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#1

 私が櫻井先輩と初めて会ったのは大学一年生の春だった。



 この年の春はいつまでもぐずぐずと肌寒く、天気の悪い日が続いていたことを覚えている。


 空を見上げれば黒い雲が空を覆い、ひんやりとした湿った空気が不快感を誘う。ときおり思い出したように雨が降り、慌てて傘を用意してみれば、いつのまにかやんでいる。そして、いつでもまた雨を降らすことができるとでも言うように、雲はぐるぐると渦巻いている――。


 そうした気候にもかかわらず、私の気分が滅入ることは全くなく、心の中では雲ひとつない快晴の天気が続いていた。道を歩いていても突然鼻歌を歌いだしそうなくらいだった。実際、歌っていたことがあったかもしれない。

 最新のヒットチャートを追いかける暇はなかったから、このとき私の中で流れていたのは、一年くらい前の曲のはずだ。なのに、「恥ずかしい」とか「みっともない」とかいう言葉は欠片も頭に浮かばず、胸を張って歩いていた。

 

 希望通りの大学に合格することができたという事実が、当時、こんなにも私の気分を良くさせていた。この大学への進学は、私の学力では難しいと言われていて、自分でもそのように思っていたから、合格通知をもらったときの喜びはひとしおだった。


 大学から一駅の場所にある引越し先の部屋の片付けが終わり、入学式、新入生向けのガイダンスと立て続けに行事をこなしていってもその浮かれた気分が変わることはなく、むしろ自分が大学生になったのだという実感とともに、いっそう強くなっていった。あまり表には出さないように注意していたが、「有頂天だった」と言ってもいいだろう。


 同時に、長い受験勉強から解放され、一人暮らしをはじめたことで両親からも解放された私は、年相応の傲慢さで自分にできないことは何もないようなつもりになってもいた。



 あのとき――初めて会ったときの櫻井先輩の厳しさは、こうした私の傲慢さまで見抜いて、それをふくめて咎めたものだったのかもしれない。言われたことの一つひとつは納得ができるし、きついことを言われても仕方がなかった。だがそれだけではなく、彼の言動には、いま考えればそうした意図も含まれていたように思う。



 いずれにせよ、最初のころの彼の印象は、最悪だった。



***



 東京で一人暮らしを始めた私には見るものすべてが新鮮に映ったけれど、なかには期待はずれだったこともある。


 そのうちのひとつが芸能人だ。

 私は都会に行けば、テレビ画面の中にいる人たちに簡単に会うことができると思い込んでいた。街で見かけたり、撮影の現場に遭遇したり、そうしたことが頻繁に起こるのが東京だと思っていた。


 もちろん、これは完全に間違いというわけではなかった。

 たしかに芸能人を見ることはできた。だが、それは私の期待していたような有名俳優や雑誌の表紙を飾るトップモデルではなく、バラエティ番組で何度か見たことがある芸人の、しかも本人ではなくそっくりさんだとか、あるいは以前はテレビに出ていたけれど、もうすっかり見かけなくなったグラビアモデルだとかばかりだった。


 そのころの私に言わせれば、彼らは「三流の人間」だった。競争に負けて、もう表舞台に出ることはないのに、できることがこれしかないからいつまでもしがみついている。可能性を失った人たちだ。憐れで、みすぼらしい。思わず目をそらしたくなるような存在だ。


 気づかないだけで、こうした「三流の人間」は東京にはたくさんいて、どこかですれ違ったりしているのだろう。

 しかし、こんな人たちに、私は興味はない。わざわざ立ち止まって眺める価値もない。



 会いたいと思って、憧れて、頭の中に思い浮かべる有名芸能人とは、私は会うことはできなかった。



***



 私の住むマンションは大通りから外れたところに建っている。

 新築ではないが、見栄えは悪くない。セキュリティーのしっかりしたマンションだ。

 

 自宅へ帰るため、メインストリートからマンションに向かう路地に入ると、とたんに人通りが少なくなる。ギラギラと輝く派手な看板も、客が集まる店もない。あるのは駐車場くらいで、そこに止まる車もまばらだ。


 賑わっているのは表の目立つ部分だけで、そのすぐ裏にはこうした場所が隠されている。そして、多くの人々はここでひっそりと暮らしている。静かな生活の場所だ。

 この構造は田舎でも都会でも変わりがない。


 そうした寂れた場所にいても街の喧騒が聞こえてくるのはさすが東京といったところだが、ひとりで歩いていると少し心細いものがあった。





 いつものように、駅からの帰り道を早足で歩いていると、曲がり角に色あせた薄いピンク色が見えた。


 ――また会った。「あの人」だ。


 私は心の中で思った。



 マンションの近くで、ときどき見かける「人物」がいる。怪しいといえば怪しい姿なのだけど、あまりにも目立つので不審者とも思えず、私はその「人物」を見かけるのをこっそり楽しみにしていた。



 この「人物」は奇妙な姿をしていた。私が住んでいた田舎では大きなイベントでしか見かけたことがなかった格好――それはキグルミだった。


 色あせたピンクのクマのキグルミ。頭まで完全に覆われていて、中に入っている人間の顔を見ることはできない。

 これが道を歩いてくるのだった。頭部が重過ぎるのか不安定に体を揺らしながら、一歩ずつ、しっかりゆっくり歩いてくる。

 ただでさえキグルミは目立つのに、周囲が静かな街並みだから、その姿はよけいに浮いていた。すれ違うたびに私の視線は釘付けになってしまっていた。


 最初はびっくりしたのだけれど、このときはちょうどテレビでゆるキャラがもてはやされている時期でもあった。奇声を発しながら動きまわるキグルミは、私も画面越しに何度も見かけたことがある。これは大変な人気で、あちらこちらでグッズを持ち歩くひとを見つけることができた。一過性の人気ではなく、もはや日常にとけこんでいるようにも思えた。

 こうしたこともあり、都会ではキグルミとすれ違うこともあるのか、と私はその存在をすんなり受け入れてしまっていた。

 よく考えればおかしなことだったはずなのに、当時の状況と東京で目にした多くの珍しいものにまぎれて、これがとりたてておかしなもののようには感じられなかったのだ。



 ピンクのクマのキグルミについて、私はこのように考えていた。


 ゆるキャラやご当地キャラの一種なのだろう。もしかしたら私が住んでいる地域のご当地キャラなのかもしれない。それが近くに住んでいて、私は出勤時や帰宅時の姿を見ているのではないだろうか、と。


 移動時にキグルミを着たままでいるというのはあまりにもプロ意識が低く、ずぼらな気がしたが、どんなときでも人前ではキャラクターを貫き通すというこだわりの結果なのかもしれない。あるいは、マネージャーや事務所がついていないような三流のキャラクターであれば、そうやって移動するしか方法がないのかもしれない。


 テレビなどで見かけたことのないキグルミだったから、これはありそうなことに思えた。


 ――私が見かけた芸能人たちと同じように、きっとこのキグルミも「三流の人間」なのだ。

 

 こんなふうに納得して、それ以上深く考えることはなかった。



 キグルミはいつも道の向かい側からやってきて、私と同じ方向へ並んで歩くことはなかった。


 目立つ格好をしているという自覚はあるらしく、顔を背けて恥ずかしがっているような仕草をしたり、電柱に隠れようとしていたこともあった。なるべく私とは反対側の端を歩くという地味な努力もしているようだった。

 かといって、完全に人目に触れるのを避けようとするわけでもないようで、私を見て道を変えるということはなかった。


 キグルミが私の横を通りすぎていく。

 日常の風景とはいいがたい。しかしその行動自体は普通で、とりたてて騒ぐ理由もない不思議な状況だ。

 

 興味を引かれたから仲良くなれないかと思ったりもしたが、キグルミはつねに周囲と一定の距離を保とうとする様子だったので、これはできなかった。相手にその気がないのならば、無理強いをするようなことでもないだろう。





 あるとき、ゴオンとものすごい音が聞こえて振り返ると、すれ違ったばかりのキグルミが電柱に頭をぶつけたところだった。勢いよくぶつかったためか頭の被り物がずれて、体とは違う方向を向いている。

 驚いた私が立ち止まっていると、キグルミが不可解な動きをはじめた。それはダンスのようだった。


 右手をだらりと下げたまま、左手を振り回し、片足でぴょんぴょんと飛び跳ねる。顔はさきほどの衝撃で斜めに傾いている。あらぬ方向を向いたままだ。そうするとバランスが偏ってしまうらしく、本人が意図しているようではないのに、時計回りに体が回転している。

 実に奇妙なダンスだった。


 これは失態を見られてごまかすためのパフォーマンスなのだろうと思い、付き合うように「あはは」と笑いながら、私はスマートフォンで踊るキグルミの写真を撮った。カシャリと音がして、スマートフォンをバックにしまったあとも、キグルミは踊っていた。


 周囲には、私以外誰もいない。


 キグルミは踊りながらだんだん場所を動いて、道路の真ん中にたどり着いていた。そこでまだ、奇妙な踊りを続けている。車が通りかかったら危ないと思うのだが、そうしたことを気にする様子はない。


 ふと、怖くなった。


 キグルミは顔まですっぽりと覆われている。中にどんな人物が入っているのか、まったくわからない。

 なんとなく、私はキグルミに入っているのは、感じの良い子供好きの人だと想像していた。三十歳くらいで、痩せてはいるが、筋肉質の引き締まった体をしている。さっぱりとした短い髪で、いつも笑っていて、笑うと目じりにしわができる。なによりみんなを楽しませることが好きで、この仕事を続けている。そういう人物だ。


 だが、違うのかもしれない。


 キグルミは踊り続けていた。休むことはない。からだを動かし続けている。

 本当は、この中に入っているのは普通の人ではないのかもしれない。

 いつまでも踊り続けていることも、その奇妙な動きも、私はもちろん、常人に理解できるようなものではなかった。

 

 ――そうだ。よく考えてみると、このキグルミはおかしい。まともではない。関わってはいけない人物なのかもしれない。


 まだ、踊っている。


 それが理解できないものだということを意識してしまったとたん、キグルミに対する感情が親しみや興味から変化していく。じわり、と恐怖がわきあがってきた。


 ゆっくりと、私はキグルミから離れるように、歩き出す。

 それでも踊りはやめないようだった。

 誰に見せるというわけでもなく、ただ踊り続けている。


 駆けるような早足になって、駅に向かった。

 駅につくまでの間、私が後ろを振り返って確認するということはなかった。もし、背後にあの踊るキグルミがいたらと思うと、どうしても振り返ることはできなかった。

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