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本編

 

 掛け替えのない人なんていない。誰にだって、何にだって、代わりというものは存在している。

例えば私が話した言葉も、為した行動も、いつか何処かで既に存在したものに過ぎない。焼き直し。繰り返し。私たちの人生というのは、一部を除いてすべてがそうだ。


 では、除かれる一部とは何だろうか。それはアリストテレスであり、コペルニクスであり、エジソンである。つまり、新しいものを生み出した人間だ。もちろん彼らにも、きっと代わりはいくらでもいた。彼らが見つけた発見は、たとえ彼らが見つけなくても、いつか他の誰かがきっと見つけただろう。だがしかし、現代を生きる私たちにとっては、彼らが見つけた発見であり、彼らは唯一の存在である。


 日本の諺に、『虎は死して皮を残し、人は死して名を残す』という言葉がある。幼い頃に見つけて、今に至るまで心に強く焼き付いている言葉だ。


 これはつまり、名を残せなかった人間は生きていたことを認められないということではないだろうか。歴史の教科書を見てみればいい。〝人間〟の歴史を学ぶための教科書なのに、そこに出てくる人間はいったい何人だろうか。百人か? 千人だろうか? 何万人とはいないだろう。地球上の人間の中で大切なのは、生きていたのは、その人たちだけ。あとはどうでもいい、代えの効く人間でしかなかったのだ。『その他の人』が生きていたのだと、現代のいったい誰が言えるだろうか。確かに『人』は居たはずなのに。だが、それが誰かは分からない。そんな背景のような人々。私も、結局はそうした『誰か』の一部でしかない。


 それは嫌だ。そんなのは我慢できない。気持ちが悪い。


 私は今ここにいるし、私は『私』なのだ。だから、誰かも分からない他人と同一視して、一纏めにして、私が生きているという事実を奪わないでほしい。


 だって、私は唯一でありたいのだから。

 だって、私は生きていたいのだから。


 ◆


 科学が進歩して、情報社会だ何だと言われるようになっても、犯罪が消えることはない。いくら監視を強化しても、悪は損得で分けられて、利益ある悪は見逃され、害ある悪は正義の餌として有効活用されていく。


 損得。そう、世の中を分けているのは結局それだ。善悪二元論など、鼻で笑われて打ち捨てられる。

この場の情景も、そうして生み出されたモノの一つに過ぎない。


 赤、赤、赤、とまるでペンキをぶちまけたかのような有様。むせ返るような血臭は、もしここに常人がいたのならば、即座に胃の中を空にしてしまったであろうほど。


 とある住宅の、とある一室。そこでは地獄が展開されていた。大きなベッドには、元は人間だったのだろう、物言わぬ肉塊が二つ。一糸も纏わない身体は大小さまざまな刃物で滅多刺しにされたかのように掘り返され、抉られ、斬られていた。しかしそれにも拘らず、驚くべきことに傷一つない顔から判断するに、この二つの肉塊は元々一組の男女だったようだ。一糸も纏っていなかったのは彼らが情事の後だったからなのだろうか。それが分かる機会は、もう二度と無くなってしまったが。


 そして、その傍らに人影が一つあった。手元から漏れる光に目を落とし、禍々しい部屋の様相には目もくれず微動だにしない。


 ――ピピピッ

 その時、この空間に似合わない軽快な音が鳴った。


「……ふう、やっと来たよ。まったく、連絡くらいさっさと返してくれればいいのに」


 その音にピクリと小さく身じろぎした影は、手元で何やら操作するとうんざりしたように小さく呟いた。そして大きく伸びを一つすると、そのまま悠々と玄関の方へと歩いて行く。やがて玄関を抜けて、屋敷の外に出たところで顔だけを後ろに向けた。


「とある大富豪の暗殺事件かぁ。これは明日の一面トップになるかもねぇ。……それにしても、こんなに大きな家建てて、どう考えても部屋余ってるでしょ、これ。お金持ちの余裕ってやつなのかな? なんにしても勿体ない」


 初めは面白がるように、そして羨ましげに、まるで他人事のような無関心さで、澄んだ女の声が響く。しかし、それを聞く者は誰もいなかった。


こうして大富豪を暗殺し、その屋敷の住人さえ皆殺しにした張本人である彼女は、興味が完全に消え失せたように顔を前に向けて、誰にも見咎められることなくそのまま歩き去って行った。


 

過去には暗殺者、アサシン、刺客など、さまざまな名で表され、この時代においてはプレイヤーと呼ばれる、標的を闇に葬り去るために存在する利益ある悪。彼らは対価を受け取って人を殺す。失敗すれば死が待っているし、成功しすぎても死が待っている。


 そんなプレイヤー業界において、最近とある噂が流れている。曰く「殺人鬼が出た」である。これを聞いた者たちは一様に「何をいまさら」と失笑し、続けて語られる詳細を聞いて背筋を寒くした。


 ――殺人鬼が出た。依頼の出し方も、姿も不明だが、標的の近くにいた人間すべてが無数の刃物で抉られるようにして殺される。ただし、判別しやすいようになのか、顔だけは綺麗なまま。そして誰にも見られずに去っていく正体不明のプレイヤー。


 この殺人鬼の異常性は、凶器以外の何も明らかになっていないことである。プレイヤーの中には、諜報が専門の者や、暗殺に対する護衛が専門の者も存在している。そのうえで誰も知らないということは、殺人鬼に出会って生きて帰れた者が皆無である、ということを意味する。そこに思い至って、その噂を聞いた者は皆、青褪めた。


 ――有り得ない。

 そう、有り得るはずがない。そこまでの腕利きのプレイヤーならば、多くの勢力から注目されるために、もっと情報が集まっていて然るべきだ。それにも拘らず、いまだに詳細不明というその事実。それが最も恐ろしいことなのだ、と噂話は締め括られる。



「っくしゅ!」


 間の抜けたようなくしゃみの音が、ほとんど客のいない洒落た雰囲気の小さなバーに響いた。カウンターの向こう側で、グラスを磨いていた壮年の男がにんまりと笑って音の発信源を見やる。


 そこには、二十代前半の年若い女の姿があった。所々が跳ねていて、あまり手入れされているようには見えない黒髪を肩より少し長めに伸ばし、着ている上着も黒ければ、すらりとした脚を覆う少し大き目のズボンも黒、そして何が入っているのか、腰につけた大きなポーチも黒と、まさしく黒ずくめの女だ。


「天下の殺人鬼様が風邪かい? 鬼も病ませる風邪とは何とも恐ろしい。まったく寒気がしてきてしまう。ああまさか、もううつされたんではなかろうか」


 大仰な身振りで揶揄するようにかけられた声に、女は煩わしそうに首を振った。


「そんな訳ないでしょう。きっとこれはアレよ、誰かが私を噂しているに決まってる。それに万が一風邪だったとしても、マスターがかかる筈がないでしょうに。分かったら、早くもう一杯持ってきてよ」


 軽快に吐かれた毒を、マスターと呼ばれた男は愉快そうに受け止めて、女の前のグラスに手元のボトルから酒を注いだ。女はそれをちびちびと飲み、じとりと湿った目で彼を睨んで吐き捨てるように言った。


「……安物だね」


 マスターは何がおかしいのか、ケラケラと声を上げて笑った。


「ちゃんと金を稼いでから言えよ、この貧乏人。金さえ払えば、いい酒飲ませてやるさ」

「……お金なら稼いでる」

「だが貧乏には違いなし、っと」


 おもむろに言葉を切って、マスターは首を傾けた。何か疑問に思ったわけではない。傾けたその顔の横をナイフが通り過ぎて、後ろの壁に突き立ったのだ。小さな舌打ちが女の口から漏れる。


「おいおい、怒るなって。事実なんだし、しょうがないだろ? それに言っちゃあなんだが、キリ、お前、酒の味なんて分かんねえだろ」

「失礼ね。何を根、拠に……?」


 即座に反論してくる女に、マスターは無言で手元の酒のラベルを見せた。それは酒に疎い女も知っているほどの高級酒のものだったので、彼女の言葉は不自然に途切れた。


「まあ、お前にやったのは、確かに安物なんだけどな」


 その女の姿にニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべて、高級酒の影に隠れていたボトルをマスターは手に取って見せた。女のこめかみに青筋が立つ。その手には、いつの間にかもう一本のナイフが握られていた。


「……分かった、今すぐ逝きたいんだね。気が利かなくて悪かったよ」

「無論、俺は生きたいさ」


 ナイフを手にしてにじり寄る女に、マスターは無駄に大きく胸を張った。

 刃物を持ち出しているというのに、そこには気の置けない友人同士のような親しみがあった。キリと呼ばれた女は、そこで唐突にがっくりと項垂れた。


「お金がないのは仕方のないことなんだよ……。だって格好いい刃物がそこにあるんだもの。これは買うしかないってなってもしょうがない。うん、しょうがないよね」

「結局は自業自得だろうが、この刃物狂い。お前はいったいどこへ向かっているのやら……」


 女の言い訳をばっさりと切り捨てて、マスターはやれやれとでも言いたげに天井を仰いだ。露骨に呆れられた女は項垂れた姿勢のまま、ぼやくようにしてそれに答えた。


「勿論、私は生きたいよ」


 ◆


 人と出会ったとき、まず思うことは何だろうか。

私の頭に浮かぶのは、害意であり殺意だ。敵意は特にないと思う。人とすれ違う時、人が前を歩いている時、その身体に拳を、脚を、その首に刃物を叩きこむ想像を、止めることができない。身の回りにある道具で、如何にして人間を殺傷するかを考えることを、止めることができない。


 だが一方で、私は人に出会ったときに恐怖も感じている。すれ違う人、前を歩く人が何時、自分に害をなすか分からないと思うと、怖くて仕方がない。悪意が降りかかってくるのが怖い。次の一歩を踏み出す時に、自分が死ぬかもしれないという考えを、止めることができない。


 どちらが先だったのだろうか。他人に恐怖を感じるから殺人衝動が湧くのか、それとも人を殺したいと考えるから他人に恐怖を感じるのか。結局、自分でもよく分からないままだ。


 ただ分かっているのは、私は何も奪われたくないと思っているということ。私のモノを奪おうとする人間を許すことはできない。奪われるのが怖いし、だから排除したくなる。いつか誰かに命を奪われるのならば抵抗しよう。私から奪うことは許さない。それでも、もうどうしようもなくなるのなら、その時私は自分で自分を殺すだろう。私から奪っていいのは、私だけであるのだから。


 ◆


「……ふむ、『殺人鬼』の情報に三千万か」


 手にした端末に送られてきた情報を見て、女は息を吐いた。


「いいな、三千万……。それだけあったら、どれくらいナイフを揃えられるんだろう……」


 女がぼんやりと月を見上げると、そこには欠けることない満月が煌々と輝いていた。辺りには月光を除けば点々と立つ街灯の明かりしかなく、その明かりがむしろ、夜を一層薄暗いモノに見せている。


 ひたり、ひたりと、自身の袖から落ちる雫に目をやることなく、女は夜道を進んでいた。

目的地は分かっている。煩わしくも、恐ろしい目は既に潰した。ならば、疾く、疾く目的を達せねばと逸る心を抑えて、月光浴でも楽しむかのように悠々と歩く。


「――さあ、始めよう。私は今、生きているのだから……!」


 ひっそりと呟かれた言葉は、女以外の耳に届くことなく夜空に溶けて消え去った。


 ――目の前には一戸建ての家屋がある。目標はどこぞの会社の社長であるらしい。そういえば、この前テレビにも映っていたような……? いや知らない、知らない、どうでもいい。誰に恨まれているとか、依頼の目的とか、そんなことには興味がない。私はただ生きたいだけなのだから、それに必要のないことにまで気を配ってはいられない。だから……


「開幕だ」


 庭に面したガラス戸を切って、女はその家の中に侵入した。深夜だというのにいまだ明かりが点いている部屋があるというのは、何とも仕事熱心なことだと苦笑し、それは自分にも当てはまることだと呆れ返った。


 キッチンには洗い物をしている人影が一つ。ごく普通に歩み寄り、挨拶をするような気軽さで、その首にナイフを突き立てた。壁一面が赤く染まる。女は、倒れこむ女性の身体を抱き留めて、その顔をまじまじと見た。


「……うん。標的その一に間違いないね」


 痛みか、驚愕か、目を見開いて痙攣する女性に、女はにこりと笑いかけて、そっと床に寝かせた。その時には、女性の息は既に無い。虚ろに開いた目を閉じさせて、ゆっくりと女は立ち上がった。


「さて、次だ」


 次に開いた扉は、子供部屋に繋がっていた。二段ベッドでは幼い姉妹がそれぞれ寝ている。無言でそれを眺めた女は、一歩一歩、彼女たちに近づいて行く。その顔には笑みが浮かび、その手には雫の滴る凶器が握られている。

 そして――――


「……うん、寝顔も堪能したことだし、次に行こうか」


 ベッドの中で安らかに眠る少女たちをしばらく覗き込んでいた女は、彼女たちを起こさないように細心の注意を払って、その場を後にした。

 


 がちゃり、と扉を開ける音がして、男は振り返らずに言った。


「すまないな、まだ仕事が終わりそうにないんだ。先に休んでいてくれ」


「ふふっ、大丈夫。彼女は既に休んでいるよ」


 妻をねぎらう言葉に対して返って来た、まったく知らない誰かの声に、男は慌てて振り返った。


「やあ、こんばんわ」


 そう親しげに声をかけてくる黒ずくめの女に、男はまったく見覚えがなかった。


「君は、いったい誰だ? どうしてここにいる」


 男の問いかけに、にこやかに笑いながら女は答えた。


「んん? 私が誰、か……。哲学だねぇ、なかなか答えにくい質問をどうもありがとう。そうだなぁ、プレイヤーって言えば分かる……よね?」


 それを聞いて男は青褪めた。


「だ、誰の依頼だ。わ、わ、私を殺すのか⁈」

「知らないし、その通りだと答えよう! ……で、は、正解者にはぁ――」


 にこにこと嬉しげに、楽しげに笑いながら近づいてくる女の顔が、もはや男にとっては悪魔の嘲笑か、死神の微笑みにしか見えなかった。


「――安らかな眠りを」


 首に一瞬熱が走ったかと思うと、視界が真っ赤に染まって、男の意識はそこで途切れた。



「これにて閉幕……」


 赤く染まった書斎で、女はぽつりと呟いた。そして、やや伏せていた目を上げたかと思うと、真っ赤に染まった両手を広げた。


「では、役者の方々に花束の贈呈を。なんてね」


 おどけた様子でそう口にすると、書斎までの来た道を戻っていく。管理が行き届いていたのか、埃一つなかった廊下には、今は深紅の染みが点々と落ちている。


「大丈夫、寂しくないよ。みんな一緒だから」


 子供部屋の前まで戻って来た女は、やはりにこやかに笑っていた。



 夜道を歩く。一時の高揚が抜け落ちて、虚ろになっていくのを女は感じていた。それは彼女にとってはいつものことで、そして一向に慣れることができない感覚だ。袖から滴る雫は、ひたり、ひたりと落ちていく。


 そんな時にいつも考えるのは、己のことである。自分のしていることを善悪で見れば、間違いなく誰もが悪だというだろう。しかし女はそれを鼻で笑う。善悪なんて多数決の結果にしか過ぎないし、常識なんて誰かが決めた多くの人が快適に過ごすための柵でしいかないのだからと。『常識』的に考えれば、『善』とは結局社会のためになることであり、そして自分のための行動で、つまりは利己だ。誰も彼もが自分のために行動しているならば、誰にも自分を止める権利など存在していない。彼女はそう信じていた。


 不意に気が付くと明かりに照らされて、足元に女のモノではない影が伸びていた。


「そちらは名うてのプレイヤーと見受けられるが、どうか?」


 足を止めた女の背後から、深く静かな声が響く。


「そういうそちらこそ、相当な使い手だと思うんだけどなぁ」


女がゆっくりと振り返ると、目の前にはタキシードを着こんだ、女より一回りほど年上の男の姿があった。


「……『業』をお聞かせ願いたい」


 女が問い返したのを肯定と見做したのか、男はプレイヤーとしての名でもあり、自身が誇る殺人方法でもある『業』を女に尋ねた。


「そうだね……。私は『人斬り』だよ。最近では『殺人鬼』なんて渾名がついたけどね。……そちらは、たぶん『吸血鬼』さんだよね」

「然り」


 男――吸血鬼は静かにうなずいた。それをじっと見つめる女――人斬りは続けて問うた。


「何用かな?」

「知れたこと……。貴様の命を頂きに参った」


 ぞわり、辺りの温度が急激に下がったような感覚。それに相対する人斬りは、何事もないかのように飄々としている。


「誰の依頼だ、なんて聞かないよ。私の情報はどこから手に入れたのかな」

「貴様が行きつけていたバーのマスターが吐いた。なかなか強情だったがな」

「ふーん。それで、マスターは?」

「生かしておく理由もない」

「そっか」


 あまりにも軽い人斬りの対応に、吸血鬼はやや眉をしかめた。


「何も思わんのか?」

「どうして?」


 人斬りは、何を言っているのか分からないというように首を傾げた。


「だって、マスターは死んでないから」


 吸血鬼はまるでおかしなことを聞いたかのように失笑すると、一枚の写真を人斬りの方に投げた。


「それでも死んでいないと?」

「ふふっ」


 写真を一瞥して投げ捨てると、今度は人斬りがおかしなことを聞いたと言うように失笑した。


「殺すだの死んだだの、馬鹿みたい。あなたは誰も殺せていないし、今夜は誰も死んでいない。だって、初めから誰も彼もが生きていないのだから。それならば死にようがないでしょう? 居ても居なくても変わりが無いようなモノを、生きているだなんて形容できるわけがない。だって居ても居なくても違いはないのだから。例え話をしてみましょう。あるところに誰かが居た。誰か、誰か、誰か。私たちは所詮『誰か』に過ぎないんだよ」


 両手を広げて、まるで歌い上げるように人斬りは語った。


「……戯言を」

「……本音だよ」


 吸血鬼は、馬鹿馬鹿しいことだと笑って頭を振った。


「分からぬことを。ならば今ここにいるモノは何だ? 心臓が動いて、思考を回し……、これを生きていると言わずになんと言う?」

「ふむ。それは『私』であり『貴方』だ。ただそれでも、分かりやすく言えば、私たちは数字の一に過ぎないんだよ。大きな数の中の一だ。一という数字がいくら並んでいても、そこに個性なんてものは見受けられないでしょう?」


 語る、語る。まるで話すのが楽しくて仕方がないかのように、人斬りは己の思想を語った。


「『自分である』なんて、誰にも証明できない。自己の認識は所詮主観だし、客観だなんて言ったところで、それも誰かの主観に過ぎないんだから。『私』が居たことも『貴方』が居たことも、時間が経てば何もかも忘れ去られて、結局居なかったことと同じになる。数字が入れ替わるだけになる」


 そこで、饒舌だった人斬りがピタリと停止した。そして俯き頭を抱えて、耐えきれないと絶叫する。


「ああ、許せるものか! 『私』は私だ! 今ここにいる私なんだ! 有象無象じゃない、確固とした私を切り離し、斬り離す! 私は『人斬り』だ!」


 吸血鬼は、その顔にわずかな笑みを浮かべた。先程までの牙をむくようなものではない、人間としての、僅かに感心したような笑みだ。


「異常な思想、異端な考えではあると思うが……。丁重な名乗り、痛み入る。私の名は『吸血鬼』。他者を妬み羨んだ矮小な存在が願った完成形。隣の芝生が青しと言うなら、其処も我が領土と化せばいい。血こそその人間の証明故に、無限に血を取り入れ、入れ替えて、新生し続ける鬼……。それが私だ」


 視線を交わす。もはや言葉は要らない。さあ、殺し合おう……!

 そう口にしたのはいったいどちらだったのか。二人のプレイヤーは同時に前に踏み込んだ。人斬りの両手には、人を斬ることだけを追求したような質素で無骨なナイフが、吸血鬼の両手には、腕の長さと同程度の短い槍のようなものが握られていた。


 常人を超えた速さで接近した二人の間に、金属音と共に二度の火花が散った。そして次の瞬間には、人斬りが飛び退って距離を取り、吸血鬼はさらに踏み込んで彼女を逃がさない。短槍二閃。吸血鬼の突きが、月光を反射して鈍く光った。対する人斬りは、手にしたナイフを振るってそれを打ち払う。


 手にする獲物の射程が短い人斬りが相手の懐に飛び込まないのは、彼女の直感にあった。そもそも彼女の情報を得ているならば、何らかの対策を立てていて当然。そのうえで、懐に入られれば扱いづらい短槍で攻めて来るというのは、明らかに何かありますと言っているようなものである。虚か実か、それを見極めていたのだった。

 さらに数合打ち合い、人斬りのナイフが吸血鬼の槍を弾いた。同時に彼女の袖から、赤い雫が吸血鬼の目に飛び込む。


「くっ!」


 目を閉じて、腕を広げて隙を晒した吸血鬼に、人斬りは最小の動きでその懐へと飛び込む。


「……づぁっ!」


 間合いに入った瞬間、人斬りは、吸血鬼の身体から弾かれたように吹き飛ばされた。そして二転三転、地面を転がって、勢いそのままに立ち上がると、してやったりと笑顔を見せた。


「なるほど、蹴りか」


 思わずといったように漏れた人斬りの言葉に、吸血鬼は今にも舌打ちしそうな顔つきで、ゆっくりと脚を降ろした。


 先程、飛び込んだ人斬りは、吸血鬼の蹴りによる逆撃を受けた。しかし、何かあることを予測していた彼女は、咄嗟に後ろに飛ぶことでその衝撃のほとんどを無力化し、無傷で相手の情報を手に入れることに成功していた。


 受けた蹴りからは、相手の膂力や速力、反射速度や間合いなどを読み取り、対策を立てることができる。それ故の笑顔であるし、それ故の苦り顔であった。


 ――物語の『吸血鬼』と言えば、その膂力に着目されていることが多いけど、この吸血鬼は速さが売りなタイプかな。脚力を生かして速度の乗った突き……。となると、もう一枚の切り札は、あの槍にあると思うんだけど……。見た目よりもずっと軽い槍、それが何を意味するのか、もう少し確かめてみよう。


 人斬りが吸血鬼の情報を得たように、吸血鬼もまた先の衝突から彼女の情報を補強していた。


 ――もとより、女が力を主にするはずがないと踏んではいたが、それでも驚愕に値する瞬発力に判断力、柔軟性だ。私の蹴りを無傷で躱したのは、予測されていたと見るべきだろうか。真に恐ろしきは『殺人鬼』、否、『人斬り』としての性質だろう。逆撃を予測しつつも、それが無ければ致命傷を負わせる行動を迷わず取る……。もう少し様子を見なければならないな。


 期せずして、思考の一致をみた二人は再び激突した。どちらも相手の持つ手札の枚数と、その威力を探り合っている段階だ。身体も思考も高速で回って、夜の暗闇に赤い火花が弾ける。くるくると踊るようにぶつかる二人は互いにいまだ無傷だが、持久戦になれば人斬りが不利になるということはどちらも理解していた。

 短い呼気とともに銀閃が奔り、それを迎撃するために腕が振るわれる。両者が高位のプレイヤーだからこそ成り立つその拮抗は、吸血鬼の一撃によって破られることになった。


 吸血鬼は、脚をより深く曲げてアスファルトを蹴る。そして滑るような移動と同時に、力のすべてを脚へと伝えた。

 ――人斬りには十分に学習させる時間をやっただろう。ならば今こそ勝機。我が全力を持って貴様を穿とう……!


 人斬りの目から見ても、霞むような速さで吸血鬼の蹴りが放たれる。しかし所詮は人体。直前の動きを見落とさなければ、どこに来るかなど一目瞭然とばかりに、人斬りは適切な距離を見切ってそれを躱した。

 勝機を確信して、人斬りの口が深い弧を描く。吸血鬼の腕は、蹴りの反動のためか後ろに回っている。何よりもこの位置は、吸血鬼の持つ短槍の間合いの半歩外。ここから一息に間合いを踏破し、あとは慣性によって流れた身体に刃を差し込むのみ。短槍での迎撃は間に合わない。


 二つの影がぶつかり合って、一方の影が大きく弾かれる。

 そして、道路に赤い飛沫が飛び散った。


「っづぅぅ、ぐ、あ、あ、あぁああああああっ!」


 路上に響く女の声。肩を抑えて人斬りは絶叫した。彼女の肩には一本の槍が突き立っており、それは彼女の肩を貫通して、近くの塀に人斬りの身体を縫い留めていた。


「うぁ、うぅ、まさか、そんな仕掛けがあるなんてね……。二本を突然一本にされたら、間合いなんて測り様が無いよ……」


 息も絶え絶えに人斬りはそう口にした。


「それに、中が空洞だ……。血が止まらない悪趣味な武器だね……」


 それが吸血鬼の武器であった。つまり彼は二本の短槍使いではなく、一本の槍を半分にして使っていたに過ぎなかったのだ。全力の蹴りにも見えたそれは、その実、踏み込みであり、本命は、身体の影で隠して元に戻した槍による全力の一突き。しかも傷口を埋めて出血を抑えるはずの槍は空洞であり、特殊な仕掛けでも施してあるためだろうが、まったくその役目を果たしていなかった。


 直前になって嫌な予感から身を引かなければ、今頃この槍は自分の心臓を穿っていたことだろうと、人斬りは心中で思った。


「……我が全力を躱したか。やはり恐ろしいな、貴様は」


 言葉とは裏腹にまったく表情を変えず、吸血鬼は片手で槍を握った。するりと、槍の半分が引き取られて、人斬りを縫い留めるものはそのままに、吸血鬼の手には短槍が再び握られる。対する人斬りの手には既に何もない。二本のナイフは吸血鬼の背後の地面に虚しく落ちている。


「では、その血を頂くとしよう」


 口角を上げて、まさに吸血鬼のようになっている牙を見せつけながら、男は女へと近づいて行く。


 『吸血鬼』とは、殺した相手、もしくは殺す相手の首に牙を突き立て吸血し、失血死させるという『業』である。失血の槍も血を奪い、相手の動きを鈍らせて、確実に吸血するための道具に過ぎない。


 人斬りは片腕を槍で縫い付けられて、もう片方の腕もたった今抑え込まれた。指と指を絡めるように握られて、塀に押し付けられている。そしてついに、彼女の首筋に吸血鬼の吐息がかかる。次の瞬間には、吸血鬼の牙は彼女の首の皮膚を破って動脈に穴を穿つだろう。嫌悪感からか、人斬りは、抑え込まれたままの手を強く握り締めた。


「ぐおぁっ!」


 握られて、突き立てられた爪によって鮮血を流しつつ、吸血鬼の手が離される。

 そして、解放された人斬りの手が、その指が、吸血鬼の首に添えられて、爪から僅かにはみ出すように仕込まれていた薄い刃が、彼の頸動脈を切り裂いた。


「あぁ……? あ、あ、ぐぅぁ……!」


 首から血を吹きだして、いったい何が起こったのだ、という顔をしながら、吸血鬼は地面に崩れ落ちた。


 『人斬り』は偏執的なまでの刃物狂いである。行く先々で気に入った刃物があれば収集して、いつだって貧困に喘いでいる。そして、買った刃物は使わなければ意味がない、という考えから、そのすべてを常に持ち歩いている。大振りで無骨なナイフは袖に、細く鋭いナイフは襟に、という具合に、その全身に刃物を仕込んでいる。さらに、ある時彼女は考えついた。――手刀とは切れなければ意味がない、と。そして自身の爪に薄いカッターのような刃を張り付けた彼女は、これぞまさしく手刀であると気分良く頷いていて、マスターに心底呆れられたのだった。


「くはっ、油断、大敵ってね……」


 力なく笑った人斬りは、痛みを堪えつつも自身を縫い留める槍を引き抜くと、いまだに痙攣している吸血鬼の心臓めがけて、その槍を突き刺した。


「本当は、もう一本も持ってきて十字架を作ってあげたいところだけれど……。ううぅ、血が足りなくて眩暈がしてきた」


 残念そうに首を一振りした後、ややふらついた人斬りは、腰のポーチから必要なものを取り出して応急処置をしながら、ふらりふらりと薄暗い夜の中を去って行った。


 残されたのは串刺しにされた肉塊と、点々と続く赤い雫の跡だけ。それすらも、日が差し込むまでには綺麗に消し去られていた。

 


 青い空に白い雲。そんな典型的な『晴れ』を見上げると、なんだか自分があやふやになっていくような不安感と、あいまいな既視感に苛まれることがある。このどこかで見たような空から見れば、私はなんて小さな存在なのだろうか。私も誰かもまったく違いはなく、居ても居なくても変わらない小さな点にしか過ぎない。

 

何処かの写真の中で、イラストの中で、映像の中で、ゲームの中で、見たことのある青い空。私の頭にはいつの間にかそれが焼き付いていて、空を見上げた時に浮かび上がってくるのだと思う。だから空を映す視界に、こんなにも見覚えがある。こんなにも現実感がない。


 自分のことは見えないから、自分の手足だと思っているモノでさえも現実感が薄れて、何処か虚構の中のモノに見える。これが画面の中のモノではないと、どうして分かるのだろうか。ある筈の触覚はあやふやになって、「感覚は最終的に脳で判断されるモノなのだから、手が感じるというのもおかしな話だ」という考えも浮かんでくる。


 なんて、見上げた空が、まさに『青空』だったからそんな感傷を抱いた。


 ◆


 ――誰もが互いを知らなくて、誰もが互いを気にかけてなんかいないのに、ただ、ただ同じ方を向いて、同じように歩いていく。そこに違いはあるのかな?

 たとえ誰かが道をそれても、それでも人は流れてる。たとえ誰かがはぐれても、やっぱり人は流れてる。

 一人が消えても誰かはいる。誰かが消えても誰かはいる。

 誰かにとって大切なものも、私にとってはどうでもよくて。私にとって大切なものも、誰かにとってはどうでもいい。

 だから世界は平等で、天は人の上に人を創らず。何もかもがきっと本当は無価値。

 歩道橋の上から見下ろす私は、下を流れる人々よりも神様に近いけれど、それでもやっぱり無価値で。

 何処の何の誰それも、違いなんて結局無い。


「……なんてね」


 これ以上ないほどの快晴を示す空から目を背けて、女は一人で歩道橋の端に寄りかかっていた。下を見ると、ちょうど通勤ラッシュの時間だったのか、歩道の上を一部の隙間もないほどに埋めつくして人々が歩いていた。


「……何処の何の誰それも、違いなんて結局無い」


 女はぼんやりと呟く。それは多量のやるせなさと少量の諦めを持って虚空に溶けていった。


「――へぇ? 俺とお前じゃあ、明らかに違うと思うんだがなぁ。……ああ、目が鈍ったのか、キリ?」


 後ろからかかった、馴染み深くも憎たらしい声に、女――人斬りは、振り返らずに笑った。


「アンタが理解できるなんて、端から期待してないよ」


 それもそうだと、後ろの声も笑っていた。


「誰かが誰かを理解しようなんて、所詮は幻想だからな。……それにしてもまったく、アンタはないだろ、アンタは。マスターと呼べ」


 そこにはいつものように、掴みどころ無く飄々とした『マスター』がいるのだろう。


「店もない奴が何を寝言こいてんの?」


 だから人斬りも、いつものように軽快な毒を吐く。


「馬鹿だな、キリ。もう店は調達済みなんだよ」

「身代わりと一緒に? 準備が良いことで」

「結構なことだろう?」


 まったくだ、と軽口を返してその場を後にする。ちらりと目の端に映った男は、歩道橋の反対側に寄りかかって、こちらに背を向けていた。


「なあ、お前の目的は何だ?」


 ふと、立ち去ろうとする人斬りの耳に小さく問いかけが聞こえた。


「勿論、私は生きたいよ」


 即答して、そちらはどうだと言外に問う。


「勿論、俺は生きてくよ」


 互いの言葉は耳に届かないほど微かなものだったが、何を言ったのかは伝わっていた。

だからその後に呟く言葉は、きっと同じだったのだろう。


「「何を言ってるんだか、この異常者め」」

 

 そして、緩んだ頬を自覚しないままに二人は別れた。


見上げた空が、今日は何処か違う姿をしているように思えた。

 

 

 今日もどこかで人が死ぬ。犯罪が消えることはない。生きたい、生きたい、生きたいと、殺人鬼の哀歌は流れ続ける。



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