何がしたいのか、何もしたくないのか、何かはしたいのだが……
何を感じるわけでも無く、好きでも嫌いでもない音楽を、ただ耳が寂しいという理由でイヤホンから流しながら、徒然なるままにキーボードを叩く。
特に目的があるわけでは無い。視界に的があれば、後は狙って撃つだけでいいのだろうが、生憎、生まれてからこのかた、弓を構えたまま的が出来るのを待っている状態で、ずるずると来てしまった感がある。
今もまだ、視界に的は見えてこない。探さなければ見つからないのかもしれないが、今更見つけたところで、もはや矢として飛び出すには足枷が多すぎる。
足枷なんて言ってはいけないか。今まで地に足つけて生きてこられたのは、少なからずそれらのおかげなのだから、言うなれば錨だろうか。
三つの義務を果たしながら、一国民として人生を消化していく毎日に、何も感じなくなったのは何年前からだろうか。思考を止めて犬のように上司に尻尾を振る日々に、何も疑問を抱かなくなったのは何年前からだろうか。社会の歯車として労働を淡々とこなす日常に、何も望まなくなったのは何年前からだろうか。
気付いた時には、歩いている道は現実で、歩いてきた道は過去の現実だった。視界のどこを探しても、記憶のどこを探しても、明るい分かれ道は見当たらない。
これから歩く道にはそれらが見えるのだろうか、これから見える未来ではそれらが見つかるのだろうか。
―――否だと、思う。
理由は無い。理由が無いのが理由だ。
意味も無く世界は変わらず、理由も無く道は分かれない。
並行世界という概念がある。選択肢の数だけ世界があって、世界の数だけ一つの人生に可能性がある、みたいなあれだ。面白い考えだと思ったし、希望的な考えだと思った。そして、間違いだと直感した。
思うのだ。世界は計算できるのではないか、と。世界で起こっている全ての変数を把握し、同時に処理することが出来れば、未来予知は可能なのではないか、と。未来は現在によって決まっていて、現在は過去によって決まっていて、過去はさらに過去によって既に決められているのではないか、と、どうしても思えてならないのだ。
人生という列車は、生まれた時にひかれたレールを、ただ進むだけで、一見分かれ道に見えるのは他人のレールでしかない。あくまでも仮定だが、そういう考え方も出来てしまう。
つまらない考えだ。本当にくだらない。
くだらない人間になってしまった。
なりたくてなったのではない。気が付いたら戻れなくなっただけだ。いや、戻ることは出来るのかもしれない。
そんな度胸があれば、だが。
勿論、そんなものは無い。そこまで絶望もしていない。
絶望というのは、希望を持っているからこそ抱くのだ。そもそも希望なんてものに縁のない者は、絶望とも縁遠い。
苦あれば楽もあり、楽あれば苦もある。つまり、苦無ければ楽も無いのだ。
今日、自殺者の大半が先進国の人間だという事から、こんなことは容易に想像できる。
何を考えているのだろうな。
きっと、何も考えていない。それが一番幸せだと、心のどこかでもう気付いてしまっている。
希望というのは、失った時に一番大きく輝いて見えるのだから。
絶望というのは、諦めてしまえれば失われるのだから。