#3
「気づいてないって、どういうことですか?」
私が尋ねると、男性はもう一度缶コーヒーを傾けて、テーブルに置いた。
カタンと音がする。
「さて、どこから話そうか」
男性は向かい側の長いすに座っているので、自然と顔を見合わせることになってしまう。まじまじと見つめるのもどうなのかと視線をさまよわせていると、にこっと微笑みかけられた。
この男性は目つきが鋭くて、いすに座っていてもわかるくらいに背が高い。そのままでいると威圧感のありそうな外見だったが、微笑みかけてくれたことで、私の緊張は少し緩んだ。
落ち着いて見ると、とても顔立ちが整っていることに気づく。
普通の人よりも、全てのパーツがひとまわり大きく、それがバランスよく配置されている。特別彫りが深いわけではないが、美術館にでも飾られていそうな顔だ。ちょっと人間離れしている。切れ長の目がわずかに細められたり、唇の端が動くたびに、私の意識が惹き付けられてしまう。
「あっ、このひと、うちのサークルの先輩。櫻井先輩」
チカちゃんが彼を指をさして言う。
「こっちのかわいい子がアユミ。この間、話したでしょ? 遊びに来るって」
今度は男性のほうを向いて、私を紹介している。
「かわいい子」というチカちゃんの言葉には、何の反応もしていなかった。
「うん聞いたよ」
「あれ? 櫻井先輩機嫌悪い?」
「いや、そんなことないけど」
「そう?」
櫻井先輩と呼ばれた男性が首をひねりながら、
「チカちゃんと話すと、こっちのペースが乱れるんだよなあ」
とつぶやいていて、私は笑ってしまった。コロコロと話題が変わるからチカちゃんと話すときに困ってしまうのは、私も同じだ。
「まずね、君はえーと、何て言ってたかな。たしか、『キグルミはいつも道の向かい側からやってくる』って言ってたよね」
「あ、はい」
半分起きていたというのは本当らしい。私がさっきしゃべっていた内容だった。
「それは何曜日にすれ違うとか、決まってるのかな?」
「いえ……特に決まった日じゃないと思います」
意識したことはなかったが、キグルミとすれ違う曜日はばらばらだった。だから、「いつもすれ違う」と感じていた。行動パターンが決まっていれば、いくら私でも気づいていたはずだ。
「そう。大学生はどの講義を受けるかによって、大学に行く時間も帰る時間もまちまちだよね。朝から講義があることもあるし、昼からの日もある。さらにいえば、毎回寄り道せずに帰るわけでもないから、帰る時間は毎日変わる」
「はい、そうですね」
そうした自由な生活が、高校までと一番違うところだ。自分で管理しなければならないという難しさも、そこにはある。
「それで毎回すれ違うのは偶然なのかな? すれ違うということはお互い逆の方向へ向かっているということだよね。どうして同じ方向に歩くことがないんだろうか。毎回違う時間なのに」
記憶の中からキグルミの姿を探す。頭のなかに浮かぶそれは、すべて正面か横から見たものだ。
どれだけ考えても、向かい側からやってくる姿しか思い出せなかった。キグルミを追い抜いたり、あるいは追い抜かれたりという記憶はない。
「どうして……でしょう?」
「そりゃあ、偶然じゃないってことなんじゃないかな」
――偶然じゃない? それはつまり……。
と私は思った。
「たとえば、私を待ち伏せていたということですか?」
「そうなるね。君の事を知りたい誰かがキグルミの中に入っていて、君が通りかかるのをじっと待っていたんだ」
「ストーカー」という単語が浮かんだ。私の頭の中のキグルミが、不気味さを増していく。
「キグルミだと普通のひとよりも歩くのが遅いだろうね。後をつけることができないから、待ち伏せてすれ違って様子を探るしかなかったんだ」
「それはわかりましたけど、でも、誰が……」
「心当たりはないの?」
私は首を振った。
東京に来てから、そんなに親しくなった男性はいないし、おかしな行動をとりそうな知り合いもいない。
「ふーん。じゃあ、わざわざキグルミを着ていたのはどうしてだと思う?」
ストーカーがキグルミを着る理由なんてあるのだろうか。ピンク色のクマのキグルミ。私が見たそれは、顔まですっぽりと覆い隠すタイプのものだった。
「……変装のためですか?」
「だとしたら、やっぱり君の知り合いなんじゃないの? 知らない人なら変装する理由がないでしょう。目立たないようにしているだけでいい」
「ああ、そうですね……」
だが、私の周囲にはそんな人はいないと思う。どれだけ考えても思い当たらない。そういう人物は、表面では普通の人間を装っているということなのかもしれない。だとすれば、もう見当もつかない。お手上げだ。
「変装だとしてもおかしいよ?」
チカちゃんが言う。
「ただ変装したいだけなら、帽子とか、マスクとか、サングラスかければいいと思う。それで顔を全部隠せるよ? わざわざキグルミ着るの大変でしょ?」
「そうだね。でもその人はキグルミじゃないといけない理由があったんだ。君の身近にそういう人がいるよね」
「え……?」
まったくわからなかった。
キグルミでなければいけないような人物。マスクやサングラスの変装ではダメな人物。そんな人物がいるだろうか。
「普通の変装とキグルミの何が違うのか、考えてみればわかるはずだ。キグルミの場合は顔だけじゃなく、体を隠すことができる。だから、男なのか女なのかもわからない」
たしかに、と私はうなずいた。
「今回の場合は、体を隠したかったんだね。体に特徴がある人物だ。変装では隠し切れない特徴だよ」
それはどんな特徴だろうか、と考えてみる。
たとえば体に傷跡があるという場合は、ただ服を着ればいいだけだ。サングラスやマスクなどの変装では隠せないということは、その特徴は顔の周囲ではない。しかし、太っているとか、背が低いとかいう場合は、キグルミを着ていてもわかりそうな気がする。
――ほかに変装では隠せない特徴なんて……あるのだろうか?
「わからない? 特徴がある、と考えるからわからないんだ。その人物は体の一部がない。たぶん、右腕だね」
「腕が……ない」
その条件に該当する人間は、いる。何を馬鹿なことをしているんだと思った。唇を噛んでしまう。
「でも、どうして知っているんですか?」
チカちゃんに、「教えたの?」と視線で尋ねたが首を横に振っていた。
「まず年齢だね。大学生の子供の父親なら、普通に考えると定年退職には少し早い。そして、お金がないわけじゃないっていうことも言っていたね。定年退職ではないのになんらかの理由で退職している。それにもかかわらず、特別お金に困るような状況でもないようだ、というのが一点。
それから趣味の剪定ができなくなった、ということも言っていたね。趣味と言うからには以前はよく庭弄りをやっていたんだろう。これがなぜかできなくなった。おまけに車の運転もできなくなった。それが二点目。
まず二点目のほうから考えてみよう。庭弄りができなくなったというのは何かが変化したからだ。それは何かを考えればすぐに答えは出る。剪定に使う大きなはさみは、両手で動かすよね」
ああ、と私は思った。そうだ、だから父親は庭弄りができなくなった。
「両手を使える状況ではなくなった。これはまあ、車の運転もできないだろうね。さらにお金に困るような状況ではない。ということは、両手が使える状況ではなくなったときに、労災や保険がおりたんだろう。
おそらく事故に巻き込まれた。しかも保険がおりるような大きな事故だ。たとえば腕を切断するような事故があてはまる。そうすると、状況にもよるけど、会社にもいづらくなって、そのうちに退職することもあるだろうね。
もちろんほかの可能性もあったけど、キグルミの件も合わせて考えれば、こういうことなんだろうなと予想したわけさ」
櫻井先輩の言うとおりだった。そして、キグルミの正体もきっと彼の言うとおりなのだろう。
何をしているんだ、と舌打ちをしたい気分だった。すぐに、こんなことはやめてもらうように、母親宛のメールを書き始めた。
「馬鹿げてる。迷惑だ。気持ち悪い、と思ってる?」
「本当に、どうかしてますよね」
と私は笑った。
スマートフォンを操作していたから、視線は下を向いたままだった。
「ふーん。それで、そのメールは誰に出すつもり? 君はまだこんなことが起きた原因に気づいてないのかな?」
ようやく私は顔を上げた。櫻井先輩の表情が視界に入る。
さきほどと同じように微笑を浮かべたままだったけれど、その目つきはひどく冷たいものだった。