あとがき
さて、『殺人鬼の哀歌』はこれにて閉幕となりますが、まずはお読み頂きありがとうございます。そして、作者が気紛れで書いているだけの、このあとがきにまで目を通して頂いたことに、重ねてお礼申し上げます。
堅苦しいのはここまでにして、徒然なるままに、ではないですが、適当に語っていきたいと思います。
これを書いているときも思ったんですが、私は何か『これ!』という主張が無いと筆が乗らない性質みたいですね。ここには投稿していませんが、以前書いたモノには『愛とは何か?』という主張がありました。何故だか人殺しに走っちゃいましたが。そして今作には、『生きるとは何か?』という疑問が一応込めてあります。まあ、やはり主人公が人殺しなんですが。
主人公『人斬り』のキリちゃんは、常識的でないという意味で狂人です。本音を言えば、読んでいて「意味わからん」と言われても仕方がないかな、と若干思っています。作者、つまり私も頭が若干アレなので、こんな風にモノを見ている奴もいる、程度に流してください。
キリちゃんやマスターの主張は、概ね躊躇とか常識とかそのあたりを外した、私が普段考えていることだったりします。ああ、落ち着いて。通報は勘弁してください。取り上げた受話器を置いて、もう少し話にお付き合い願います。
ではここからは、皆様からわけわからんと言われそうな、本作の登場人物たちの思想について解説していきたいと思います。
≪人斬り≫『殺人鬼』
作者の思いの代弁者で殺人鬼。
主張:何事にも代わりはあるため、個々の貴重さは限りなく低い。そのため、自身を含めて人を数字と考え、いくらでも代役のあるものだとしている。だが、その中で代わりのない存在(初めの一人や、何かの偉業をなした人物)になったモノを『生きている』と称し、憧れている。
単純に言えば、自分を含めた人間をとても高い視点から俯瞰しているというのを想像すればわかりやすいか。その視界の中で、小さな点や見えないようなモノは『生きている』とは言えず、富士山やスカイツリーなどのようにはっきりわかるモノを『生きている』と考えている。他人と接することは、自分も代用が効くモノでしかないと否応なく思い知らされるためあまり好まない。
まとめると、自己否定と肯定欲求を持った面倒くさい娘です。誰にも紛れたくなくて、誰かに認められて肯定されたがっていますね。他人と自分を切り離したいという欲求が、人を殺すという手段につながっていったんじゃないかな、と。きっと好きな人には基本デレデレ、半ばヤンデレって感じでしょう。
≪マスター≫
キリちゃんと話せる人。この人がいなければこの小説はひたすら人を刺すところを曖昧にグダグダ描写していくだけのものだったでしょう。
主張:自分というモノはここにいる自分であり、世の中すべては自分の主観を通して見ているわけなので、自分こそが世界である。故に大切なものは自分であり、自分のためならどんなことでもする。どんな思いも主張も、自分が居なければ存在しないのだから。何かするにしてもそれは徹頭徹尾自分のためである。
彼はキリちゃんの主張の逆を言ってます。キリちゃんは『世界の中の小さな自分』であるのに対して、マスターは『自分があっての世界』と考えています。しかしそれは、あらゆるものが自分のためにあるというような妄想ではなく、何かを思うことも、何かをすることも、それは自分と言う主観があってこそのモノであり、自分が居なければそれを自分が味わうことができないので無価値としているだけです。まさに『自己中心的』です。
二人の思想は自己中心的なものですが概ね対極で、それ故に相手のことを頭おかしい奴だと思いつつ、尊重していた形です。『人斬り』もマスターは明確に常人とは異なるから一緒にいられていますし、マスターの方も自分にとって面白い相手だからこそ融通を利かせています。
しかし、私の頭の中にはこんな正反対の考えが納まっているのかと考えると、なんだか面白いですね。冒頭に書いたように彼らの考えは、私が持っている考えを少し脚色したものです。矛盾ではありませんが、このような裏表な考えを持っているあたりに、私は人間の面白さを感じますねぇ。
それでは名残惜しいですがこのあたりで、筆を置かせて頂こうと思います。そして、ここまでお読みいただいたことに、もう一度感謝の言葉を言わせていただきます。ありがとうございました。