#4
「ところで」
と櫻井先輩が言う。冷たい視線のままだ。
「大学に入った自分の娘が心配だから。ただそれだけの理由で、わざわざキグルミを着て様子をうかがうなんておかしなことは、普通はしないだろうね」
――このひとは何を言っているのだろうか。
と私は思った。父親がそれをやったというのは、彼が言い始めたことなのだ。
「さっき、君はチカちゃんの質問にきちんと答えなかったよね。父親とメールをしているかどうかについて。答えないということは、もしかすると父親とうまくいっていないのかな?」
見透かしたような顔で、彼がそう尋ねる。
――だったら何なの。どうせわかってるんでしょ。
私は心の中で思った。彼の責めるような態度が気に入らなかった。このひとは私を追い詰めようとするひとだ。そういう警戒心で胸の中がいっぱいになる。どうしてこんなことを言われなければならないのだろうか。初対面の見ず知らずの男に。
「君の父親は、母親ともうまくいっていないようだね。うまくいっているのであれば、母親がメールで『どこに行ったんだろう』なんてことを書いてくるはずはない。直接聞けばいい話だからね」
「それはそうかもしれませんけど……」
本当は知っている。父親と母親が話すことはほとんどない。一緒に住んでいるだけの他人だ。
父親が閉じこもっているときに母親が気にしていたのは、自分が自由に生活できない、気を使わなければなくなる、ということだった。
どこに行ったんだろうと私にメールをしたとき、母の頭にあったのは外で誰かに迷惑をかけていないか、ということだろう。それに自分が巻き込まれるのはかなわない。そう考えていたはずだ。
チカちゃんの前ではそこまで話すのが決まりが悪くて、「心配しすぎ」とごまかしていたが、おそらく父親の心配をしていたわけではないだろう。していたとすれば、自分の心配だ。
娘だからわかる。きっと私も同じように考えるから。
「父親が会社を辞めて、家に閉じこもるようになった。その時期はいつからいつまでだったか覚えているかな?」
「いつ……? とくにいつというわけではないですけど……会社を辞めてからだと思いますけど」
「チカちゃんが『閉じこもってるんじゃなかったっけ』と言っていたよね。いまも閉じこもっているというふうにチカちゃんが勘違いするということは、大学に入ってから、君はチカちゃんに自分の父親が閉じこもっているという話をしているはずだ。まず、その話を聞いていないと勘違いができないからね」
「それは、しましたよ」
当たり前のことだ。話をしないのに、チカちゃんが私の家庭の事情を知っているはずがない。
櫻井先輩は軽くうなずいた。
「となると、その話をしたときは君も父親が閉じこもっていると思っていた。だからチカちゃんにそう話した。つまり大学に入学した頃、少なくとも君が自宅を離れるまでは父親は実際に閉じこもっていた。外に出るようになったと確認したのはチカちゃんに話した後だ。そうじゃないのかな?」
「はあ、まあそうですけど……」
「それなら父親が閉じこもるのをやめたのは、君が家を出てからだ」
私はうなずいた。だが、この人が何を言いたいのかわからなかった。どうしてそんなことにこだわるのだろうか。
「さて、彼は会社を辞めたから閉じこもっていたのかな? 本当にそう思う?」
「ほかに何があるんですか?」
「君が大学受験だったからなんじゃないの? ちょうどその時期でしょ」
考えたこともなかった。
私が自宅で受験勉強をしているあいだ、父親と顔を合わせることはなかった。食事のときですら、父親の席には誰もいなかった。それを不思議には思わなかった。顔を合わせずにすんでよかった、というくらいにしか考えていなかった。
いわれてみればたしかに、受験の追い込みをしているとき、父親は私の目の前から自分の姿を消すように自室に閉じこもっていた。だから、ほとんどその存在に気をとられることはなかった。私にとってはいないのと同じことだった。
「君に嫌われているのを知っていて、その君が受験で大変な時期だから、せめて自分が邪魔をしないようにと思って閉じこもったんだろうね。そして君が大学に入学したから、閉じこもるのをやめた。違うかな?」
答えることができなかった。そうかもしれないとは思う。会社を辞めたから、というのは周りの勝手な思い込みだったのかもしれない。
だが、あのころの父親が何を思っていたのか、私はいままで想像することもなかった。いま考えてみても……わからない。そもそも父親がどんな人なのかすら知らなかった。
――そうだ、私は何も知らない。
父親がどんな声をしているのかも思い出せない。会話をした記憶がほとんどないのだ。少なくとも声の記憶はない。昔から、ずっと前から私と父親との関係はそうだった。
「うん、それなら説明がつくね」
と櫻井先輩が言った。
「娘に嫌われていて、それでも娘のことが大好きで、心配で、妻としゃべることがなく、どこからも情報が入ってこない。この状況ならキグルミを着るなんてこともあるだろうね。
もともと腕を切断して、会社を辞めて、精神的に不安定でもあっただろうし、何かの拍子にたった一言耳にするだけで、追い詰められた彼は勘違いをしてしまうだろうから」
「……何ですか? たった一言って」
「タツオと一緒に住んでいる」
櫻井先輩の言葉を聞いて、少しして私にも理解できた。
――そんな勘違いをしていたのか。だからあんなことをしたのか。
と思った。
ため息がもれる。
「ここまで聞いてわかっただろう? 何が彼を追い詰めたのか。こんなことになった原因は何なのか。どうすればよかったのか。少しでも君が父親と連絡を取っていれば、こんな勘違いは起きなかったはずだ。それでも君は『母親に』メールを送るのかな? いままでどおり父親を無視して」
このとき私は櫻井先輩の言っていることを理解できていたと思う。
だが、すべて私が悪いとでもいうような彼の台詞に、私を責めるような態度に腹が立って、反射的にこう答えてしまっていた。
「うるさい! 何も――何も知らないくせに!」