初めての選挙戦(2)
夕食の時間の前に龍岳さんが帰って来た。
龍岳さんが一番風呂に入っている間に、幽奈さんが手際良く酒の肴を作っていた。
龍岳さんは、これから投票日まで、まともに家に帰ることはできないだろう。きっと、これからの選挙戦を前に、自宅に帰って、家族とともに団欒したかったのだろう。
そして、風呂から上がった龍岳さんが食卓に着くと、いつもより豪華な料理が並んだ夕餉が始まった。
幽奈さんのお酌で美味しそうに杯を傾けていた龍岳さんが杯をテーブルに置いた。
みんなが龍岳さんに注目した。
「みんなも知ってのとおり、衆議院が解散した。公示日は二週間後の八月十日、投票日は八月二十三日となる予定だ。告示日以降でないと選挙運動はできないが、実質的な戦いはもう始まっている。儂は、明日から家には帰れない。告示以降は応援演説の依頼が殺到していて、選挙区に戻ることもままならないだろう。だから、ずっと家を空けることになる。選挙運動に協力を願うこともあると思う。みんなには苦労を掛けるな」
「政治家の家に生まれた者の宿命です。仕方ありません」
幽奈さんの言葉に霊奈もうなずいた。
「すまない。真生君、君にもお願いをすることがあるかもしれん。よろしく頼む」
「とんでもないです! 何でも言ってください!」
獄界の成人年齢は十八歳で、高校二年生で十七歳の俺と霊奈はまだ選挙運動自体もできない年齢だったが、ソウルハンターになれば、成年とみなされて、選挙権も被選挙権も与えられる。俺と霊奈は二人とも、そういう意味では一人前なのだ。もちろん、人間的には、俺も霊奈もまだまだ半人前だけどな。
「うむ。よろしく頼む」
「分かりました! 俺もバリバリ働きますよ! だって、龍岳さんがもし落ちたら、食い扶持減らすために、俺、放り出されるかもしれませんし」
「真生! 何、縁起でもないこと言ってるのよ! 『落ちる』って言う言葉はこれから禁句だからね!」
「そ、そうだった。すみません」
俺が龍岳さんに頭を下げると、龍岳さんは愉快そうに笑った。
見ようによっては怖い顔をしている龍岳さんが笑うと、本当にほっとする。龍岳さんの支持者は、そのギャップで心を鷲掴みにされているのだろう。
「まあ、選挙で落ちて、ただの人になってしまうのは、政治家はみんな怖いから、験を担ぐことが多いんだよ。もし、他の政治家やその支持者に会っても『落ちる』は言わない方が良いだろうね」
と言いつつ、龍岳さん自身はほとんど気にしていないようだった。
「でも、龍岳さん。どうして衆議院が解散されたんですか?」
「真生! あんた、ニュースを見てなかったの?」
霊奈に呆れた顔で言われた。
「見てたけど、よく分からなかったんだ。霊奈は分かったのかよ?」
「あ、当たり前じゃない! 私が政治家の娘を何年やってると思ってるのよ」
「十七年だろ?」
「そうだけど、……って、そんなマジレスいらないから!」
「真生君」
龍岳さんがいつもの表情で俺を見ていた。
「ニュースで発表されていることだけではなく、裏の事情も教えてあげよう。しかし、口外禁止だ」
「わ、分かりました」
総理とも直接話ができる龍岳さんが話すことは、今回の解散劇の真相に近いはずだ。
獄界では、ここ二、三年、地獄の在り方が政治の大きな問題になっていた。
地獄は、死んだ肉体から抜け出た霊魂を効率良く浄化する、つまり、霊魂が持っている生前の記憶を効率よく消し去るための施設だ。そして、それと併せて管理されているのが、獄界と地界のすべての人類の死亡時期を予測する超巨大コンピュータ「エンマ」だ。
浄化をしなくても霊魂は徐々に生前の記憶を失っていくが、その速度はかなり遅い。一方で、浄化をしなくても霊魂は新生児の体に宿ることができる。もし、そんなことが起きれば、その子供は過去の記憶や知識を生まれながらに持ったスーパーベイビーになる。
獄界における過去、相次いでそんなスーパーベイビーが生まれた一族がその圧倒的な知識量を駆使して、獄界の支配者となった。地獄やエンマは、その支配者たる大王が自らの治世を盤石なものにしようとして作ったものだ。自分の一族を含めて、すべての人類の霊魂浄化を管理して、自分の一族にだけ浄化されない霊魂を宿らせることで、自らの一族への知識の集中を図ろうという企てだったが、エンマを作った十三人の科学者達が反乱を起こして、大王とその一族を抹殺し、二度と大王のような支配者が現れないようにした。
具体的には、エンマを恣意的に運用できないようにするため、十三人の科学者がお互いを牽制し合いながら、地獄やエンマを管理するようになった。その十三人の科学者の末裔から神聖自由党の十三の派閥が生まれたと言われている。
そういうことで、エンマを含む地獄はなくてはならないものであるが、その目的は二度と過去の大王のような支配者を生み出すことなく、獄界と地界が今の平穏な状態を保つための保険と言うべきもので、地獄自体は現世利益を何ら生み出さない。
だから、地獄の運営に必要な費用は、今、全額税金で賄われている。
目に見えて、そのありがたみが分からない地獄に対して、税金の無駄遣いだという批判が国民の中から上がって、野党連合「民主改革連合」の連中が恰好の攻撃材料だとその主張に乗っかってきている。神聖自由党の一部の勢力も、国民の受けが良い地獄民営化論、あるいは地獄廃止または縮小論を打ち出してきているというのが現在の政治の図式だ。
これに対して神聖自由党の主流派は、前総理の首をすげ替えた上、地獄の存在意義と必要性を丁寧に国民に説明をして、地獄の存続自体は、再び国民の支持を得たかのように思えた。
しかし、少子高齢化という地界と同じ傾向が獄界でも顕著になっていて、膨らむ一方の社会保障費が莫大な財政赤字を叩き出している中で、これも膨大な赤字を垂れ流している地獄の在り方が再び議論の的となった。社会保障費は老人達の現世利益として目に見える形でそのありがたみが認識できるが、地獄は死んでからのことでしかなく、しかも、将来の独裁者出現の防止などと言う、目に見えないありがたみを理解しろという方が無理だ。
次第に神聖自由党は劣勢に追い込まれてきていた。そして、そんな泥船に乗っていては、自らの政治生命の危機だと感じた神聖自由党所属の国会議員達も、さすがに離党をする議員はいなかったが、執行部の意見に従わない議員が増えてきていた。寄り掛かっている大樹に実る果実は腐っていると言いながら、その大樹から離れずに、そしてその大樹を植え替えることなく果実だけを変えるなどと、空想的な話しかしていない無責任な連中だ。
そんなこんなで、神聖自由党にとって逆風が吹いている現状ではあるが、このまま時間が流れても事態が好転する可能性はないと読んで、むしろ、まだ、過半数の投票数が予測できる今の時点で解散総選挙を実施することが得策であると、党の執行部が判断した結果、今、総選挙に打って出たということだ。
「神聖自由党は、強力な諜報調査機関としてのプライベートアーミーを各派閥単位で擁している。今日の昼間の総務会で各派閥から現在の情勢の読みが披露されたが、どこも同じ回答で、これからどんどんと状況は悪くなるということだった。その後、政府与党連絡協議会で総理のお考えを聞くと、党としての判断に一任するとの回答であったので、党の方針が政府の方針となったと言うことなのだ」
龍岳さんの話の全体は分からないところもあったけど、とにかく神聖自由党にとって、今回の選挙は非常に厳しい戦いになることは疑いようがないようで、下手をすると野党に転落する恐れもあると言われていた。
「さっきも言ったように、儂はなかなか選挙区に帰ることができない。そこで儂の名代として三人にもいろいろと手伝ってもらうことになる」
「えっと、具体的にどんなことをするんですか?」
俺は、年齢的に、父親の選挙戦を一緒に戦ったことがあると思えた幽奈さんに訊いた。
「本当は演説とかができれば良いのですけど、さすがにお父様の代わりは務まりませんから、そこはすることはないです。一番、多いのは支持者の方々への挨拶回りですね」
「挨拶回りですか? 何か手土産をもって、よろしくお願いしますって言いに行くんですか?」
「真生! それじゃあ、みんな捕まっちゃうわよ」
「えっ、何で?」
「手土産を持って行くのは選挙違反よ」
「そ、そうなのか? ちょっとしたお茶菓子でも駄目なのか?」
「一円でも支持者に利益をもたらした時点でアウトよ」
「けっこう厳しいんだな?」
「それはそうよ。不正をしようとすれば、いくらでもできるんだから。持っていくのは誠意だけよ。そして、自分達が信じる主義主張を真っ正面からぶつけていくしかないのよ」
人に何かをお願いする時は菓子折の一つでも持って行くという感覚だったが、選挙が始まった後だと、それも禁止されるらしい。
確かに、遠足のおやつみたいに何円まではオッケイだけど、それ以上は駄目という境目をどこにするのか難しいところだよな。もちろん、法律で決めてしまっても良いけど、ある人にとってはそれが過分なお礼に感じるかもしれないし、ある人にとってはお礼の範疇に入らない金額なのかもしれない。同じ金額の手土産でも人によってそのありがたみが違うのであれば、一切駄目だとした方が手っ取り早い。だから制度として、そうなっているのだろう。
「支援者の人は、もうお父様がどんな政治的主張をしているかは知っているから、改めて演説をする必要はないけど、皆さんのことも忘れていませんよということを訴えるだけでも効果があるのよ」
「なるほどなあ。渡る世間も義理と人情を欠かすと渡っていけないってことかあ」
「何、その年寄りじみた発言?」
「うるさいよ! 蘊蓄のある発言と言ってほしいね」
「今の発言のどこに蘊蓄があるの?」
「まあまあ、二人とも痴話喧嘩は後でしておくれ」
龍岳さんの一言で幽奈さんはクスクスと笑っていたが、霊奈は照れて真っ赤な顔をした。
「違います! ちゃんと真生に教えてあげてたの!」
「分かった分かった。幽奈、明日、沙奇君がここに来るから、みんなのスケジュールを調整しておいてくれないか?」
「分かりました。沙奇ちゃんも忙しくなりますね」
幽奈さんは沙奇さんと同い年で学校の同級生だったようだ。幽奈さんはふわふわとした感じで、沙奇さんはシャキシャキした感じでの違いはあるが、二人とも女子大生の年齢でキャピキャピしててもおかしくはない年齢なのだが、落ち着いている雰囲気のせいで、実際の年齢よりも年上に見える。
「今回の選挙戦は今までにないくらいに厳しいものになるだろう。しかし、もし、神聖自由党が野に下ることになれば、地獄を始めとするこの国の形が変わってしまうかもしれない。だから、我々としては、絶対に負けるわけにはいかないのだ」




