叶わない想い
天上に近い、雲の上。天へ昇ろうとしている死者達を地獄へ堕とそうと下級悪魔達が躍起になっているが、天使達に阻まれ思い通りにいかない。
天使達との小競り合いはいつものことだったが、今回は大天使長まで来ている。収まるまで時間がかかるだろう。いつものように他に任せておけば良かったと思うが今更遅い。
「ルシフェル様」
ベリアルの使い魔が翼をばたつかせながら慌てた素振りで寄ってきた。
「ミカエルがあちらで交渉したいと」
指差す方向には、金の髪が太陽の光を受けて眩く輝いている天使の姿。純白の六枚翼は大天使長の証。
「他の者は連れず、一対一でと言っています」
「応じよう」
ルシフェルは己の翼を広げた。かつては大天使長だった堕天使の背には、ミカエルと同じ六枚翼。ただし純白の翼は右翼の三枚のみ。残りは堕天したとき漆黒の闇に染まった。
途中、天使達が剣を掲げて迫ってくるかと思ったが、大天使長と堕天使を遠くから取り囲み剣を構えているのみだった。
「久しぶりだね、ルシフェル」
「大天使長自らお出ましとは」
「魔王が来るからには、こちらも相応の対応をしないとね」
ミカエルはふんわりと優しく柔らかな微笑みを浮かべる。以前と変わらない穏やかな眼差し。
「そろそろ退いてもらえないかな?」
「……」
「こんなことが貴女の目的とは思えないけれど?」
「それは頼み事か?」
「警告だよ」
「話にならん。死者を半分連れていく」
「十分の一」
「三分の一」
「八分の一だ。それとも戦をする方がいいのかな?」
ルシフェルはくつくつと笑った。
「大天使長が魔王と取り引きか。あれがそれを許すとは思えんが」
「そうだね。でも私は、自分の半身と再び剣を交えることは避けたい」
真っ直ぐな視線がルシフェルに向けられる。
「……私は、出来ることなら貴女に天上へ帰ってきて欲しいんだけどね」
堕天して以来、何度もかけられた言葉。だが、返す言葉はいつも同じだった。
「あれが赦すはずがない」
「私も貴女と共に赦しを請うよ」
「私が愛しているのはお前だ。あれではなく、お前を選んだから私は堕天し、あれは嫉妬と怒りで私をこんな姿にしたのだ」
「そんな風に言うものじゃないよ。あの方はかつての貴女の美しい姿を少しでも残そうとされただけだ。貴女はあの方の一番のお気に入りだったからね」
「お前はあれの愛を都合よく解釈しているだけだ」
堕天使は燃えるような怒りを湛えた瞳で大天使を見返す。
「あれは、自分だけを敬い愛してくれる者しか愛さない。偽りの愛と慈しみしか持ち合わせていないのだ。
全てを愛せと私達に言いながら、あれが愛しているのは己自身と、己だけを盲目的に愛する者達だけ」
堕天使は、遠く天高いところにそびえ立っている天上の門を眩しそうに見上げる。
「大天使にのみ自由意思が与えられた。誰かに強制されるのではなく、自分の意思で、己を敬い愛してくれる者があれには必要だったからだ。
だが失敗した。お前はあれを愛したが、私が愛したのはお前だった」
熾烈を極めた戦いで、神の軍列の先頭に立っていたのはミカエルだった。戦いのラッパが鳴り響く中、ルシフェルとミカエルは激しく剣を交わした。互いの瞳は困惑に満ち、戸惑い、揺れていた。
戦いが終わり、地の底へ堕ち、気付いたときにはルシフェルの全身は闇に染まっていた。ただし、片翼を除いて。
堕天する前の姿を残していた者はルシフェルの他には誰もおらず、共に堕天した者は皆、全身が闇に染まるだけではなく、姿形まで変わり果てていた。
天上へ帰ることはできず、地の底では神の慈悲を受けたとして堕天使達にも受け入れられなかった。それでも魔王と呼ばれるようになったのは、べリアル達を力でねじ伏せてきたからだ。しかし、それもいつ反旗を翻されるかはわからない。
「私には、あれを敬い愛することは出来ない。赦しを請うつもりもない」
ルシフェルはミカエルを振り返る。美しい自分の半身は、今では神に準じる者と呼ばれるようになった。
「お前があれを捨てることが出来ない以上、我々は違う道を行くしかない」
ミカエルの頬にそっと手を触れようとして、触れる直前で躊躇する。己の半身を切ない瞳でじっと見つめた後、堕天使は伸ばしかけた手を下ろし、踵を返した。
「……もう行く。次に会うときは剣を交えることになるだろう。
お前も、あれを敬い愛するならば、私に慈悲をかけてはならぬ」
ルシフェルは翼を広げ数度大きく羽ばたかせると、ミカエルを振り返ることもなく、そのまま雲の上から下界へ滑るように堕ちていった。多くの悪魔達が一斉に飛び立ち後に続く。
熾天使達が追撃を加えようと飛び立っていく。他の天使達も慌ただしく周囲を飛び交っている。ミカエルはただ黙って堕天使の姿を目で追い続けるだけだった。
すべての天使が辺りを離れるまで、どれほどの時間が経っただろうか。戻って報告せよとの神からの伝令を下級天使が伝えに来たが、ミカエルはそれを適当に追い返した。
辺りは静寂に包まれている。大天使は周囲に誰もいないことを確認し、背中の六枚翼を大きく広げた。
「……しようがない方だね」
六枚翼の左中翼には、純白の羽に紛れて漆黒の羽があった。
「私も貴女を愛しているよ。貴女の心に触れる度、私の心は貴女を求め、羽が闇に染まる……」
ミカエルは漆黒の羽を一本一本抜いていく。丁寧に、丁寧に。
「……貴女の言っていることは、多分正しいのだろうね」
ルシフェルが天に帰る日はきっと来ない。それを赦すことは、神ではない他の何かを敬い愛することを認めることになる。
自分が堕天しないでいられるのは、神を敬い愛する心で己が満たされているからだ。それでもルシフェルの心に触れたときだけは心が揺らいでしまう。
「まったく、嫌だねぇ……」
羽を抜いてごまかしていることさえ神には知られている。罰を受ける時はいずれ来るだろう。
それでも大天使長は願う。かつての大天使と共に神の御前に立って、互いが愛に満たされた日々を過ごせるようになることを。
ミカエルは再度翼を大きく広げた。黒い羽はもう無い。
遠く天高いところにそびえる天上の門を見上げる。ミカエルにはそれが、自分とルシフェルとの間にあるあまりにも大きな壁に見えた。
あの大きな門の向こうでは神を讃える天使達の歌声が常に響き合い、愛と優しさに満ち溢れているのに、ルシフェルの堕ちていった地の底には嫉妬と怒り、憎しみと罵声に溢れている。
神を讃えることが出来なくても、かつてのように共に安らかな時間を過ごすことが出来れば……。そう願うことすら赦されないのなら、神が大天使に与えた自由意思とは一体何なのだろう……。
大天使長は深いため息を一つ吐くと、六枚翼を大きく羽ばたかせながら天上の門へと向かっていった。