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#5

「そうだね、何も知らないね」


 櫻井先輩は私の言葉にうなずいた。私と違って冷静だ。叫んでしまった勢いと怒りが、行き場を失ってしまう。


「何も知らない僕でも気づくことができたんだ。君にはもっと気づくチャンスがあっただろうね。でも君はいままで気づこうとしなかった。考えようとしなかった」


「……勝手に、決めつけないでよ。私だって……考えてる」


「そう?」


 首を少しかたむけて、彼は私を見つめた。最初に顔を合わせたときから、ずっと微笑を浮かべたままだった。けれど、いまの彼の表情が意味することは、最初の印象とは全く違うものになっていた。なにもかも見透かして、私を追い詰めて、それでも平然と微笑んでいる。

 いままで他人から、こんな風に冷たい感情をぶつけられたことはない。

 言い返そうとしても言葉が出てこなくて、耐えられなくて、私は顔を伏せてしまった。

 

「たとえば父親がキグルミを着たときのことを想像してみた? 片手でキグルミを着るなんてこと、簡単にできると思う?」


 簡単にできることではなさそうだった。キグルミの中で体をねじりながら、左手を伸ばして背中のチャックを探る父親の姿が頭に浮かぶ。


「おそらく簡単ではないよね。なのに彼はキグルミを着なければならなかった。それはなぜか。

 娘に彼氏ができたようだ。いったい相手はどんなやつなのか。悪い男にだまされていないか心配だ。自分の目で見て確かめたい。でも、娘に嫌われているから、会わせてもらえない。こっそり確認しようにも片腕しかない自分の目立つ姿ではすぐにばれてしまう。そして、そうなったら、娘にもう二度と会ってもらえなくなるかもしれない。

 こんなことを考えて、そんなときに見つけた唯一と思える方法だったから、必死になってキグルミを着たんじゃないのかな?」


「そう……言われても……」


 私の言葉をさえぎるように、櫻井先輩が言う。

 口調は優しい。口調だけは。


「それから、キグルミはどうして踊っていたんだと思う?」


「……わかりません」


 そう答えるしかなかった。一つひとつ、私を追い詰めようとするような彼の質問に、苛立ちが募った。


「考えてみてごらん。片手の使えない人間がキグルミを着ているんだ。そこで電柱にぶつかった拍子に、頭部がずれてしまった。

 元に戻したいと思っても、これはなかなかうまくいかない。キグルミの手は細かい作業に向いていないし、そうでなくても片手しか使えない状況だ。そうすると、たとえばジャンプをしたり、体を小刻みに動かしたりして、その反動でなんとか元の位置に戻そうとする、それくらいしか方法がないんじゃない?」


 あのときのキグルミは、異常なほどの熱心さで体を動かしていた。私が不気味だと思ったその行動も、櫻井先輩の説明を聞いた後なら納得ができる。左手を振り回しながらぴょんぴょんと飛び跳ねる。その意図は、たしかに彼の言うとおりなのだろう。


「頭部がずれていたというから、そのせいで痛みがあったかもしれないね。耳を澄ませば聞こえただろう。キグルミの中で、『苦しい! 苦しい!』と叫ぶ声が。

 君はそれを無視したんだ。いままでと同じように、何もなかったように、気づかないふりをして。

 もしかしたら笑っていたのかもしれないね。どうだい? 写真を撮ったとき、君はどんな顔をしていた? どんな気分だった?」


 もう我慢がならなかった。吐く息が震える。唇を噛み締める。私は頭に血が上っていた。冷静に考える余裕などなかった。


 ――この人に、そんなことを言われる筋合いはない!


 だが、櫻井先輩はさらに言葉を続ける。


「さあ、君はまた父親を無視するつもりかな? 与えられたものに目をそむけて、自分の都合のいいものだけしか見ようとしない。聞くべき声を聞こうとしない。そういう生き方は楽だろうね。それで誰かを傷つけていることすら、無視できるのならね」


 これ以上話を聞くことはできなかった。自分の唇が、からだが震えているのがわかる。


「私――帰ります!」


 そう叫んで、立ち上がった。


「……そうして大切なものに気づくことができなくなるんだ」


 背中を向けても聞こえてくる言葉に、もう耳をかたむけるつもりはなかった。足早にその場を立ち去り、エレベータのボタンを押す。何度もボタンを押すと操作がキャンセルされるという噂を思い出して、一度だけ、思い切りボタンを捻じ込んでエレベーターの到着を待った。



 エレベーターが来るまでの時間は永遠と思えるほどに長く、そのあいだに私は櫻井先輩に言われた言葉の一つひとつを思い出してしまっていた。

 そのすべてに心の中で反論をしようとして、でも、私は彼に何も言い返すことができなかった。言い返せるような言葉は何ひとつなかった。私は彼の言うように父親のことをずっと――。



 不意に背後から私のからだに細い腕が巻きついた。すこし日に焼けた、チカちゃんの手だ。力はこめられていない。そっと支えるように、私のからだに触れている。


「アユミ……大丈夫?」


 不安げな表情で見つめるチカちゃんの瞳を見つめ返したとき、私はあることに気づいてしまった。


 それと同時に、いくらか理性を取り戻せたようで、怒りが急速に収まっていくのがわかった。心が冷えていくようだった。そうしてすっかり冷たくなると、怒りという感情でごまかそうとしていたものが、私の中で渦巻く後悔や罪悪感のどす黒い塊が、胸の奥にどろりと広がっていった。


「大丈夫だから……。ちょっとひとりになって考えてみたいだけだから」


 チカちゃんの腕をにぎって、ゆっくりと体からふりほどく。


「そう……」


 それ以上追求することはなく、チカちゃんは私から離れて、きゅっと口を結んだ。



   ***



 エレベーターのドアが閉まり、私は壁に背を預ける。静かに息を吐き出した。



 最初にチカちゃんと話をしていたとき、キグルミの写真を見せた後、彼女は突然、「そういえば、お父さんとはメールしてるの?」と尋ねてきた。

 それはなぜか。わざわざ父親について質問してきた理由は何なのか。そうだ、チカちゃんも気づいていたのだ。

 ほんの少し話しただけで、不自然なキグルミの正体がわかっていたのだ。


 それだけではない。母親は私宛てのメールで、父親の行方がわからない、体調が悪い、というようなことを書いていた。どういうわけか「父親と仲の悪い」私宛のメールで。

 家から出るようになった父親がいったいどこに出かけているのか、きっと気づいていたのだ。


 そうだ。


 そうだ――みんな、みんな気づいていたのだ。気づいていないのは、気づかないふりをしていたのは、私だけだった。


 ――じゃあ、私はどうすれば良かったんだろうか。いままでずっと、間違ってきたんだろうか。



 その答えは、きっと彼が言ったとおりなのだろう。


 与えられたものに目をそむけて、自分の都合のいいものだけしか見ようとしない。聞くべき声を聞こうとしない。傷つけていることすら、無視して――私はずっとそうやってきたのだ。


 私は大切なものに気づいていなかったのだろうか。



 扉の閉まったエレベーターがゆっくりと動き出し、一階へ向かう。降下するエレベータのスピードよりも速く、どこまでも深く、私の心は沈んでいった。

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