第四幕 地獄の大舞台 3
メアリーはふと、スフィアに対する憎悪が消えかかっているような気がした。
ルブルを見ていると、確かに怖いと思うし、いつ彼女の悪意が自分に向くのか分かったものではないが、別にそれだってどうでもいい事なんじゃないのかと思えてくる。
自分は不幸を感じて抜け出したかったのではないのだろうか。
多分、不幸だとか憎悪だとかってのは、その場所に留まり続けるから起こってくる感覚なのだろう。自分のいる世界が閉ざされていると感じて、人間ってものは、そういった負の感情が強く巻き起こってくるのだろう。
そして、自分は人一倍、そういったものを持っていたのだろう。
メアリーは、今はとにかくローザとジュダスを倒す事ばかりを考えていた。
胸の奥が高揚しているのが分かる。
こんなにも、強く目的があると楽しくて仕方が無いのかと思えてしまう。
これから、ディーバまで行って、都市を焼き尽くして回りたい。
屋敷で働いていた時は封じ込めるしかなかった破壊衝動を、今はルブルに全面的に肯定されてしまっている。なら、全力で彼女の役に立とうと思った。
自分はそんなにまだまだ強くない。
マルトリートをもっと、強力な能力にしなければならない。
もっと、イメージを研ぎ澄ませないといけない。
どんな幻覚を実体化すれば、相手にとって嫌がるものになるのか。
あの狼を倒すには、どうすればいいのか。
妬まずにはいられない衝動とは、何なのだろうか。
自分が嫌いだからなのか、自分が置かれている環境が嫌で仕方が無いからなのか。
愛憎という、相反する二つの感情の総括の仕方が分からない。
どうしようもない程に、他人という存在がある事で不自由さが生まれてくるのだろう。
いっそ、自分も他人も生き物だと思わなければ、どれ程、楽なのだろうか。
ふと思うのは、普通の人間のように幸せになりたかったのだが。メアリーにとって、孤児院を出てからあんまり楽しい事なんて無かったような気がする。
どうしようも無い程の強い徒労感ばかりに襲われていた。
とにかく、スフィアの事も忘れて。メイドの仕事の事も忘れて、ついでに孤児院での記憶の事も忘れて。完全に新しい人生を考える事もいいのかもしれないと思った。
「私には、あんまり何も無いんじゃないのか…………」
不幸なんてものは、他人に押し付けられるものなのかもしれないなあと思った。
「メアリー、人は何者でも無いのよ。私からするとね。だって、人が生きている間に出来る事って、大して無いんだと思うわ。人間なんて、簡単に死んじゃうし。どうしようもない程に弱い生き物なんだから」
ルブルは戦力を強化すると言った。
あの狼に対抗する手段は、今後、考えるとして。
それ以外にも、ローザという敵を倒さなければならない。
地上を二人のものにするつもりだ。
†
ジュダスは吼える。
歌うように、吼える。
彼は自分の分身体をディーバの街中に飛ばして回っていた。
彼の全身は、血が煮え滾っているかのようだった。
「力が戻ってきた。しかし、俺は何をそんなに震えているんだ? あの魔女程度ならば、簡単に倒せそうなのだが。何かが訪れようとしている気配を感じている。それは、予感なのだろうかな?」
ディーバに住まう者達が、次々と、地面に倒れていく。
そして、彼らは影のようなものへと飲み込まれていく。
「俺は疫病そのものの化身のようなものだ」
彼は、再び吼えた。
遠吠えは、街中に響き渡る。
無差別に、彼のヘル・ブラストが暴れ回っていく。
まさに、それは死の行進そのものだった。
「弱い奴から死んでいけ」
彼はディーバを走り続ける。
狼を見た、と。子供達がわめき散らす。
大人には、彼の姿は見えない。彼の幻覚作成で作られた幻影は、イメージに強く働き掛けており、特にイメージを失った多くの大人達には彼の姿を見る事が出来なかった。
彼の能力によって、倒れていく者は、子供や老人が先だった。
特に、身体の弱い子供や、寿命が近付いている老人が、彼の遠吠えを聞き取る事が出来て、死の闇へと飲み込まれていく。
ヘリックスの能力によって、一時的に魔女の城へと強い分身体で向かう事が出来たが、彼の能力はかなり弱体化して顕現されている。
それでも、彼は満足げに呟いた。
「死は等しく、何者にも与えていく。そして、病気は弱い者達から発病していくのだろう。俺が撒いているのは、救い難い疫病そのものだ。死に焦がれるという病気なんだ」
彼は楽しそうに死に行く者達を、ディーバの中で高い位置にある地区から見下ろしていた。
「さあてな、死とはそもそも何なのだろうな? 俺は咆哮によって、みなに思い出させているだけだ。お前らの自由は死によって奪われていくのだ。死は自由を奪い、あるいは、死は自由そのものなんだ」
彼はまさに、地獄からやってきた裁きの王であるかのようだった。
あるいは、この世界を暴力と破壊によって支配する暴君そのものであった。
おそらくは、彼に比べるのならば、ローザでさえも、まともな君主でしかないのだろう。
ジュダスには、秩序というものが存在しなかった。
あるいは、彼は死を撒くという理由のみが秩序だった。
彼の前では、弱い者から死んでいく。
その現象を行う理由など、彼には何も無かった。あるいは、彼が存在している事そのものが、死を撒き散らす理由そのものなのかもしれない。
ジュダスは走る、何者をも死へと平伏す為に。
ジュダスは踊る、冥界へ旅立つ者達への餞の為に。
ヘリックスは、遠くから、その光景を眺めていた。
あの狼を止められる者など、誰もいなそうだった。
ローザは、ヘリックスの報告を聞いて、寝台の上で神妙にこれからの事を考えているみたいだった。
「ジュダス……か。裏切りを意味する者とも聞いている。元より、私達の手で使えるような奴なんかじゃない。彼は確かに、強力な戦力ではあるが。魔女よりも強敵なのでしょうね。私はどうするべきか」
地下牢から、ヘリックスに連れられて、アンクゥが現われる。
そして、ヘリックスが、窓を開けて、遠くにいる狼に指先を伸ばす。
「あいつ……、あいつの封印を僕とローザ様は解いてしまった。魔女ルブルの軍政は、ゾンビの集団だ。それに対抗するのが難しいと踏んでしまって。僕達は、魔女を倒さなければならないのだけれども、同時にあの狼も止めなければならない」
アンクゥは少しだけ、呆れたような顔をする。
彼は状況を頭の中で、纏めると、素直に思った事を口にした。
「お前ら……馬鹿じゃないのか? どうにもならない暴力を何とかする為に、どうにもならない暴力を解き放ってどうするんだよ?」
「仕方の無い事なのよ」
寝台から、布が開かれる。
中から、真っ白なドレスに身を包んだ金髪にティアラを被った女が現われる。
ヘリックスは少しだけ驚いた顔をする。
「ローザ様……」
「私の能力『ドゥーム・オーブ』の力の概要を教えて欲しい?」
アンクゥは首を傾げる。
「どういう事だ?」
「まず、貴方にはどうやら効果が無いみたい。そして、どうもヘリックスにも効果が無い。氷帝にも、効果が表れない。私はそういった素質のある者を、なるべく部下にするようにしている。だから、貴方を選んだ」
アンクゥはますます、首を傾げた。
「どういう事なんだ?」
「私の能力『ドゥーム・オーブ』は、対象や一帯にいる者達の女に対する欲望に働き掛ける事が出来る。そして、なおかつ私の容姿を綺麗だとか、私を自分の物にしたいだとか思った相手を、私は“飲み込む”事が出来る。そして、私はそういった者達を食べて、自らの生命エネルギーに変える事が出来る。……どうも、ヘリックスや氷帝はそういったものに淡白で、貴方も私に対して、敵意や殺意しか抱いていない。そういう相手には効果が無いの。それから、やっぱりジュダスにも効果が現われない」
「そういう事だったのか……」
彼の街も、彼の街に住んでいた人々も。女には効果が現われなかった。それから、一部の男達にもだ。
おそらくは、男の持つ性欲に働き掛ける力なのだろう。
彼は、大体、その女の使う能力の概要は把握しつつあった。
確かに、アンクゥは目の前にいるローザに対して、殺意ばかりしか湧いてこない。
それから、自分は今後、復讐の為のみに生きると考えていた為に、異性と恋愛する事などもまるで考えていない。
そういったものから、ローザの能力を防ぐ結果に繋がっているのだろう。
「僕はヘリックス。それから、そこの氷帝もだけれども、みんな不安定な力を有しているからね。僕達の偵察だけでも、魔女側には、相手を石化するガスを放ってくる奴と、幻覚を操作しているっぽい、わけの分からない女の人がいる。それだけでも、どうにもならないんだ。君は強いんだろう?」
「ああ……、強いぜ」
彼はそう言って、自身の能力である『ソリッド・ヴァルガー』を問答無用でローザに叩き付けようかと思ったが……止めにした。
ローザは泰然としている。
何故か、彼は攻撃をしてこないだろうと信じ切っているかのようだった。
「なあ、俺はいつでもお前を殺すつもりでいるんだぜ?」
ローザは首を横に振る。
「それも承知しているわ。でも、私にとって国がとっても大切だっていう事も理解して欲しい。貴方の住んでいた街の人々は、私の国ディーバに危害を加えようとしていた。だから、私の食卓になって貰った。分かるでしょう? 貴方の側も、完全な正義で無い事くらい……」
アンクゥの唇は震えていた。
それは怒りなのだろうが、果たして、何に対する怒りなのだろうか。
「生きる事というのは、残るべき者と死んで朽ちていくべき者を切り分ける事なのだと私は考えているわ。そういうものでしか無いのだと。ジュダスの場合は無差別だし、敵の魔女の場合は、人類全てを等しくゴミのようにしか思っていないみたい。どちらに正義があるのか私には分からないのだけれども、少なくとも、私は私が正しいと思っている事をやっているだけ。国を維持していく事だとか。この世界に生きる人々の幸せの絶対数とかの為ならば、犠牲になっていく人々も沢山、必要って事」
ローザは淡々とそのような事を言う。
「だから、私は別に私を殺そうとする連中がいくらいてもおかしくないと考えている。それは、もうどうしようも無い事なのだと。正義によって残る側から漏れてしまった者達や、その家族からしてみると。私は死ぬべき人間なのだろうから。貴方の名前はアンクゥと言ったかしら?」
「ああ……」
「私を殺す前に、私のように悲劇を振り撒いている魔女やジュダスも倒すべきなんじゃないかしら? あの連中は、少なくとも、この私よりも最悪な存在だと思うわよ」
彼女は、彼の心の奥底に刃物を入れるかのように、言葉を紡ぐ。
アンクゥはぐうっ、と歯軋りする。
「その狼、何をやっているんだ?」
ヘリックスは言った。
「彼の本体は地下牢に繋ぎ止めているんだけれども。僕の能力を使って、分身のみを出したら、やっぱり僕達の言う事を聞いてくれなかった。これから、ちゃんと交渉に入ろうと思っているんだけれども、多分、駄目なんじゃないかなあって思っている」
「何で、封印を解いたんだよ?」
「再三、言うけれども。僕達じゃ勝てないんだよ、魔女とそのとりまきに。あんなに強い力を見せ付けられるなんて……。僕達の側は、軍隊を簡単に制圧出来る氷帝が最大の力だったんだけれども、氷帝相手にかなりの善戦をしてきた。多分、今度はもっと強力になってやってくると思う。どうにもならない」
「ふん、そんなものか。浅はかだな?」
「民を守る為だよ、仕方が無い。みんな幸せに暮らしているんだよ。それを僕達は守らなければならないから」
「一応、私は軍隊を持っていて、沢山の兵士がいるんだけれども、駄目でしょうね。能力者相手にはまるで歯が立たない。アンクゥ、貴方だって、その気になれば、兵団の部隊くらいなら、簡単に全滅させる事が出来るのでしょう?」
「ああ、当然だ」
「能力者というのは、卑怯な存在なんだって私は思うわ。この世界に降りてきた悪夢そのものね。この世界の神や摂理に背いているとしか思えない。私がそうであるように、貴方がそうであるように」
†
挿絵・桜龍様
女帝ローザ
九藤様より頂きました。
地獄狼ジュダスの挿絵です。




