第三幕 さかしまの時計台 1
「どうも、お前の能力を使えば、俺の力の分身ならば、送り込む事が可能だ」
ジュダスはくぉぉおおっと、唸り声を上げていた。
へリックスは、冷や汗を垂らす。
こいつは、本当に、コントロールする事なんて出来ない奴なんだな、と感じた。
「ルブルとかいうのを始末すればいいのだろう? 問題無い。何処にいる?」
へリックスは、ディボーネから渡された地図を取り出す。
ジュダスは鼻で笑った。
「じゃあ、お前、その辺りまで案内して貰おうか?」
ヘリックスは、更に、引き攣ったような顔になった。
「えと、えと、僕が率先して、ルブルの城の辺りまで行かないといけないんだけど……」
狼は唸った。
彼は冷や汗を流す。
「分かったよ、行ってくるよ、大体の場所は知っているからっ!」
そう言いながら、彼は、走りながらディーバを出て行った。
……………………。
†
魔女は寝台から、眼を覚ます。
ルブルは、寝巻きから、黒いドレスへと着替える。
「メアリー、今度は私が戦う」
メアリーは驚いたような顔をする。
ルブルが、まるで、酷く何かを恐れているような顔になっていたからだ。
彼女の顔は、心なしか蒼ざめてさえいるようにも思えた。
ウィンディゴの城の中には、巨大な塔があった。
そこは、時計塔になっている。
かちかち、と逆向きに針が回り続けている。
ルブルは明らかに、動揺を隠せないみたいだった。
「以前の刺客なんかじゃない、明らかに強大過ぎる、何かが迫っている。以前は、ただの使い魔だった。けれども、今回は……」
ルブルは剣呑な顔で言う。
「背徳者そのものだ……」
瞬間。
どんっ、と地響きが聞こえた。
城が揺れる。
メアリーは窓を見て、絶句していた。
それは、巨大な彫像のようにも見えた。
時計塔の上には、巨大な狼が張り付いていた。
狼は遠吠えを上げていた。
その声は、ウィンディゴ全体に鳴り響いていく。
ゾンビ達が騒いでいる。
彼らは震えながら、蠢いていた。
ゾンビ達が、次々と、黒い何物かによって、飲み込まれていく。
どうも、それは彼らの足元にある影が、伸びて、彼らを覆い尽くしているみたいだった。
メアリーは、今、どんな事態が起こっているのか、把握するのに、混乱する。
それは、あっという間の出来事だった。
メアリーの硬い硝子の盾が、紙屑のように破られる。
そいつは、部屋の中へと入ってきた。
狼は全身から、輝く黒色の光を放っていた。
「女、動くな。お前には興味が無い」
メアリーは、ひたすら悪寒と戦っていた。
背中から、何かが這い上がってくる。
それは、何故か、何処か懐かしい気分さえ感じさせるものだった。これは確かに、知っている何かだ。もしかすると、人間というものはこれに出会う為に生まれてきたのかもしれない。
「お前は?」
ルブルは訊ねる。
「俺はジュダス。地獄の大公にして、死を撒く者だ」
「成る程、『背徳者』というわけか」
魔女はくすくすと笑っていた。
「歩く死体だろうが、何だろうが。俺の『ヘル・ブラスト』の前では、全て冥界へと向かっていく。ルブルと言ったか、お前もだ」
狼は吼える。
「お前が、どれ程、その不死性を帯びていようが。この俺の敵じゃあない」
狼は咆哮する。
ぞわぞわっと、辺りから何かが這い上がってくる。
メアリーはまるで動けなかった。
ふと、自分が一体、何処に立っているのか分からなかった。
確かに、この感覚は覚えている。
自分は強い意志によって、死ぬ事を恐れなくなったのだと思った。
背後から、何かが聞こえてきた。
それは、まるで音楽のようだった。
何かが、メアリーの耳元で囁いている。
多分、この音楽は、人それぞれ別のメロディーとなって現われるのだろう。
†
「何だ? あれは?」
デス・ウィングは、呆然とした顔で、巨大な狼を見ていた。
あんなものは、今まで出会った事が無かった。
どう言えばいいのか分からないくらいに、そいつの存在はとてつもなく強かった。
隣には、他人の死が立っていた。
「おや、あれは何だろうね?」
「さあ? 私にも、分からない。あれは見た事が無い。一体なんなのだろうな?」
デス・ウィングは、下顎に手を置いて首を捻っていた。
「あの狼の怪物が使っている力、あれは何なのかなあ? かなり、興味深いよねえ。一体、何をしているのだろう?」
彼はただただ、笑っているばかりだった。
「さて、私は一体、何の為に生まれてきたのだろうね? そう思わないかい? 私は思うのだけれども、君の死も見届ける事が出来ると思うのだけれどもね?」
デス・ウィングは、忌々しそうにドレスの少年を睨み付けていた。
こいつの存在は、本当に不愉快だ。ずっと、彼女の隣で、悪夢のように寄り添っている。
「死が存在しているという事は、とても幸福な事なのかもしれないよ。そして、私もまた、死が存在しないのかもしれない。私はきっと“概念”そのものが人の形を取った姿でしかないのかもしれないからね。さて、君は人なのかな? それとも、人以上の何かに成り得ているのかな?」
他人の死は、何も無い空間の中で、存在が浮かび上がっては、消えていく。
彼の存在は、明滅するように、そこにある。
ただただ、デス・ウィングのみに聞こえる声で囁き続けている。
「君は何の為に生きているのかな? 私はずっと不思議なんだよ。君はいつだって、私と同じように傍観者でいたがるね。でも、君はいつまで傍観者になりたがるのかな? いつまで、君は神の視点に立っていようとする事が出来るのかな?」
他人の死は、無感動な声で言葉を紡ぎ続ける。
デス・ウィングは、何だか少しだけ、楽しげな気分になってきた。
見ると。
ウィンディゴを彷徨っているゾンビ達が、何かによって苦しみ始めていた。
さながら、それは地獄の責め苦にあっているかのようだった。
きゅああああ、きゅああああっと、死人達は叫び声を上げ続けていた。
何処か、不思議な気分だった。
幼い頃に見た漠然とした死の恐怖が、頭を過ぎ去っていく。
見ると、スフィアが寒いと言いながら、蹲っていた。
彼女の背中にある影が長く伸び続いている。
ドレスの少年は、笑い続けていた。
「ふふふふふふふふっ、ふふふふふふっ、君は何か気分が悪くならないのかな?」
デス・ウィングは、困惑したような顔になる。
確かに知っている。
この感覚をだ。
久しく忘れていたような気がする。
あるいは、ずっと、何処かで恋焦がれていたのかもしれない。
彼女は首を捻る。
あの狼が、周囲に放っているもの、それによってスフィアが苦しんでいるみたいだった。
そして、奇妙な事に、自分の心も不思議な気分に侵されているかのようだった。
「他人の死、私が人間だった頃の事なのだが」
デス・ウィングは、ニット帽を深く被る。
そして、ぱちっ、ぱちっ、と指先を鳴らし始めた。
「この感じを覚えている。知っている気がする。多分、これは死ぬ、という事に対するイメージだ。多分、人はこのイメージに囚われながら、生きているのかもしれないな」
デス・ウィングは、狼と魔女の下へと歩いていく。
「私はもしかすると、この感覚を取り戻したいのかもしれない……」
デス・ウィングは、どうしようもないくらいに、憧憬の念を抱いていた。
ゾンビ達は、真っ黒な影の中へと次々と飲み込まれていった。
影は、広がり、撒かれていく。
壁が壊れていく。
デス・ウィングは、少しだけ驚きの声を上げる。
壁が、人体へと変わっていく。
おおおぉぉぉおおぉぉおっと、辺りの建造物全体が唸り始めていた。
そして、ぼろぼろっと、建造物の壁が剥がれ落ちていって、人体へと変わっていく。
どうやら、この辺り一帯の壁という壁、建造物という建造物が、ルブルがゾンビ達を擬態させて作り上げたものみたいだった。
建造物が、解体され、崩れ去っていく。ぼろぼろと、建物が人の姿へと変わり、闇の中へと飲み込まれていく。
先ほどから聞こえている唸り声が、一層、酷くなり、さながら暴風のように聞こえ始める。
どぉーん、どぉーん、という唸りと共に。
真っ黒な底無しの孔の中に、辺り一面の建造物全体が沈んでいく。
大地が振動していた。
†
挿絵、桜龍様より。
-デス・ウィングと他人の死-




