桜が散ったのは去年の冬のことでした
「わたしゃあ、世界で一番桜が嫌いだよ」
とある小さな港町の丘の上。立派な一本桜を梅さんが眠たげな目で見上げる。桜の前に来て波が十五回ほど打ち寄せてから三回目になる梅さんの言葉に「そうなんですか」とこれまた三回目になる答えを返す。梅さんは手に持ったお気に入りの赤色の杖で足元にあった桜をちょいちょいと少し押す。くすぐったそうに身をよじって桜が浮いた。梅さんはそんな様子を目の端でとらえてから車いすに身を沈めてまた、桜を見上げた。白く薄い髪が桜の桃色と調和して僕の目の前を穏やかに彩る。
「ほんとうに、なんで桜なんて見なくちゃいけないのさ。腹立たしいねえ」
とげとげしい文句のわりに、梅さんの丸まった背中は熱をもってはおらず、「桜が嫌い」というのはもはや口癖になっているだけなのだろう。その証拠に、老人ホームの中に戻りたいとは言ってこない。
「なんででしょうねえ」
風に乗せるように呟く。梅さんは僕の相槌などどうでもいいのか桜を見上げたままだ。
「桜はね、わがままなのさ。わがままでどうしようもないの。」
鮮やかさを僅かに失いくすんでしまった桜の花びらが僕の顔の右を通り過ぎる。
「自分勝手で。ほんとうに嫌いだよお」
風が強くふきつけ、弱弱しく咲いていた一部の桜が一斉に僕らを覆う。梅さんは舞いあがった桜を少し見て、目を閉じる。
「腹立たしい」
目には映っていないだろう桜に梅さんは文句を言い続ける。もしくは脳裏に浮かぶ桜に文句を言っているのだろうか。
「嫌いだよお」
それは、桜の花がですか?
それとも、あなたの亡くなった姉の桜さんがですか?
なんて、いじわるな質問はしない。僕も大人だ。
「きれいですねえ」
車いすの持ち手に肘をつき、揺れる白髪に呟く。桜の木が二、三度左右に揺れてから、
「……まったくだよ」
と、梅さんは小さく笑った。
桜の笑う声がして、僕も小さく笑みを返した。