいるんじゃないのか?」
水月は……デス・ウィングは満面の悪意を二人に対して、向けていた。
寒風の中に、白い粉雪が混ざっていく。
暖炉の焔が消えそうになっていた。
窓から、雪が入り込んでくる。
暖炉の焔が消えたと同時に、ルブルは叫んでいた。
「デルドス、目の前にいる少女を殴り殺せっ!」
ルブルは叫んでいた。
天井が破壊されて、怪物が降ってくる。
そいつは、頭が幾つもある巨人だった。全身に、沢山の顔が縫い付けられており、喜怒哀楽、様々な表情を浮かべていた。
そいつは、大きな棍棒を持っていた。
そして、巨体を震わせながら、スフィアの下へと迫ってきた。
「み、み、み、水月さんっ! 助けてっ!」
思わず、スフィアは叫んでいた。気付くと、水月の姿が何処にも無かった。いつの間に、消えたのだろうか。
ルブルはスフィアを見て、せせら笑っていた。
「私は私の事を知ったの。スフィア、どうも私は独占欲と支配欲の塊だったみたい。これまでは、世界の全てにそれが向いていたのだけれども、今はメアリーに向いている。私は貴方を赦さない。手足をもぎ取りながら、殺してやろうと思うの」
彼女の声は辛辣なものだった。鋭利な刃のよう。
棍棒は、スフィアの目の前に振り下ろされる。
スフィアは、必死で右手を掲げていた。
スフィアの右手が、デルドスという名の巨大ゾンビが振り下ろした棍棒の先端へと触れる。しゅうぅぅうう、と奇妙な音が響いた。
デルドスは、まるで何も無い空間を薙ぐような感覚に陥る。
そして、振り下ろした筈の棍棒を見た。
棍棒の先端は、まるで砂のように崩れ去っていた。
スフィアは、右手を掲げて、デルドスを睨み付けていた。
そして、真っ直ぐに少女は、巨人の下へと突進する。
デルドスは思わず、地面に尻餅を付いていた。
彼に痛覚は無い。
見ると、彼の左足が枯れ木のように衰えて、彼の体重を支え切れなくなってしまっていた。デルドスは少女を見る。少女の右手には、一本の大型のナイフが握り締められていた。
巨大ゾンビは、振り下ろされたナイフを避ける事が出来なかった。
ナイフは、デルドスの胸の辺りに深々と突き立てられる。
数秒して、まるで風船が萎むように、デルドスの肉体は見る見るうちに縮んでいって、身体中に幾つも生えている顔達が、悲鳴を上げながら、老化していって、そのまま、デルドスの意識は暗闇の底へと沈んでいく。
…………スフィアは、感情が爆発してしばらくの間、我を忘れていた。
そして、呆然と立ち尽くしていた。
彼女は気付く。
見ると、目の前には、全身がかさかさに干乾びたゾンビが、苦しみもがきながら、偽りの生命を終えようとする処だった。
「あれ、私がやったの?」
彼女は酷い乖離間に襲われていた。
「あらぁ? デルドスを倒したのね? 中々、やるじゃない。じゃあ、今度は私を殺しに来る? デス・ウィングは何処かに行っちゃったのだけれども、知らないかしら? 本当に、奴には苛立ち始めているのだけれども」
スフィアが辺りを見渡すと、ルブルの姿も消えている。彼女の声だけが響いていた。
暖炉の火が消えて、暗闇が部屋の大半を覆っていた。これでは、水月もルブルも見つける事が出来なさそうだった。
「あ、えっ、私はどうしたら……」
自分の右手を眺める。
あの棍棒を受け止めたのだ、骨折くらいしていてもおかしくない。しかし、右手に特に異常は見られなかった。それよりも……。
「じゃあ、次はミラミスが貴方のお相手をしたいんだって。私が向かうつもりは無いわ。だって、私の力はまだ不完全。メアリーが何とかしてくれるって言っているから、それを待つつもり。きっと、彼女は私の期待に答えてくれると思う。スフィア、残念ね」
くすくすくす、と暗闇の中、ルブルは笑っていた。
スフィアは、辺りから、何か変な動物の鳴き声が響いてきたのに気付く。
がしりっ、と、今度は足首を掴まれた。
スフィアは咄嗟に、足の辺りを見る。すると、床下から腕が伸びて、彼女の左足を強く握り締めていた。
スフィアは即座に、右手のナイフをその腕に突き立てる。
すると、簡単にその腕は千切れてしまった。そのまま、千切れた腕は腐敗していって、骨だけになっていく。
べりべりべりっ、と。床が剥がれていく。
地面からは、何本もの腕を持ったゾンビが姿を現した。頭の方は骸骨になっており、背中からは、何匹もの犬の顔が生えている。
「どうかしら? スフィア。私の作り出したオブジェは」
「悪趣味っ!」
スフィアは叫んだ。
ゾンビの動きは、余り早くは無い。スフィアはナイフを振り翳して、敵に切り掛かっていく。この敵も、スフィアの攻撃を受けて、簡単に身体の腐敗が早まって、動くのを止める。
スフィアの怒りは徐々に膨れ上がっていった。
「何なの? ルブルッ! 卑怯者っ! 貴方が向かってきたらいいじゃないっ!」
「スフィア」
暗闇の中で魔女は言う。
「私は完全に力を取り戻していない。それから、デス・ウィングが何処かに消えてしまった。外に逃げたのだろうか? 私は目で追えなかった。私はあいつを倒す為に、計略を練っている処。確かにお前もさっさと殺してやりたいけれども、デス・ウィングは簡単に私を倒せるでしょうから。私は彼女を返り討ちにする方法を考えているの」
スフィアは、頭がこんがらがりそうになってきた。
水月も、ルブルも、二人して自分を馬鹿にしているのかと思った。
どうしようもなく、遣る瀬無い怒りがふつふつとこみ上げてきた。
メアリーの所業に対しては感じなかったもの。
しかし、今は二人に対して、怒りを感じている。水月に対しては、意味の分からない無責任さを感じたから、そしてルブルに対しては、彼女は純然たる敵なんだと認識し始めていた。
感情というものは、分からないものなのだと、スフィアはこの時、感じていた。
複雑なものが交差して絡まり合って、生成されている。
それが、感情というものなのだろう。
グリーフと名付けた力。
それが、スフィアのネガティブな感情の部分に起因しているものなのかもしれない。
今は、右手が酷く力強く感じていた。
「スフィア」
ルブルが暗闇の中、彼女の名前を呼ぶ。
「私の力の名前。私は自分の力に『カラプト』と名付けている。堕落という意味。ちなみに、私はゾンビを操作する能力が全てだと思っているのなら、それは違うと言っておく」
ルブルの姿が見えない。
ただ、嘲っている事だけは分かった。
「私はゾンビを操れる能力というよりも、“死体を好きなように作り変えられる”という能力なの。生き物の死体を使って、私が好きなように再構築する事が出来る。ゾンビを生み出しているのは、その派生っていうだけ」
暗闇の中で、何かが現われた。
スフィアは、それが何なのか分からなかった。
どうやら、それは壷のようだった。
「ちなみに、この城は、全部、死体を固めて作っているのは分かるわよね? さて、スフィア。私は貴方に対して、思い付く限りの嫌がらせを幾らでも出来るわよ?」
地面が砂のように溶け崩れていく。
そして、砂と化していく地面が、どんどん壷の中へと収まっていた。
どんどん、床が沈没していく。
気付けば、一面がアリ地獄のようになっていた。
スフィアは必死で、壁の方へと走ろうとしていた。けれども、足がどんどん沈んでいく。そして、スフィアは気付いた。両足は、無数の腕によって掴まれていた。
スフィアは必死になって、腕をナイフで切り落としていく。しかし、腕は次から次へと生えてきた。
彼女は、勢いよく地面へと落下していく。
気付くと、そこは砂漠のように、砂だらけの場所だった。
「ううっ、……痛い……」
どうやら、背中を酷く打ち付けてしまったらしい。
彼女は周りを見渡す。
すると、そこは出口の無い空間に無かっていて、壁の中から何体ものゾンビ達が飛び出してくる処だった。スフィアは引き攣った顔になる。
腰を酷く打ってしまったので、しばらく立ち上がれなかった。
仕方が無いので、スフィアは地面を右手で触り続ける。
すると、地面が見る見るうちに、腐敗していく。
†




