第四幕 地獄の大舞台 2
「メアリー、私は人間が気持ち悪い」
「そんな事、分かっているわよ」
二人は、晩餐を行っていた。
鶏皮のスープだ。
二人で、スプーンで、スープを掬って食事を行っている。
「ローザを倒すとすれば、やっぱり、彼女の考え方だとかを理解しないといけないんじゃないのかと思うのよ、メアリー。私は人間というものを何も理解していないから、相手の事がよく分からない。やっぱり、強敵を倒す場合は、相手の思考を見抜かないといけないと思う。どうかしら?」
テーブルの中央には、大きなサラダが盛られている。
「狼は?」
「うーん、もっと分からないわねえ」
ルブルは、口の中をもごもごとさせていた。
「やっぱり、サラダは美味しいわねえ。味付けがいい。処で、この細長いのは何かしら?」
「パスタよ。貴方の時代には無かったの?」
「んーん、ちょっと分からない」
ルブルは首を傾げた。
「そう言えば、ローザとかいうのは、“食事”をしているのよねえ。人間を使って」
「そう、どうも男が限定らしい」
「うーん、やっぱり、私には分からないわね」
二人は、少しずつ、お互いの感覚だとか、趣味だとかを話し合っていた。
ストーブの炎が、ちろちろと、燃えている。
この城は、死体によって積み上げられている。
ルブルの傲慢さを端的に象徴するものだった。
「人形遊びの事を覚えている」
ルブルは、淡々と語り出す。
「いつだって、私は人形にばかり話し掛けていた。それがとっても、楽しいから。髪を撫でたり、おままごとをしたり。着せ替えとかしたり、人形の口にスプーンを突き立てていたなあ。多分、時間は凄く満たされていたのだと思う」
「お友達はいなかったのかしら?」
ルブルは口元に手を置いて、しばらくの間、考えていた。
「いなかった。友達、多分、それは他の人達の言葉なのだと思う。だって、それは仕方の無い事なのだと思ったから。私はこういう風に生まれ付いていて。全てが人形遊びなのだと思っていたから、だって、人って気持ちの悪い生き物だもの」
「ふうん、私は人間の人格を認めているからこそ、人間が憎いの。だから、全部、踏み潰してしまいたくって」
二人は笑い合った。
どう言えばいいのか分からない感情が、二人の中には芽生えていた。
「ねえ、メアリー。人間って本当に気持ち悪いわよね」
「そうね、ルブル」
二人共、満面の笑顔を浮かべていた。
多分、この言葉を分かり合える相手が、ずっと欲しかったのかもしれない。どうしようも無い程の、世界や他人との乖離感が二人の中にはあった。
他人というものの中に、自分と同じようなものを見つける事が出来ない。
そういった感覚をつねに持ち続けていたとでも言うべきか。
人間が、自分と同じ生き物だとはどうしても思えない。
初めて、自分と似ている者と出会えたような気がした。
きっと、それはとてつもなく大切な出来事なのだろう。
「人間を踏み躙って何が悪いのかしら?」
ルブルは言う。
「他人を憎んで、何がいけない事なのか私には分からない」
「そう、憎めるだけいいじゃない。そんなに他人を深く想えるのなら。私は、他人に対して、何の感情も持つ事が出来ない。それはどうしようも無い事だった」
ルブルの心は、どうしようもなく深く閉ざされていた。
自分以外の全ての人間が、動く物体に見える。
けれどもだ。
「私は貴方に抱く感情は何なのだろう? 分からないなあ、感情って、何なのだろう。私には、何も分からない。何故、存在しているのだろう?」
ルブルは何かを迷っているみたいだった。
「どんな感情も、どうせそのうち風のように何処か遠くへ行ってしまうのだと思う。私は何故、スフィアを憎んでいたのか、今はもう分からない。私はきっと、ずっと同じ場所に居続ける事が出来なかったから。それが苦しかった、ねえ、ルブル」
「何?」
「私は幸せかもしれない。私達の幸せの下には、大きな犠牲が積み上げられた。ルブル、私にもっと、邪悪なものを教えて欲しい。私は憎悪そのものとなりたい」
メアリーは右手を差し出す。
ルブルから、取り替えられた右手だ。
ルブルは、メアリーの右手を強く握り締める。
暖炉の炎は赤々と燃えていた。
窓は部分部分が破壊されているので、隙間風が入り込んできて、やはり寒くて仕方が無かった。
どうしようもない程に愛しいものが見つかったような気がした。
†
どうにかして、前に進まなければならない。
自分自身を奮い立たせる為の言葉が欲しい。どうすれば、いいのだろうか。
「私、戦えるのかな? 私、……人を憎めるのかな?」
自分自身に言い聞かせる。何で、こんなにも不条理なのだろう。
憎みたくもないのに、憎めと言われている。
戦いたくもないのに、戦えと言われている。
どうすればいいのだろうか。
そもそも、心の何もかもが崩壊しそうなのだ。どうすれば、それを繋ぎ止めようとするのかの方が大変だと言うのに。
憎む強さもあるのかもしれない。
全部、自分が悪いんじゃないのかと思ってしまうのだ。こんな事態を引き起こした自分が全部、悪いんじゃないのかって。
今はただ。
前に進みたい。たとえ、その結果が、メアリーや水月が期待したものじゃなかったとしてもだ。
そもそも、ずっと自分の意思なんて無かった気がする。
憎悪と悪意を掲げる二人。あの二人の考えに押し潰されそうだ。
二人に振り回されてばかりなのだ。
このままでは駄目なんだと思う。
自分が何であるかを確立しなければならない。
「私は、一体、何なのかな? 私は一体、どうすればいいのかな?」
ずっと、振り回されっぱなしだ。どうしようもない。
何故、生きているのかを自分で形作らなければならない。
きっと、もっと何か違うものと戦いんじゃないのかと思う。
大きなものと戦いのだろうか?
それはどんなものなのだろうか?
「みんな、楽しく笑えればいいのに。何故、何だろう?」
もっと、年齢を重ねていったら、どす黒い感覚が芽生えていたのかもしれない。きっと、あの二人も、何かがあって、暗い世界で生きる決意をしたんじゃないのだろうかと思ってしまうのだ。
閉ざされてしまっているものを、こじ開けなければならないんだと思う。
こんなにも、みんな苦しそうにして、こんなにもみんな絶望しているのなら、自分が何とかしようと考えてしまう。
「そんな感じだから、私、メアリーに嫌われたのかなあ?」
彼女の歪みをどうして、理解して上げられなかったのだろう。
そんな風に、思考の反復ばかりが湧き上がってきてしまうのだ。
みんなを理解する為にはどうすればいいのだろうかなあ、とばかり思っている。
ただ、今は何かの力が目覚めつつある。それが、一体、何なのかは分からない。もしかすると、そのうち、その力が何なのか分かるのかもしれない。
「うーん、本当にどうすればいいのかなあ」
今は地図が分からない状態なのだろう。
腹の音が大きく鳴る。
取り敢えず、お腹が空いた。
何か食べてみてから考えようかと思う。水月から渡されたパンは食べてしまっていたし、温かいスープは冷たくなってしまっている。食べ物をちゃんと口にすれば、きっと元気が出てくるかもしれない。
「私は戦いたいんじゃなくて、きっと何か誤解があるんだって、メアリーに伝えよう。それから、おじさんの事も。友達も事も、きっと彼女は謝ってくれると思う」
大事な何かを壊されたからって、大事な人を憎む事も難しい。
自分はただの子供でしかないのだろうか。ならば、それでもいいのだろう。
スフィアは歪んで育つ事なんて出来なかった。
それは多分、おじさんの教育のお陰なのだろう。
人をちゃんと信じる事だとか、不幸な目にあっても、それは未来の為にとっても大切な事なのだとか。スフィアの養父は、彼女にそのような教育を施していた。
養父は、熱心な宗教家だったのだ。彼女に、こういうものが正しいのだと教え続けた。人を憎んではいけないだとか、自分が苦しくても、頑張れば、ちゃんと人は見てくれているだとか。
水月はスープを用意してくれた。
羊肉をしっかりと煮込んで、ターメリックの葉を漬け込んでいる。
彼女はそんなに料理が得意ではないと言う。
スープの味がある程度、付いてくると、今度はふかしたお米を注ぎ込む。
そして。
ターメリック風味の羊肉のリゾットとでも名付けよう、と彼女は言った。
「そんなに私は料理が得意ではない。味は?」
「いいですよ、何かちょっとお米をぐちゃぐちゃし過ぎかなって感じですけれども。でも、美味しいです」
「そうか。宮廷にいた頃に覚えたのだが。やはり、コックの味は再現出来ない」
「水月さんって、本当は苦手なもの多いんじゃないですか?」
「お前は得意な物などあるのか?」
「ううっ……、そう言われると困ります……」
「それにしても、料理というものはやはりコミュニケーションには最適だな」
「メアリーはですね! とっても、クッキーを焼くのとか巧かったんですよ!」
「そかそか、お前って本当にみんなから、妹みたいに思われる奴なのかもな」
「水月さん、それって、私の事、妹みたいに思ってくれているんですか?」
水月は柔和な笑みを浮かべた。
何で、彼女は普通に楽しい事ばかり言ってくれないのかなあとスフィアは思った。
スフィアは水月に、自分に変な力が目覚めつつあるのかどうかを言おうか悩んだ。けれども、多分、力の事はとっくに知っているんじゃないだろうかと思った。
そう言えば、と考える。今更ながら、水月は何者なのだろう?
気付けば、スフィアの近くにいた、といった感じなのだ。
そう言えば、彼女に関して、深く訊ねた事が無い。
どういう処に住んでいたのだろうかとか、どんな経歴を持っているのだろうかとかも分からない。訊ねてみようかと思うのだけれども、どうしても聞けそうに無かった。
……もっと、私は他人を知ろうとしないと駄目だと思うんだけどなあ。
この世界は、自分だけが生きているわけじゃないのだから。
もっと、他人の事を考えないと駄目なんだと思った。でなければ、知らずに傷付けてしまうんじゃないのかと。
どんなに近くにいても、人は分かり合えないものなのだと思う。
そういったものの積み重ねによって、人は分からないまま生きているのだろう。
けれども、何故、分かり合えなかったのかを追い掛けたい。
考えて、考え尽くした先に、何かが見つかるのかもしれないから。
自分の何が駄目なのだろう? 優柔不断な処なのだろうか。何の基盤も無く生きている処なのだろうか。
そういった部分を、水月などは嘲っているのかもしれない。
……私、ちゃんとしなければ駄目なんだよね?
戦わなければならない。
けれども、戦い方がまるで分からない。そうやって、考えている間にも、時間はどんどん過ぎていってしまう。
多分、メアリーはこれからも人を殺すんじゃないのだろうか。
出来れば、それを止めたい。
彼女と話し合いたい。
理解出来なくても、理解しようと思い続けたいのだ。そして、多分、自分自身の事もちゃんと理解しないといけないのだろう。
自分を形作るものが、一体、何なのだろうかとか、自分には一体、何が出来るのかとか。そういったものの先に何かがあるのかもしれない。
……そか、私は私の生き方を決めないといけないのかなあ?
「私、頑張らないとなあ。……そう言えば、水月さん。水月さんって、一体、何の為に生きているんですか? ええっと、ほら、人生の目的とかってあるんですか?」
「私か?」
彼女は顎に手を置いて、考える。
そして、口元を三日月形に歪めて言った。
「他人の悲劇が見たい。以前も言ったような気がするが、とてつもなくシンプルな理由で生きているだろう? 私はそんなもんなんだよ」
「そんなもんって……」
「分からないか」
「分かりませんよ。どういう事を言っているのか。えっと、何ですかね。人の不幸を見てみたいとかそんなもんなんですか?」
「いや、不幸なんてそこら辺に転がっているよ。誰だって不幸なのかもしれない。この世界に生まれてしまった事が不幸なのかもしれない。けれども、私が見たいのは、もっとそう、邪悪でどうしようもなくて、救い難くて、何が何だか分からない不幸。そうだな、私は漠然とそれを悲劇と呼んでいるのかな? 人間の悪意を突き詰めていった先に、一体、何があるのかを私は知りたいのかもしれない。スフィア、私はもしかするとお前がそれを見せてくれるのかもしれないと期待しているんだが……」
スフィアは、また頭がこんがらがった。
「期待されても、その、困りますよ。私に、もっと不幸になれって事なんですか? これ以上の不幸ってよく分からないです。私、どうすればいいか分からないし」
「いやいや、期待していたんだが。もしかすると、お前ではなく。私とお前が向かう先にある何かによって、見届けられるかもしれない、かな」
そう言って、彼女は意味ありげに微笑を浮かべる。
やはり、彼女の事はまったく理解出来そうにないなとスフィアは思った。
「私はそうだな。今回の物語。お前らの物語で、憎しみとか絶望とかいうものを知ってみたいというわけだ。それがどのようなものなのか、私は見てみたい。そこから生まれるものを収集してみたいんだ。人間の奥底にある負の感情とは何なのかを知り尽くしたい。そうだな、スフィア、今回はそれを見たくて、お前の物語に介在しようと思ったというわけだ」
水月はスフィアには、やはり理解不可能な事を延々と述べるだけだった。
ただ、彼女から、凄く気に入られているらしい事だけは分かった。
†
アンクゥは牢屋の中で目覚めた。
冷風が、部屋の中に入り込んでくる。
ローザの城に入ったまではいいのだが。彼女の配下に出会って、負けてしまった事までは覚えている。
自分の意識がまだ存在するという事は、自分は殺されてはいない。
とすると、此処でしばらくは生かしてくれるのだろうか?
「ああ、畜生。俺ももうお仕舞いなのかな……」
鉄格子が目の前にあるだけで、身体には特に異常が無い。
手足に枷を嵌められたりとかもない。身に着けている服もそのままだし、持ってきた持ち物も隣に置かれている。
自分はどうするべきかと考えた。
この牢屋から抜け出すべきなのだろうが、迂闊に出る事も出来ないんじゃないのか。
しかし、先ほどの敵には気付けば負けていた。
不安ばかりが襲い掛かってくる。無力感も込み上げてくる。
「俺、どうすればいいんだろうなあ?」
目覚めてから、数十分くらい経過すると、上の方から足音が聞こえてきた。
それは、一人の老人だった。
法衣のようなローブを身に纏っていた。
「お前の名前は何と言う? わしの名前は氷帝と言う。ヘリックスの手によって、捕らえられたのだろう?」
「ん、ああ……?」
「ローザ様の命を狙ってきたのか?」
アンクゥはそれを訊ねられて、眉を顰めた。
これから、尋問が始まるのだろうか? あるいは、拷問が始まるのかもしれない。
処刑される覚悟は決めておくべきだ。しかし、出来ればその前に一矢、報いたい。
彼は自身の能力、ソリッド・ヴァルガーを撒き散らそうと考えていた。……。
「のう、お主の名前は何と言うのだ?」
「俺か? 俺は……アンクゥ。名前なんて聞いてどうするんだよ? これから、俺を始末する予定なんだろう? どうせ、俺の家族はみんなローザの手で殺されてしまっている。俺から何か情報を引き出そうとしたって徒労に終わるだけだぜ。俺はたった一人で、此処に乗り込んできたんだからな」
それを聞いて、氷帝と名乗った老人は驚きを隠せない顔をしていた。
「やはり、そうなのか。お前はこの城に一人で乗り込んできたのか。では、やはりかなりの手練なんじゃろうな。それはわし達にとっては、幸運な事だ。なあ、青年、一つ相談があるのだが、聞いてくれないじゃろうか?」
「何だ?」
「ローザ様と、わし達の手助けをして欲しい」
氷帝はそんな事を言った。
アンクゥは意外な顔をした。
「ローザは俺の家族の仇だ。俺は……」
「そうじゃと思う。おそらくは、ローザ様が“食卓”にしている街の住民の誰かなのじゃろう? しかしじゃ。ディーバを含めて、お前達も拙い事態になるぞ。もし、出来るのならば、わしらに一時的にでも協力して貰えないじゃろうか? その後で、ローザ様に挑むなり、わしらがお前の始末の仕方を決めるなりしたいんじゃが」
アンクゥは首を捻る。
「何か、わけありみたいだな?」
「そうじゃな。ローザ様がおそれる事態になりつつある」
「どういう事だ?」
「魔女ルブルと名乗る者がローザ様に宣戦布告をした。魔女と名乗る敵は強力な化け物で、ローザ様も困惑しておられる。更にローザ様は、此処では無い別の地下牢に眠る太古の化け物の封印を解いたんじゃが。到底、扱い切れるもんじゃない。ヘリックスが危険視しておられる。ローザ様は操れると申しておるのじゃが。わしはヘリックスと同感だ。あれは、あの化け物は……、到底、わしらやローザ様で扱い切れるような者なんかじゃない」
アンクゥは聞いていて、ますます、わけが分からないといった顔になる。
彼らには一体、何があったのだろうか。
「もっと、どういう事なのか教えてくれ。俺は手助けをすればいいのか?」
「魔女と狼を倒す手助けをして欲しい。どちらも、わしらの国ディーバが簡単に破壊されてしまいかねない敵なんじゃ」
老人は渋面を作る。
「もうすぐ、大きな戦争が始まるかもしれん。だから、一人でも強力な戦力が欲しい。わしには分かる。お主はかなりの実力の持ち主なんじゃろう? この城に入ってきた者で、ローザ様に近付いた暗殺者は何名かいるが。大抵は、あっさりとローザ様に始末されてしまった。けれども、お主はかなり警戒しながら、攻めてきたな? ヘリックスがいなければ、ローザ様に本当に危険が及んでいたのかもしれない」
「ふうん?」
アンクゥは考えている。
この老人は一体、何が言いたいのだろうか。取引がしたいのは分かるし、多分、自分がしばらくの間は殺されないであろう事も分かる。
「それから、もしお主の態度次第では、この戦争が終わった後も、わしらの軍に入っても構わない。わしはお主のような若者が好きじゃ。ローザ様も、ヘリックスもお前が気に入っておる。ヘリックスはお前の能力がどんなものなのか、気になっておったぞ」
そう言うと、老人は牢屋を離れて、行ってしまった。
しばらくの間は、どうやら生き残ってしまったらしい。
それから、何日か程の間、食事の時間以外は誰も来なくなった。
アンクゥには、しばらく考える時間が与えられた事になる。
これまで、復讐の事ばかり考えていたのだが、どうにも拍子抜けしてしまった。酷い拷問なども覚悟していた。しかし、どうもそういったものが無い。
しかも、どうにもあの老人や他の者達も、アンクゥが気に入っていて、彼を仲間に引き入れたいみたいだった。
復讐とは、何なのかを振り返って考えてみる。
ローザは父や兄、それから母の仇だ。それは間違いが無い。
そして、その怨嗟はなおも終わる事が無いみたいだ。
ただ、しばらくは流れに身を任せてもいいかもしれないかなとも思った。
ローザを殺害して復讐を果たすのは後だ。
取り敢えず、自分は一度、敗北してしまった。本来ならば、今、此処で生きてはいない。だから、今、考えたり物を食べたりしている事は人生の付録みたいなものなのかもしれない。
ローザ達にディーバを守りたい事と、ローザの支配による他国への暴政は別の問題で、目的が同じものでないのならば、別に自分が動いて協力してやってもいいのかなと思った。
家族は、今の自分をどう思うのだろう。
復讐は中々、果たせそうにない。
†
スフィアの腹立たしい処、それは自然体で自分は何だって出来るんだと、万能感に満ち溢れていて、その事を思い込んでいる処だとかだ。
自分は他人から愛されて当然で、自分を愛していない奴は、押し付けがましく自分を愛してくれと強請っていく。それは果たして純粋だと言えるのかだとか、あざとさの塊なんじゃないのかだとか。
メアリーは、いつだって、彼女が憎らしかった。
そして、そういった部分に気付こうともしないし、多分、気付いた処で変えようとしないのにも、うんざりだった。
何故、あんなに世界には自分しかいなくて、自分ばかりが愛されて当然なのばかり考えているのだろう。
あるいは、メアリー自身がそういった人間に憧れているのかもしれない。だからこそ、もう一人の自分を見るように憎らしくて仕方が無いのか。
少なくとも、メアリーの視点からは、スフィアという存在はそのように映っていた。
あれは、何だったか。
初恋の相手だったか。あるいは、人生で二回目に恋をした相手だったか。
初恋の方は、過ごしていた孤児院で、自分が物心付く前に話していた何歳か年上の男の子だったような気がする。そちらの方は、自分でもちゃんと覚えていない。
メアリーは、ちゃんと思い出してきた。確か、三年前だ。
メアリーよりも、一つ年下の男の子で。スフィアよりも四歳上の男の子だった。
そう、確か、三年くらい前の事だ。朦朧としていた記憶がはっきりとしてくる。
スフィアが十四歳くらいの頃だ。
その男の子は、明らかにスフィアの事が好きだった。
そして、よくスフィアと一緒に遊んでいた。
メアリーはその男の子に、上手く想いを伝えられなかった。
その頃のメアリーは、仕事場で忙しくて、メイド長に叱られてばかりいて、すっかり自分に対しての自信を喪失していた。ストレスで肌も荒れてしまって、顔に赤い湿疹のようなものがいくつも出来始めていたりしていた。
その頃のスフィアは丁度、第二次成長期に入っていて、すっかり美少女へと育っていた。
いつの間にか、何も出来なかった自分の妹のようなものが、自分よりも遥かに周りから愛されるような存在になっている。
そんな事が酷く腹立たしくてならなかった。
幻覚を見始めたのは、その頃からだろうか。
最初は、うさぎだった。うさぎが、雪の地面を歩いている。
うさぎが歩いていて、奇妙な事にうさぎが通った足跡が無かった。
更に、途中で歩いているうさぎが、いきなり何処かへと消えてしまった。
メアリーは、その現象が何なのか分からなかった。ただ、疲れているだけなのだろうと思った。そして、次は鳩だった。
鳩が、木の上に止まっていて、急にいなくなった。
「スフィアも見ていると。ああ、この子。絶対、生涯を通して私よりも幸福の絶対数が多くて、私よりも物凄く充実した人生を送るんだろうなあって思って。彼女の人生は潰す事に決めた。理由はそれだけなんだと思う」
ルブルは彼女の言葉を黙って聞いていた。
「私よりも多くの友人に恵まれて。私よりも素敵な恋をして。私よりも苦労や徒労も無くて、他人のマイナスの感情に触れずに生きて、みんなから認められて愛されて生きていくんだろうと思うと。もうね、人間は平等の下、生まれる事なんてまず無いのだろうと思ってね」
ルブルの顔は、真摯だった。これまでにないくらいにだ。
「ルブル。どう思う? 私はスフィアが憎くて堪らない。誰にでもある事なのかもしれないけれども、私はたまたま力を手に入れて。たまたま、抑えられなかった」
「ふうん。グラニットの街を焼くだけの根拠って、そんな些細な人間関係だったの。それはとっても素敵なんだと思うわ。やっぱり、貴方には魔女の素質がある」
そう言って、真っ黒なドレスの女は微笑みを浮かべていた。
「私は自分の境遇と。他人に対する怨嗟を抑え切れない気質を持った人間なのだと思う。どうも、それは幼少期から変えられない。私はきっと嫉妬深くて、劣等感の塊で。幸せな人生を上手く生きられない。だから、あの子のような人間って、この世界に対する憎悪を向けたい者の象徴なのかもしれない」
「そうなの」
「憎しみは人間の素直な感情を曇らせるのかもしれないわね。あるいは、不幸は。でも、私は私の行動を後悔しないし、私の気質や性格なんてのも否定するつもりなんて無い。私は限りない自由の下で生きていたいから。その為ならば、全ての邪魔者を排除するべきだと考えている」
「メアリー。私は貴方のそのどうしようもない程の、個人に対する憎悪が膨れ上がっていく処が大好き。もしかすると、私もいつか殺したくなるのかもしれない。多分、貴方は相手を不幸にする為だったら、自分の命なんてどうだっていいとくらいに思っているんだと思うわ。とてつもなく歪で素敵な思考回路を持っているんだと思う」
ルブルは虐殺が大好きなのだと言う。
何の悪意も無く、誰もかもを踏み潰してしまいたいのだと言う。
これまでそうやって生きてきたし、これからもそうなのだろうと彼女は言う。
人の命を踏み躙る事は美徳なのだ、と彼女は言う。
人間が豚や牛を殺すのと同じように、ルブルは人間を殺害して、死体として再利用する。彼女にはその時に、何の躊躇も罪悪感も存在しない。
その中で、初めて自分と同じ存在だと思ったのがメアリーなのだと。メアリーは、それが何を意味するのだろうと、色々と思考を巡らせるのだった。
†
「でもまあ、そのメアリーって奴から、多分、お前さ。人間のクズだっ、ってくらいに思われているんじゃないのか?」
「な、な、何でなんですか?」
「さあ。まあそういう人種も存在するって事だ。認識が歪んでいるんだ。他人に対する見方が捻じ曲がっているんだよ。どうしようもない程に、呪詛を内部に抱え込んでいるんじゃないのかな。そして、別にお前である必要は無かったのかもしれないしな」
「わ、分からないです」
「境遇は人間の人格を歪めていく。お前はきっと、彼女から世界中で一番の非情なゴミ野郎だってくらいに思われているのかもしれない。下種で卑劣で汚くて、他人なんて簡単に踏み躙り、裏切りを何とも思っていなくて。それでいて、何故だか周りから愛されて、人間が手に入るあらゆる幸福をこの手に収める事が出来るという人生を約束された者なのだと。そういう風に思われているのかもしれないぞ?」
「何で、そんな風になっちゃうんですか?」
「メアリーにとって、孤児院と屋敷での仕事が人生の全てだったからじゃないのか?」
水月は、淡々と分析するように述べていく。
「まあ、彼女も。広い世界を見て、あらゆる人間を見ていけば、また世界に対する認識の仕方が変わっていくのかもしれないな。ああ、そういうものなのだろう」
「ううっ、私、彼女に何をしてあげられたのかなあ?」
「そういう態度が、結局の処、彼女の怒りを買ったんだと思うぞ。哀れみを持って彼女に接したりしなかったのか? 優越感を持って彼女の性格や人生を支配したいだとか。彼女はずっと自分の傍にいて当たり前だとか。そういったものが、きっと彼女を追い詰めたのかもしれないな」
水月は、スフィアを責めるように言う。
「お前が当たり前だと思っている善意が、実際は罪を生んでしまったんじゃないのかな。人間一人の人生を軽く破壊するだけのものがあったんだろうな。お前のメアリーに対する好意とやらは。スフィア、人間っていう生き物はどうやら、お前が思っている以上に複雑で、綺麗事なんてまるで通じなくて。歪んでいて、間違っているのかもしれないぞ」
「私…………」
「苦しみや不幸は人間を憎悪や怨恨、怒りへと掻き立てる。他人に対する余裕も無くなっていく。小さな事でも、他人を折り潰したくなってくる。そういうものなのだろうな」
スフィアは、真っ白になりそうな頭を、何とかクリーンにしようとしながら、ひたむきに、彼女の言葉に耳を傾けようとする。
「彼女にとって屋敷での仕事は苦痛と絶望でしかなったんだろう。未来が閉じていると思い続けていたのだろう。お前からしてみると立派に見えたかもしれないが、彼女は自分を篭の鳥だと思っていて、自由が欲しくて。何処にでも飛んでいける鳥が妬ましかった、それだけなんじゃないのか」
水月は容赦が無かった。
けれども、何処か、優しさのようなものも感じた。
「まあ、お前がメアリーを憎まないのは。おじさんとやらの教育が良かったんだろう。話を聞く限り、熱心に宗教とやらをお前に教えたそうじゃないか。そういう風に人格が形成されたんだろうな。しかし、大抵の人間はお前みたいには育たない」
スフィアには分からない。
メアリーの持っているような、強い生に対しての動機付けなんてスフィアには存在していない。そう言えば、いつだって流されるままに動いているだけなんじゃないだろうかと思っている。
どうすれば強くなれるのだろうか。あるいは、どうすれば何か目的のようなものを手に入れる事が出来るのだろうか。
「私、どうしたらいいのかなあ?」
「さあな、ずっと流されるまま生きているだけなのかもしれないな。人間ってのは、大抵の場合、手に入るかどうか分からない希望みたいなものを持って生きているんだろうな。しかし、そんなもの、簡単に崩れていくものなのだろう。どんなに、そいつが持っている才覚が凄かったとしても、結局の処、この世界を構築しているのは、そいつとその周りだけじゃないのだろうからな」
「世界、ですか?」
「そう、世界だ。まあ、この世界なんてみんながみんな幸せになるわけじゃない。だから、人間ってのは、宗教だとか、死後の世界だとか、来世だとか、空想の世界だとか、哲学とかを作り出したわけだ。私はそういったこの世界の構造を何処までも嘲っているんだよ」
スフィアは、ふと思う。
「水月さんは人間っていうものを信じていないんですね……」
「そうだな。人間を信じていないというか、人間の作り出した世界をかな。まあ、欺瞞だとか、汚いものだとか、凄く見てみたいんだよ私は。多分、その先には何も無いだろうけれども、どうしようもない程に私は自分が生きている実感を思い出させてくれるものだから」
この世界には、生涯、何にもなれずに希望だけを抱き続けて死んでいった人間も無数に存在する。誰にも悲鳴を届ける事が出来ずに朽ちていった者達もだ。
そういったものによっても、人間の世界は積み上げられてきたのだろう。
人間とは、平等ではなく、どうしようもない程に不遇な生き物でしかないのだろう。
どんなに努力しようが、どんなに苦労しないが、叶わない望みだって幾らでもあって。
何をやったって報われない人生だって、存在する。
「何かさ、お前って、グラニットがまだ存在していて。メアリーが街を破壊するまでは、やりたい事とかって無かったのか?」
それを聞かれて、スフィアは困ったような顔になる。
「確かに……私は、漠然と何をしていけばいいのか分からなかったかも。おじさんのお仕事を継げばいいかな、くらいには思っていたけれども。でも、それだけかなあ。うーん、私には何も分からなかった」
「やっぱり、優柔不断に生きていたんだな。流されるままに」
考えたって、悩んだって、物事というものは一つとして動かないものなのだ。
だから、とにかく今は前に進むしかない。
とにかく、自分の弱さを何とかしなければならない。
†




