#2
大学の講義が終わると、私は学生会館に向かった。
文学部のキャンパスを出て、ちょっと歩いたところに学生会館は建っている。これがどういう建物なのかというと、大学の学生向けの多目的施設という位置づけらしい。
少なくとも6階はあるのだろう。近くで見上げると全体の姿がわからないくらいに大きく、大学の校舎よりもきれいな建物だ。壁には染みひとつないし、白い床は鏡のように輝いている。
それもそのはずで、この建物は数年前に新築したばかりだということだった。利用者も多いらしく、最寄の地下鉄の駅とは反対方向なのにも関わらず、学生会館へのなだらかな上り坂には講義の終わった学生たちが列を成していた。
入り口の自動ドアをくぐると、そこはガラス張りで、まぶしいくらいに光が差し込むエントランスだ。右手奥にはパソコン利用スペースがある。
ここは簡易的なスペースで、利用者は立ったままパソコンを操作しなければならない。それでも熱心に画面に向かう学生たちの背中を多数確認することができる。
私もここをときどき利用することがある。ちょっとした調べものをするには便利なのだ。ここなら自宅に帰らずに調べることができる。座ることはできないから、レポートを作成したり、じっくり資料をまとめるには向いていない。
今日はそちらには用がないので、まっすぐ進んだ。
突き当たりのエレベーターの前には何人かの学生が所在なげに立っていた。階数を示すランプを見つめている。
その中の一人、長身の男子学生はダンボールを抱えていた。どうやら中身はサークルで使う小道具のようで、看板のようなものや電気コード、大小のうちわ、ウインドブレーカーなどがダンボールのふたからはみ出ていた。
いったいどんなサークルが何の目的で使うものなのか予想もつかないが、そもそもこの大学のサークルの多くは、何をしているのかはっきりしない得体の知れない存在だ。特に疑問を感じる人間はいないようだった。
学生会館の2階から上の階はすべてサークルの部室になっている。部室といってもワンルームマンションよりも狭い部屋だ。だから、倉庫代わりに使っているサークルが多いらしい。
彼のダンボールも倉庫代わりの部室に運ぶ途中なのだろう。
エレベーターが止まり、私が乗り込むと、彼はダンボールを抱きかかえるようにして場所を譲ってくれた。エレベーターの隅で窮屈そうに肩をすぼめている。
レディーファーストというよりもただ女性に慣れていないだけの様子で、私から不自然に視線をそらしてもいた。この大学の男子学生はこういうタイプが多い。
少し微笑ましくなり、軽く頭を下げながら、私は4階のボタンを押した。
***
今日はチカちゃんと約束をしている日だ。学生会館で彼女のサークルのメンバーに会うことになっている。
この大学に入って、初めてできた友達がチカちゃんだった。第二外国語のドイツ語のクラスで仲良くなった。退屈な授業だったが、彼女がいるからなんとか出席を続けている。ノートを見せあったりもしている。彼女はドイツ語を学んだことがあるらしく、たいていは、私が助けてもらう側だった。私ひとりでは、とても授業についていけなかっただろう。
見た目が派手だけれど、聡明でやさしくて可愛らしい女の子だ。
彼女は子供のころから囲碁をしていたらしい。それなりの腕前で、通っていた近所の碁会所では敵なしだったという。それで、大学に入るとすぐに囲碁のサークルに入ったそうだ。
新歓期に入りそびれてしまっていたものだから、大学のサークルがどんなものなのかということに、私は興味を持っていた。
「サークルって楽しい? やっぱり入ったほうがいいと思う? 無理やりお酒飲まされたりしない?」
というふうに根掘り葉掘り尋ねていると、
「そんなに気になるなら、うちのサークルに遊びに来ればいいじゃん」
と誘われてしまった。
「囲碁ができなくても大丈夫なの?」
と尋ねると、それは問題ないらしい。囲碁のサークルだからといって、延々とそれだけを続けるわけでもないのだし、女性会員が少ないので大歓迎だと言われた。初心者には教えてくれたりもするらしい。
「みんなでアユミの取り合いをするかもね」
というチカちゃんの言葉に悪い気はしなくて、それじゃあ一度遊びに行ってみようかという流れで、今日の約束になった。
出会いを求めるつもりではないのだけれど、いちおう、念のために私はよそ行きの服を着て、学生会館に向かっていた。普段大学に行くときに、こんなにひらひらしたスカートをわざわざ履くことはない。自分では精一杯、気合の入り過ぎない範囲でおしゃれにしたつもりだ。
知らない人と会うのは少し億劫で、楽しみでもある。
***
チカちゃんの所属する囲碁サークルは囲碁同好会という。人数が少なく、大学からの認可も受けていないサークルなので、部室が貰えていないらしい。
そうしたサークルに対する配慮なのか、学生会館の中には各階に3箇所ほど、長いすが置かれたスペースがある。零細サークルはその長いすを占拠して部室代わりにするのが慣例になっていて、囲碁同好会も4階の長いすを占領しているそうだ。
4階でエレベーターを降りて、うろうろしていると、
「こっちだよ!」
という声が聞こえた。チカちゃんの声だ。長いすに座って手を振っていた。
見ると、そこには彼女一人しかいない。
「あれ? ほかの人は?」
と尋ねれば、
「まだ集まってないみたい。うちのサークル、活動時間とか決まってないから」
とのことらしい。これには少しがっかりしてしまった。残念ながら、私を待っている人はいなかったようだ。
チカちゃんの返事が小声だったのは、すぐ隣の長いすで寝ている人がいるせいだった。視線で知り合いなのか問いかけると、彼女は軽くうなずいた。
「うちのサークルの先輩。寝てるか、疲れてぐったりしてるか。しばらくそっとしておいてあげて」
それを聞いて、ますます気分が悪くなった。どうやら期待していたような歓迎は受けられないようだった。こちらが気を使う立場になるとは思っていなかった。
寝ているのは男性で、長いすに横たわり、開いた本をアイマスク代わりにしている。その本の「磯山九段の必勝定石」というタイトルが見えて、
――ああ、やっぱり囲碁同好会のひとなんだ。
と思った。
長いすを囲碁同好会が占領し続けるためには、つねに誰かが座っていなければならない。寝ている人はあてにならないから、チカちゃんがいまこの場所を動くわけにはいかないらしい。ちょっとコンビニに出かけるのもできればほかの人が来てからにしたいということで、私たちは長いすに座ったまま、どうにか時間をつぶすことになってしまった。
***
チカちゃんは大学に入るまで、鬼ギャルをやっていたそうだ。写真を見せてもらったこともある。なかなか気合の入ったメイクで、ほとんど原形をとどめていなかった。
その名残か、いまでもまだすこし肌が黒いし、いつもホットパンツかミニスカートを履いて、きわどい格好をしている。私の通っている大学は変わった人間が多いが、それでも彼女の派手な外見は目立つ。
「そういう格好してると、ひとから見られるの恥ずかしくない?」
と尋ねたことがある。
彼女はにやりと笑って、
「恥ずかしくないよ。ほら」
とスカートを捲ってみせた。完全に見えてしまっているが、周囲の視線を気にする様子はなかった。
彼女のそういう大胆さに、私は憧れがある。しかし、それを聞いて、
「こんなの慣れだよ、慣れ。アユミも着てみなよ」
と鬼ギャル時代の洋服を私に着せようとしてくるのには困ってしまった。彼女の洋服は露出があまりにも激しく、どれも私に着られそうなものではなかった。憧れがあっても、私にはそこまでする勇気はないのだ。
太ももをむき出しにして長いすに座るチカちゃんを、男子学生がちらちらと眺めながら歩いてきた。見てはいけないと思いつつも、どうしても気になってしまう、という様子だった。
チカちゃんが大きな瞳で男子学生を見つめ返すと、彼はぎょっとした表情になり、足早に通り過ぎていった。それを見送って、チカちゃんがまた、にやりと笑った。
***
女の子二人が集まれば、時間をつぶすのに苦労をすることはない。ただ話をしているだけで、いくらでも時間が過ぎていってしまう。
「そういえば、バイト始めようかな」
と私は言った。
「バイト? するの?」
「うーん。みんなやってるし、お父さん仕事辞めたから。でも特別お金がないわけじゃないんだけど、なんかやったほうがいいかなーって」
「ああそうだねえ。でもアユミに向いてるバイトってあるかなあ」
とつぶやいて考え込んでしまった。
「別に何のバイトでもいいんだけど」
と私は言った。どんなバイトをしてみたいのか、具体的な考えはなかった。なんとなく思いついて言ってみただけだ。
「あるかなあ……」
チカちゃんはまだ考え込んでいる。
こんなに考えなければならないほど、私がバイトに向いていないと思っているのだろうか。
やろうと思えばたいていのバイトはできるはずだ。これではなんだか失礼ではないか、と思っていると、チカちゃんが顔を上げて、「そうだ」とつぶやいた。
「メイド喫茶とかいいかもね」
「えっ? え、メイド喫茶?」
想像もしない単語が出てきて私は狼狽した。名前はよく聞くが、実際どういうものなのか詳しくは知らない。
「アユミはメイド服とか似合うと思う」
チカちゃんが真剣な表情で私を見つめる。
自分のメイド服姿を想像して、私は赤面してしまった。あんな恥ずかしい格好はとてもできそうにない。メイドの格好で、駅前でチラシを配ったりするのだ。大勢のひとが通る。知り合いにも見られるだろう。実際にそうしたひとを見かけることがある。よく平然としていられる、と思う。私にはとてもできないことだ。
「ちょっと『ご主人様、お帰りなさいませ』って言ってみてよ」
「ええっ? ご主人様?」
「そう、そんな感じで」
チカちゃんは、混乱する私を見て笑っていた。
「もう、やめて。絶対無理だよ! あ、そうだ。ねえ、タツオの写真見る?」
話題を変えようと、私はスマートフォンを取り出した。
「タツオ?」
チカちゃんが首をかしげる。
「うんほら、これ」
画面にはイグアナが写っていた。かわいらしい、私のペットだ。
私は小学生の頃から爬虫類に興味があった。近所でトカゲを捕まえてきてこっそり飼おうとして、そのたびに母親に怒られて庭に逃がすということを何度も繰り返してきた。
あの独特の肌の質感と、何を考えているのかわからない瞳にどうしても惹かれてしまうのだ。
これが普通の趣味ではないことは大きくなるうちにわかってきたので、表立った行動は控えるようになった。トカゲを拾って帰ることもなくなったし、周囲に爬虫類好きを公言することもなくなった。
だが、このときの私は念願の一人暮らしで、グリーンイグアナを飼い始めたばかりだった。この子のためにマンションもペットを飼えるところに決めた。そうすると、どうしても人に見せたり自慢したくなる。
チカちゃんに見せた写真はお気に入りの一枚だった。鮮やかな緑色が、イグアナの肌に美しい模様を描いている。
「かわいいでしょ?」
「ん? んー、えーとね」
チカちゃんが瞳をくるりと動かす。
「あっ、そういうペットって何を食べるの? ドッグフードみたいなのあるの? えっ、待って……虫とか食べさせてるの?」
不安そうな彼女の顔に、今度は私がにやりとした。
「この子が食べるのは野菜とか、草とか。心配しなくても大丈夫だよ。うちに来たときに食べさせてみる?」
「そうなんだ。ん……うーん……」
さらにチカちゃんに爬虫類の魅力を伝えようとして、別の写真を探していると、メールの通知が来ていた。
「メール? 彼氏から?」
「違うよ。まだいないし」
まだ、というのを強調して私は答えた。
「お母さんからだった。お父さんがまた出かけてるって。どこ行ったんだろうって。最近元気ないとか書いてある」
「ふーん。あれ? お父さんって家に閉じこもってるんじゃなかった?」
「そう。会社辞めて、車の運転もできないし、趣味だった庭の樹の剪定もできないからふさぎこんでて、お母さん心配してたんだけど、今度は出かけてるって心配してる」
「あはは、心配性なんだ。男の人は仕事辞めたらやることないのかもね。いいじゃん、やることが見つかったんなら」
「うんそう思う。心配しすぎ」
メールの返信をして、また写真を探していると、あのときのキグルミが画面に映った。
キグルミに対するぼんやりとした不安はいまだに残っている。だが、具体的に何かをされたというわけでもないのだし、警察に相談しても相手にされないだろう。
ただ踊っていただけだ。過剰に反応するようなことでもない、と考えるようにしていた。
この画像を見せて、チカちゃんに「変なキグルミだねえ」と笑ってもらえたら、気が楽になるかもしれない。
「ねえ……これ、どう思う?」
と画像を見せながら切り出して、私はチカちゃんに踊るキグルミのことを話し始めた――。
「ふーん?」
話を聞いたチカちゃんは首をかしげていた。
「やっぱり変なキグルミだよね?」
「んー? 変なキグルミっていうか、そもそもキグルミが歩いてるのが変なんだけど……」
ちょっと考え込むようなしぐさをしてから、彼女は言った。
「そういえば、お父さんとはメールしてるの?」
もうキグルミの話に飽きてしまったようだった。画像だけを見ても、興味がわかないものなのかもしれない。
突然の話題の変化に私は戸惑いながら、
「うんまあ……」
とあいまいな返事をして、ちらりとスマートフォンに視線を送った。
メールボックスには、いままでに届いた父親からのメールが何件か入っているはずだ。だが私はそれを開けることすらしていなかった。苦手なのだ。昔から。
家で話をすることもなかったし、ましてやそういう人とのメールでのやり取りなんてどうすればいいのかわからない。私は母親と仲が良かったが、父親はその母親ともほとんどしゃべることはなかった。
家との連絡が必要なときは母親がいるから、そちらに連絡すればいい。結局父親とは何のやり取りもしないで済んでしまう。
だから、メールを見る必要もない。
あらためて指摘されれば、なんだか決まりが悪いような気がするが、世間ではこれが普通なんだろうな、とも思っていた。
「ふーん」
と気のない相槌を打って、チカちゃんはぼんやりしていた。
すると、隣の長いすで寝ていた男性がむくりと起き上がった。
「あ、櫻井先輩。起きた?」
「うん、いや……」
と言いながら、チカちゃんが取り出した缶コーヒーを受け取って飲み始めた。飲み終わってから不思議そうに缶コーヒーを眺める。
「あれ? ありがとう。買ってきてくれたの? これ」
「いや、先輩、これ握って寝てたから。落とすと思って預かってた」
「あそう。そうだったか。起きてたんだけどね。いや、半分寝ていたというか、起きるのが面倒くさかったというか……」
寝ぼけているのだろうか、櫻井先輩と呼ばれた男性は、よくわからないことをつぶやいていた。
「ところでさ」
切れ長の目が、私を捉えた。
「君、まだ気づいてないの?」
突然そう言われても、私には何のことだかわからなかった。