第一幕 極寒の刃が吹き荒れる地で。 1
事件が起こる数日前の事だった。
…………………………………………。
廃墟となった城砦の中を、彼女はねぐらにしていた。
彼女は旅人だった。
たまたま、此処に放浪しながら、訪れていた。
彼女は幾つかの『貯蔵庫』を行き来して、品物を収納していた。
彼女は、人間の作り出した悪意のある物を集めるのが大好きだった。
たとえば、人を殺した拳銃だとか、誰かが首を吊った縄だとか、禁書にされた本だとか、あるいは、人間の人体の一部だとか。
そういったものが闇市などで売られていると、思わず買い集めてしまうのだった。
言わば、彼女は悪意ある品物を集めるコレクターをしていた。
いつかは、店を出そうと思う。怪しげなオカルト・ショップとして開店するべきか、お洒落なアンティーク・ショップとして開店するべきかも迷っていた。両方、やってみるのもいいかもしれない。
「“水月”さーんっ!」
彼女は、何かと騒がしくなっている場所へと眼を向ける。
先ほどまで、雪かきをしている少年達に混ざって、長い黒髪を大きなベレー帽によって隠した少女が、城砦の中で毛布に包まっている女に手を振っていた。
女は、恐ろしい程の美貌を有していた。余り手入れをしていない髪に、着古したようなニットの服と、汚らしいジーンズを身に着けているが、身なりに気を付ければ、そこいらの男など、みなが彼女の虜になりそうだった。
「おや、スフィア。来ていたのか」
デス・ウィングは、読んでいた本のページに、栞用のナイフを入れる。
「水月さん、水月さーんっ! 今日は、どうしていらっしゃるのですか?」
「生きるのを怠けている。日々、可能な限り、自堕落に生活して、睡魔と読書欲ばかりに耽溺している。そのうち、自分の店を出そう出そうと思っているんだが、私にそんな事、出来るのかな? 金銭の管理の仕方に自信が無い。客に対する礼儀もだ。そんな私が店を出すというのは、どうにもな、拙いものだよなあ」
彼女は、どうしたものか、と唸っていた。
「あの、何、読んでいたんですか?」
「マルキド・サドとかいう作家の『悪徳の栄え』だ。対になっているらしい、『美徳の不幸』も同時に買った。処で、此処の小説に書いている内容をお前で試してみたいんだが、どうなのだろうか。興味はあるか?」
そう言いながら、デス・ウィングはスフィアに本を渡す。
スフィアは、ぱらぱらと、本のページをめくっていく。
中には、えげつない性倒錯の描写が延々と書き記されていた。
更に、追撃を入れるように。
水月は、奥にしまっている春画本を大量に取り出す。
それも、年頃の年齢であるスフィアに渡した。
スフィアは、半ば、錯乱状態になっていく。
「私は思うんだが。彼女達の肌は、酷く豚肉に似ている。切り売りして、店に出してみようと考えているのだが。どうなのだろうか。それにしても、本当に不可解な顔をしているのだな。女というものは。なあ、スフィア。どうすれば、理解出来るのかな?」
デス・ウィングは、ナイフで本に載った絵を切り裂いていく。
彼女の眼は、どうしようもない程の悪趣味な嗜好が光り輝いていた。
そして、今度は、肌蹴た服から裸体を晒す女達を映した、モノクロ写真を、何枚もスフィアに渡していく。
スフィアは、半ば、興奮状態を忘れられずにいながら、写真を見ていく。
「みんな、美人ですね。でも、水月さんには叶わないですよ。顔も、プロポーションも全部。本当に、水月さん、勿体無い」
ううん、と。デス・ウィングは、顎に手を置いた。
「どうやら、花売りという職業らしいのだが。どうも、男に夢と希望を与えるらしい。私は悪意しか他者に対して、贈り物をするつもりが無いので。女衒という職業をしている男からの誘いを断り、写真だけ貰ってきたのだが。彼女達は、みな、美人なのか? 私には、分からない」
デス・ウィングは、そんな事を言いながら。このスフィアという、まだ二十に満たない少女を面白おかしく弄繰り回していた。
そして、彼女はふうと息を大きく吐く。
それにしても、此処は寒い。
自分には、気温や温度といったものを感じる事は出来ないのだが。それでも、酷く寒いのだと思えてしまう。
この前は、何名もの、凍死者を出したらしい。
スフィアは、どうやら、薄着気味にも見える彼女の健康を案じているみたいだった。
当然、デス・ウィングにとって、気温というものは意味を為さない。
しかし、やはり人間らしい格好をしていた方が良いようにも思える。
先ほどから、スフィアは身を震わせながら、白い吐息を吐き続けている。
デス・ウィングには、当然、そのような変化というものが存在しない。
「もう、それにしても、水月さんはちゃんと、髪の手入れとかしてくださいよ、ちゃんとしていれば、本当に美人なんだから」
長い、煤けた金髪をスフィアに梳かして貰いながら、いい加減に不快に感じていた髪の中の埃を取ってもらう。
「そうか、……私は他人から見ると、そんなに容姿がいいのか?」
デス・ウィングは首を捻る。
「私、水月さんの事、本当に大好きなんです。もし、私が男だったら、絶対に絶対に、プロポーズしますもんっ!」
「そうか、それは嬉しいな」
デス・ウィングは、冷たく笑った。
その顔は、まるで死人のようでもあり、悪魔のようでもあった。
しかし、スフィアから見ると、やはり彼女は強い神秘性を持ち、玲瓏な美貌を持つ魅力的な大人の女性というものなのだろう。
デス・ウィングが、この世界と自分との間に強く感じているズレは、まるで幾重にも隔たれた断層のようにも思えてしまう。
彼女からすると、この世界自体が、極めてミステリアスに思えて仕方が無かった。
自分以外の他者というものが、理解不能な異物としか思えなかった。
デス・ウィングは、自分の顔を美しいと思った事が無かった。
しかし、女の顔を見て、おそらくはこういった女が、普遍的な者達にとって受け入れられやすいのだなあと認識する事くらいは出来た。
「スフィア……お前は、本当に可愛い娘なんだな?」
スフィアの事は自分では、どう思っているのだろうか。
あるいは、人間というもの、他人というものは、デス・ウィングにとってはどういった存在なのだろうか。
……純粋無垢なスフィアを見ていると。彼女の信じているものの、何もかもを壊してしまいたくなる。けれども、それを行わない。
それは、彼女の結末を見てみたいからなのだろうか。
金は持て余す程、ある。
しかし、どうしようもない空虚感を埋める事が出来そうにない。
それは、幼少期の頃からだ。
人間の持っている邪悪さ、それを見つめ続けていたい。
廃墟の主は何も無い空間に向かって、笑い続けるのが好きだった。
「なあ、スフィア。旅をしてみないか?」
それは、悪魔の甘言に等しかった。
というか、明らかに、デス・ウィングは目の前にいるいたいけな少女に向かって、悪意ある提案を述べていたのだった。
きっと、霊廟のように自分の人生は閉ざされているのだろう。
もう、生きた死体なのかもしれない。
ならば、その感覚に他人も巻き込んでしまいたい。それはとてつもなく、魅惑的な事なのだ。
この少女の心を思わず、壊してしまいたくなった。
彼女は酷薄な笑みを浮かべる。
「旅をしようと思っているのだけれども、お前も付いてくるか?」
デス・ウィングは、再び、同じ言葉を口にして、少女の頭を撫でる。
スフィアは白い吐息を吐いていた。
ううううっと全身を震わせていた。
†
デス・ウィング