#6
始まりは中学生の頃だった。教室で、友達と話していたときのことだ。
「お父さんって、うざくない?」
「わかる、うちもそう。あたし、最近一言も口利いてないもん」
「だよね。話しかけられても無視だよね」
そんなささいな会話がきっかけで、「みんなそうなんだ」という免罪符を手に入れた私は、戻れない道を歩き始めてしまった。最初は特別な感情はなかったと思う。みんながやっていることだから、それが正しいのだと思い込んでいた。
父親が怒っている姿は一度も見たことがない。絶対に怒鳴ったりしない人だった。
私がしゃべらなくなっても父親は何も言わなかった。普段と変わらない態度だった。
そのせいで、余計に私の行動はエスカレートしていった。返事をしなくなった。あいさつもしなくなった。存在を無視するようになった。いないものとして振舞うようになった。
あのころ――父親はどんな表情をしていただろうか。
誕生日にプレゼントをもらったことがある。机の上に、包装されたちいさな四角形が置いてあった。母親からのものなら直接渡すはずだ。こんなふうに渡すのは、父親以外にいなかった。
包装の中に入っていたのは、ハンカチだった。派手な柄物ではなくて、シンプルなボーダーに、ワンポイントでイラストが刺繍されているようなものだったと思う。
子供っぽいというわけでもなく、好みが別れるような変わったものでもなかった。とりたてて特徴はない。だからこそ、そのようなものを慎重に選らんだことが――いまならわかる。
そのときの私はこう思った。
――こんなの、私の趣味じゃない。
父親からのプレゼントだということが気に食わない。本当はただそれだけだった。
言い訳のように、心のなかで趣味じゃないと繰り返して、私はハンカチを包み紙ごとゴミ箱に投げ捨てた。
ハンカチを私が一度も使わないことに、父親は気づいていただろう。もしかしたら、捨ててしまったことも知っているのかもしれない。それでも、何も言わなかった。
学校へ行こうと私が家を出ると、ちょうど同じタイミングでぱらぱらと雨が降り出したことがあった。
雨はすぐに勢いが強くなり、このままでは濡れてしまうと私は途方にくれた。こんなときに限って、玄関には傘が見あたらなかった。
どうしようかと空を見上げていると、忘れ物をしたらしい父親が私に向かって歩いてきて、
「ほら、これ」
と傘を差し出した。
私は差し出された傘を無言で思い切り押し退けた。そしてそのまま雨の中を走りだしていた。父親の傘を使うくらいなら濡れた方がましだ、と思いながら。
父親が私に話しかけることが減ったのは、その頃からだった。私が返事をしなくなったのは、ずっと前からだった。
別の日――夜中に珍しく酔っ払って帰ってきた父が、私の部屋に入ろうとしたことがある。
たまたま起きていた私は階段を登る足音を聞いて、父親が帰ってきたことに気づいていた。そして、足音が近づいてガチャリとドアが開いた瞬間、「入ってこないで!」と叫んでいた。
近所に聞こえるくらいの大声だったと思う。
考えてみれば不自然だった。普段から私の部屋に入ることはないのに、なぜそのときに限って――いや、酔っ払っていたからこそドアに手をかけることができたのだろうか。
どんな用事があったのだろう。何を話したかったのだろう。父親はきっとお酒の力を借りて、なけなしの勇気を振り絞って、そのときに、私が叫んだのだ。
「入ってこないで!」
それから二度と、父親が私の部屋に入ろうとすることはなかった。近づくこともなかった。
どんなことがあっても、父親が怒ることはなかった。私を責めることもなかった。私はそれが当然だと思って、みんながやっている普通のことだと思って、深く考えることはなかった。
一つひとつ自分のやったことを思い出して、それらに櫻井先輩の言葉を重ねて父親が何を考えていたかを想像して――そうやって、私は思わず叫びだしたくなるような記憶をたどっていった。傷口の形を確かめるように、じっくりと自分がどんなことをしたのか思い出していた。心の中が痛くて、でも本当はそんな痛みを感じる資格すらないのだ。私は。
記憶にはひとつの共通点があった。
父親には表情がなかった。どれだけ思い出そうとしても浮かんでこなかった。父親の顔だけが、ぽっかりと空白になっていた。
私は顔を見ないようにしていたのだ。見なければ相手がどんな気持ちになっているかを考えなくていい。罪悪感を感じずに済む。だから、記憶の中の父親は表情がない。
私は無意識のうちにでもそんな計算ができる、ずるい女なのだ。
そうやって何度も記憶を繰り返した。
それから数日をかけて、私はようやく、一通の短いメールを書き上げた。
***
あれから学生会館に近づくことは避けていたから、久しぶりの訪問になる。2週間ぶりくらいだろうか。
建物の中にはあいかわらず学生が多くて、彼らは皆、緊迫感のない切実さというようなものをかかえていた。
大学の施設特有のものだろう。不思議な空気だった。
そのなかでも演劇をしている人たちのまとう空気は独特で、小道具をかかえたその集団が通りかかると、学生たちが自然と道を譲っていた。
彼らには自分たちの演劇は正しいのだ、批判は許さない、というようなとげとげしさと、どこか自信のなさそうな様子が同居していた。ぎょろぎょろと視線を動かし、周囲を確認しながら、道を譲ってもらったことにぎこちない笑みを浮かべて会釈をしていた。
私も会釈を返して、エレベーターの列に並んだ。
――そういえば、私も大学生なのだ。
ふと、そんなことを思った。
離れたところから見れば、私もこの学生の集団の中にとけこんで、ごく普通の大学生に見えるのだろう。いまはきっとそうだ。
ついこのあいだまでの私にあったのは、とげとげしさだけだった。
エレベーターが止まり、ドアが開く。私は迷いもなく、静かに4階のボタンを押した。
約束をしていたわけではなかったけれど、チカちゃんはあの長いすに座っていた。私を見つけて大きく手を振っている。
「アユミ、ひさしぶり! 遊びにきたんだ」
「うん……」
と言いながら私も長いすに座った。チカちゃんの隣だ。
「ちょっと……ちゃんと話しておこうと思って……」
私は長いすの向かい側に声をかけた。
「このあいだのあなたの言い方、本当にどうかと思います。いまでも腹がたってます」
返事はないが、私は気にせずに続けた。
「……でも、教えてくれてありがとうございます。こういうことを言ってくれる人はいなかったです。たぶん、言われなければ自分では気づけなかったと思います……」
バッグの中のスマートフォンの形を指先で確認した。
「メールは、昨日出しました」
それから――あとはどんなことを言えばいいだろう。もっとあのときの言葉に反論しておこうか。いままでの父親とのことを説明しようか。それとも感謝の言葉が足りないだろうか。
ここに来るまでに散々考えたのに、どうすればいいのかよくわからなくなっていた。もう、伝えるべきことはすべて伝えたのかもしれない。
チカちゃんがそっと私の腕を取った。
「アユミ、そこは壁だよ? 誰もいないよ?」
顔を上げると、私の向かい側のいすには誰も座っていなかった。チカちゃんの言うとおり壁だった。
「うん。あの人にきちんと言っておこうと思って……これは予行練習のつもり」
チカちゃんはほっとしたように笑った。
「大丈夫。櫻井先輩には私から言っておくよ」
私は首を振る。
「ありがとう。でも、直接言う。また来るから。あと、これ。あの人、コーヒー好きなんでしょ。またね、次の授業あるから」
チカちゃんに缶コーヒーを渡すと、大きくうなずいて手を振ってくれた。
手を振り返して、私は4階をあとにした。
***
まだ、心の中の痛みはうずいていた。だけど父親は私よりもはるかに大きな痛みを、私がつけた傷をずっと抱えていたのだろう。
それは、時間をかけて少しずつ埋めていくしかないものなのだろう。
エレベーターに向かう私の足取りは決して軽やかとはいえなくて、それでもつい先日の自分とは、いくらかは変われているような気がした。




