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同じ本棚に並ぶまで

作者: 國村城太郎
掲載日:2026/05/22

   第1話 雨の日、上巻の彼と下巻の私



 窓の外の雨を眺める。

 こんな日はいつも、私はカウンターの内側にある小さな本棚に目をやってしまう。


 上巻だけのその本、これと出会ったのは、こんな薄く煙る日だった。

     *


 ある日の仕事帰り、駅へ向かっていた私は、途中で急な雨に降られた。天気予報では曇りだったはずなのに、細い雨粒が歩道を叩き始める。


 その日はあいにく傘を持っていなかった。これ以上強くならなければと、私は天を仰いだ。


 走れば駅まで行けない距離ではないけれど、鞄の中には、借りていた本が入っていた。これを濡らすわけにはいかない。私は目についた古いビルの軒先へ駆け込み、その一階にある古書店の扉を押した。


 扉の上で、小さな鈴が鳴った。


 雨の日の古書店は、普段と違い湿った紙の匂いが満ちていた。


 時間がある時に古書店を見かけると、私は必ず立ち寄るようにしている。

 

 その理由は一つ、好きな作家の本を探していたからだ。


 どうしても手に入らない上下巻の小説、それをずっと探していた。


 濡れた髪を軽く払ってから、私はいつもの棚へ向かった。文芸の棚の下段、奥まった場所。そこに、その作家の本が何冊か並んでいる。


 今日もないだろう。


 そう思いながら背表紙を目で追って、私は息を止めた。


 あった。


 棚の奥に、ネットで見たことのある装丁が二冊、ぴたりと並んでいた。色あせた背表紙。少し角の潰れた函。けれど間違いない。ずっと探していた本だった。


 しかも、上巻と下巻がそろっている。


 雨の音が遠くなった。


 私は鞄を抱え直し、棚へ手を伸ばした。


 その瞬間、横から別の手が伸びてきて、本の前で私の指先と、その人の指先が、ぶつかった。


 乾いた指先だった。私のものよりほんの少しだけ温かい。触れたのは一瞬で、ぶつかった、と言うほどでもなかったのに、なぜか手を引くのが少しだけ遅れた。


「あ」


 顔を上げると、そこに一人の男性が立っていた。年齢は私と同じくらいだろうか。濃い色のコートを着て、片手に畳んだ傘を持っている。


 眼鏡が曇っていた。


 外の雨と店内の湿気のせいだろう。彼の眼鏡は白く曇り、目元が少し見えにくくなっている。


 私は一瞬ハンカチを思い浮かべたが、初対面の相手に差し出すほど大胆ではなかった。


 先に声を出したのは彼だった。


「その本、僕が先に見ていました」


「手を伸ばしたのは、私が先だったと思います」


「見ていたのは僕です」


「見ていただけなら、まだ買っていません」


 彼は少し黙った。


 曇った眼鏡の奥で、たぶん眉をひそめたのだと思う。


「後から来たのはあなたですよ?」


「はい。ですが、先に手を伸ばしたのは私です。だから譲ってください」


「同意したのに、結論だけおかしくないですか」


「おかしくありません。私もずっと探していたんです」


「僕もです」


 二人の手は、まだ本から離れていなかった。


 でも私は引けなかった。


 この本だけは、ずっと探していた。何度も探し、見つけては状態や値段に諦めてきた。ようやく目の前にそろって現れた上下巻を、はいそうですかと譲ることはできなかった。


 彼も同じらしかった。


「あなたも、この作家が好きなんですか」


 私が聞くと、彼は少し迷ってから首を横に振った。


「好き、というほど読んでいるわけではありません。ただ、この本は昔、祖母の家にありました」


「お祖母さまの?」


「はい。祖母が好きだった本です」


 彼の声は、口論していた時より少し低くなった。


 私は本をつかむ指に力を入れたまま、言葉を失った。


 それは、ずるいと思った。


 思い出の話をされたら、こちらが悪者みたいになる。けれど彼が悪いわけではない。大切な理由があるのは、むしろ当然だった。


 でも、私にも理由はあった。


「私は、この作家の本を集めています」


 私は言った。


「これ以外の本は集めました。でも、この上下巻だけ手に入れ損ねていて。ずっと探していました。だから、私も譲れません」


 彼は少し困ったように黙った。


 私も黙った。


 本棚の前で、二人とも一歩も引かなかった。


「……店の中で、揉めるのはやめてもらえるかな」


 横から声がした。


 振り向くと、店主が帳場の奥からこちらを見ていた。白髪まじりの髪を後ろへ撫でつけた、細身の男性だった。何度か会計をしたことはあるが、長く話したことはない。


 店主は呆れたようにため息をついたが、目元は少し笑っていた。


「どちらも譲る気はなさそうだね」


「ずっと探していたんです」


「僕もです」


「うん。だから揉めているんだろう」


 店主は棚から二冊を抜き取った。私と彼の手が、同時に空になる。


「では、両成敗」


 そう言って、店主は上巻を彼に、下巻を私に差し出した。


「今日は片方ずつ持って帰りなさい」


「え」


「それでは読めません」


 私と彼の声が重なった。


 店主は平然としていた。


「読めないなら、また会って交換すればいい。ここに来れば、少なくとも私はいる」


「でも、上下巻が別々になるのは」


「本は逃げないよ。君たちは何度かここで見たことのある顔だ。また来ることはできるだろう?」


 その言い方が妙に落ち着いていて、私は反論の言葉をなくした。


 彼も同じだったのか、黙って上巻を見下ろしていた。曇っていた眼鏡は少しずつ透明になっていた。

 

 曇りが引いてようやく見えた彼の目は、思ったより穏やかだった。けれど、譲る気のなさだけは確かにそこにあって、私は返す言葉をなくした。


 諦めたのではない。ただ、ここで意地を張っても本は揃わない。それは分かっていた。


 私は店主の方を向いた。


「わかりました。今日はそれでいいです」

 

 唖然としたような顔をした後、渋々といった表情で彼も事態を受け入れた。


 彼が上巻を買い、私が下巻を買った。


 会計を終えたあと、店の入口近くで、私たちは少し気まずく向かい合った。外の雨は弱くなっていたが、まだ細く降り続いていた。


「交換するためには、連絡先が必要ですね」


 彼が言った。


「本のためですからね」


「もちろん。本のためです」


 念を押すように言い合ってから、私たちはスマートフォンを取り出した。


秋月(あきつき)、です。秋月透(あきつきとおる)


春木舞(はるきまい)です」

 

 私たちは、それぞれの名前を登録した。


 店を出る頃、雨はほとんど上がっていた。


 彼の眼鏡は、また少しだけ曇っていた。私は鞄の中のハンカチを思い出したが、やっぱり差し出さなかった。


 代わりに、下巻を鞄の奥へ入れた。


 まだ読めない本。


 上巻は彼の手にある。


 下巻は私の鞄の中にある。


 一冊の本は、雨の日に二つに分かれた。




   第2話 交換できない再会


 彼から最初の連絡が来たのは、あの雨の日から三日後のことだった。


『秋月です。上巻の件ですが、読み終えるまで少し時間がかかりそうです』


 私は鞄の中の下巻を思い出した。買った日からずっと、下巻は鞄に入れたままだった。持ち歩く意味はないのに、置き場所を決められずにいた。


『私もまだ読んでいません』


 そう返すと、すぐに既読がついた。


『下巻からですからね』


『逆だったらよかったのにと、後悔してます』


『そうですか、ごめんなさい』


『それなら早く読んでください』


 画面を見ながら、私はそうお願いをした。


 その日の夜、私たちは次の休日に会う約束をした。目的はもちろん本の交換、ということになっていた。


 けれど本当に交換できるのか、私は少し疑っていた。


     *


 待ち合わせ場所は、古書店から角を曲がったところにある、喫茶店だった。


 入口の木製の扉には小さなベルがついていて、窓際には観葉植物が置かれている。流行のカフェというわけではなく、古くから営業してきた純喫茶という雰囲気だった。


 私が店に入ると、秋月さんはすでに奥の席に座っていた。


 今日は彼の眼鏡は曇っておらず、穏やかな眼差しがはっきりと見えていて、こちらを見つめていた。


「お待たせしました」


「いえ、僕も今来たところです」


 定番のやり取りを済ませると、私は向かいの席に座った。鞄から下巻を取り出し、テーブルの上に置く。


 彼がこちらの目をまっすぐに見つめてくる。それが何か気恥ずかしくて、私は視線をテーブルの方に向けた。


 上巻と下巻が、三日ぶりに並んでいる。


 それだけなのに、少しだけ落ち着かない。


「では」


 秋月さんが言った。


「交換しますか」


 私は下巻に手を添えたまま、彼を見た。


「読み終えたんですか」


「まだです」


「ではまだ交換できないじゃないですか」


「春木さんは?」


「読んでいません」


「下巻からですからね」


「だから読んでいないんです」


 秋月さんは、少しだけ笑った。


「下巻だけ持って帰ったので、下巻から読む方なのかと思っていました」


「そんな変わった人間ではありません。変人扱いしないでください」


 抗議したのに、彼の表情が笑っていて、私もつい笑ってしまった。


「ごめんなさい」


「笑ってしまったので、許します」

 

 そこで店員が水を置きに来たので、私たちは一度黙った。


 私はブレンド珈琲を頼み、秋月さんも同じものを頼んだ。注文が終わると、彼は上巻の表紙に視線を落とした。


「この本、ずっと探していたんです」


「お祖母さまの家にあったんですよね」


 秋月さんはうなずいた。


「祖母は本が好きな人でした。家に古い本棚があって、そこにいろんな本が並んでいたんです。この本も、その中にありました」


「読んだことは?」


「ありません。子どもの頃の僕にはまだ難しくて、表紙だけ覚えていました。祖母は何度も読んでいたみたいで、背表紙がかなり傷んでいて」


 彼は懐かしむように、上巻の角を指先でなぞった。


「大人になったら読もうと思っていました。でも、祖母が亡くなって、家を整理した時にはもうなくなっていました」


「それで、探していたんですね」


「はい。祖母が好きだったものを、ちゃんと知っておきたかったんだと思います」


 祖母への想いがにじむ口調に、私は何も言えなくなった。責められているわけではない。ただ、彼も本当にその本を大切にしているのだ。


「春木さんは?」


 今度は秋月さんが聞いた。


「どうしてこの本を?」


「私は、その作家のファンです。推しというやつですね」


 その推しという言葉に秋月さんが軽い笑顔を見せる。


「ほかの本はもう集められているとおっしゃってましたか?」


「はい。最初に読んだのは大学生の頃でした。ちょうど何をしても上手くいかない時期で、たまたま手に取った一冊に救われたというか」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。


「そういう本は、あると思います」


 秋月さんのその言葉が自然だったので、私は続きを話せた。


「それから少しずつ集めました。新刊で買えるものは新刊で、絶版になったものは古書店や通販で。でも、この上下巻だけ、どうしても手に入らなかったんです」


「これが最後のピースというわけですね。それは欲しいですね」


「はい、そうです」


 私たちは同時にテーブルの上の本を見た。


 上巻と下巻は、今ここに並んでいる。けれど、どちらも相手の手元にあるべきものでもあり、自分が手放したくないものでもあった。


「今日、交換しますか」


 秋月さんが言った。


 私は答える前に、下巻を見た。


 彼にとってこの本は、亡くなった祖母の記憶につながっている。私にとっても、ずっと集めてきた作家の最後の作品だ。どちらの理由が重いかなんて決められるものではない。


 だから余計に、簡単には交換できなかった。


「今日はやめておきませんか」


 そう私が言うのと、秋月さんが「もう少し持ってもらってもいいですか」と言うのは、ほとんど同時だった。


 私たちは思わず顔を見合わせて、そして、また笑った。


 悔しいけど、いい笑顔だと思った。


「では、今日は交換しないということで」


「はい。平和的解決ですね」


「解決はしていない気がします」


「ええ、先送りです」


 店員が珈琲を運んできた。白いカップから、湯気が細く立っている。


 私はカップを手に取り、ひと口飲んだ。苦みが強すぎず、古い喫茶店によく合う味だった。


「ここ、美味しいですね」


「もっと早く来ればよかったです」


「では、次もここにしますか」


 口にしてから、少しだけしまったと思った。


 秋月さんは瞬きをして、それからうなずいた。


「そうですね。またお会いするのを楽しみにしています」


 私は返事の代わりに小さく頷いて、珈琲を口にした。


 そのあと、秋月さんは上巻の冒頭を少しだけ話してくれた。私は下巻のあらすじを読まずに我慢していることを話した。ネタバレは禁止という約束もした。


 気づけば、話は、本そのものではなく、お互いの話になっていった。


 仕事のこと。休日のこと。古書店で本を選ぶ時、値札を先に見るか、状態を先に見るか。


「春木さんは、どちらですか」


「状態の方です。中身が悪ければ、安くても買えませんから」


「僕は逆ですね。値段でつい諦めることが多いです」


「秋月さんなら、状態を優先しそうに見えますけど」


「身銭を切るとなると、現実的になるみたいです」


「正直で結構です」


 どうでもいいことばかりだった。


 けれど、そのどうでもいい話が、思っていたより途切れなかった。


 店を出る頃には、外の空が少し暗くなっていた。雨は降っていない。けれど、空気にはまだ湿り気が残っていた。


 私たちは古書店の前まで並んで歩いた。店の灯りはついていて、扉の向こうに店主の姿が見えた。


「次までには、もう少し読み進めます」


 秋月さんが言った。


「私は下巻を開かずに待っています」


「それは、少し申し訳ないですね」


「そう思うなら早く読んでください」


「努力します」


 彼は上巻を鞄に入れた。


 私は下巻を抱え直した。


 交換するために会ったはずなのに、本はそれぞれの手元に残ったままだった。


 けれど私は、次のことを考えていて、それが少しも嫌じゃなかった。




   第3話 読まない下巻といつもの席


 あれから私たちは、何度か古書店と喫茶店で会った。


 名目は、いつも本だった。


『上巻を少し読み進めました』


『どこまでですか』


『ネタバレになるから話せませんね』


『わかりました、聞きません』


『話せないのに会うというのも変ですね』


『変ですね。早く読み終わってくれれば済む話ですよ』


 そんなやり取りをして、休日や仕事帰りに古書店で待ち合わせる。棚を眺め、本を買う時もあれば、何も買わずに店を出る時もある。


 そのあとは、角を曲がった先の喫茶店へ行く。


 最初はたまたま座った奥の席が、いつの間にか私たちの席になっていた。窓からは通りが少しだけ見える。けれど人通りは多くなく、話すにはちょうどいい場所だった。


 その日も、私たちは奥の席に向かおうとした。


「いつもの席、空いていますよ」


 水を持ってきた店員さんにそう言われて、私は一瞬足を止めた。


 いつもの。


 まだ数回しか来ていないはずなのに、その言葉は妙に耳に残った。


「いつものか」


 席に着いてから、秋月さんが少し笑った。


「私たち、そんなに来てますか?」


「少なくとも、店員さんに覚えられるくらいには来てるみたいですよ」


 そう言って、秋月さんはまた笑顔を私に向けた。


「本のためですから」


「もちろん。本のためですよ」


 もう何度目か分からない言い訳を、私たちは真面目な顔で繰り返した。


 注文を取りに来た店員に、秋月さんが悪戯な笑顔でこう言った。


「いつもの頂けますか?」


「はい、ブレンド2つでよろしいですか?」


 そう聞き返す店員さんに私も笑顔で答えた。


「はい、それで」

 

 秋月さんは珈琲を一口飲むと、店内を見回した。


 古い木の椅子。少し曇った窓。壁にかかった振り子時計。棚に並んだカップ。新しい店ではないけれど、長く使われてきたものだけが持つ落ち着きがあった。


「祖母の家にも、こういう棚がありました」


 秋月さんがふと口にした。


「本棚ですか」


「はい。勝手に触って怒られたのを覚えています。特別に厳しい人ではなかったですが、本のことだけは例外でした」


「だから、本を大事に扱うんですね」


「そうかもしれませんね」


 秋月さんは上巻の背表紙に指先をそっと置いた。


「大切なものを、離れて眺めているのが好きなんです。俯瞰して見るというか」


 私はその言葉を聞いて、少しだけ秋月さんらしいと思った。


 触れて壊すくらいなら遠くで見ていたい、そういう人なのだろう。


 でも、あの雨の日には手を伸ばした。


 私と同じ本に。


「春木さんは?」


「私ですか」


「本を集める時、迷いませんか。状態とか、値段とか」


「迷います。でも、欲しい時は買います」


「意外と積極的ですね」


「本に関してだけです」


 そう言ってから、自分でその言葉に少し引っかかった。


 欲しい本に関してだけ。


 では、それ以外はどうなのだろう。


 私は、欲しいものを欲しいと言える人間だろうか。


 テーブルの上には、今日も上巻と下巻が並んでいた。秋月さんの手元に上巻。私の手元に下巻。並べれば一冊の物語になるはずなのに、まだどちらも相手に渡されない。


「今日もまだ上巻は、お借りできないですね」


「すみません」


 申し訳なさげな表情で、伏せた目の睫毛が意外に長いのに気づく。


 私は下巻を膝の上に置いた鞄へしまった。これ以上見ていると、何かを見透かされる気がした。


 その夜、家に帰ってから、私は下巻を机の上に置いた。


 表紙を撫でる。角は少し傷んでいて、背表紙は色あせている。それでも、ずっと探していた本だ。手元にあるだけで嬉しい。


 でも、私は開かなかった。


 最初は、下巻から読んでも仕方ないからだった。


 今は、少し違う。


 もし秋月さんが上巻を読み終えたら。

 もし本を交換したら。

 そのあと、私たちはどうなるのだろう。


 会う理由は、まだ残るのだろうか。


 そんなことを考えてしまった自分が嫌で、私は下巻を閉じたまま鞄へ戻した。


     *


 次に会った時、秋月さんは少し眠そうだった。


「お疲れですか」


「少しだけ。昨夜、上巻を読んでいたら遅くなりました」


 私は思わず顔を上げた。


「読み終えたんですか」


 秋月さんは一瞬だけ、言葉を探すように黙った。


「あと少しです」


「そうですか」


 それ以上、私は言葉を続けることができなかった。


「はい。次には交換できると思います」


 秋月さんはそう言って、珈琲を飲んだ。


 次。

 

 その言葉に、私は安堵し、そしてその次を考えて不安を覚えた。


 喫茶店を出ると、外は小雨になっていた。


「おや、降ってきましたね」


 秋月さんが空を見上げる。


「傘、お持ちですか?」


「今日は降らないと思っていました」


「前もそうして雨宿りする羽目になりましたね」


「それは春木さんでは?」


「だからこそ、今日は持っています」


 私は鞄から折り畳み傘を取り出した。小さな紺色の傘だった。二人で入ると、少し狭い。


「駅まで、ご一緒しませんか」


「いいんですか」


「本が濡れると困るんで」


「僕じゃなくて本の心配なんですね」


「もちろんです」


 そう言いながら、私は傘を開く。


 秋月さんが少し身をかがめて、傘の中に入る。肩が触れるか触れないかの距離。雨の音が傘の上で細かく跳ねている。


「ありがとう」


「あら、そんな言葉は素直に出るんですね」


「人として当然ですよ」


「女性に本を譲る余裕はないようですけど」


「両成敗ですから」


「便利な言葉ですね」


 言葉と裏腹に、二人とも顔には笑顔があった。


 駅までの道を、私たちはいつもより少しゆっくり歩いた。


 傘の中は狭く、時々身体が触れる。そのたびに、呼吸が速くなる。


 秋月さんの肩越しに、私の傘が斜めに傾いていることに気づく。

 

 彼の半身が、雨に濡れている。何か言わなければと思いながら、私は何も言わずに、傘を持つ手だけを少し彼の方へ寄せた。


 けれど、不思議と窮屈だとは思わなかった。


 駅前に着く頃、雨は弱くなっていた。


「次こそ、交換しましょう」


 秋月さんが言った。


「はい、やっと読めますね」


 それは本を交換する約束のはずだった。


 けれど、私にはもう、そうとだけは思えなかった。


 改札の前で別れ、私は一人で歩き出した。鞄の中には、今日も下巻が入っている。


 まだ読めない本。


 けれど今の私は、読めないことに少しだけ安心していた。




   第4話 片方だけ残った本


 古書店の前の貼り紙に、最初に気づいたのは私だった。


 その日、私は秋月さんとの待ち合わせより少し早く着いてしまい、いつものように古書店の入口へ向かった。扉の上の鈴はまだ鳴っていない。けれど、ガラス戸の内側に貼られた白い紙を見た瞬間、足が止まった。


 閉店のお知らせ。


 その文字を読んで、私はしばらく動けなかった。


 理由は、建物の老朽化と店主の体調。閉店日は、一か月後の日付になっていた。


 いつもの古書店がなくなる。


 そう理解した途端、胸の奥が冷たくなった。


 ここで秋月さんと出会い、何度も待ち合わせをした。


 店がなくなったら、私たちの関係はどうなるのだろう。


 そんなことを考えていると、後ろから声がした。


「春木さん?」


 振り向くと、秋月さんが立っていた。いつもの笑顔を怪訝そうに傾げて。


「どうかしましたか」


 私は何も言わず、貼り紙を指さした。


 秋月さんはそれを読んで、少しだけ目を伏せた。


「……そうですか」


「驚かないんですね」


「驚いています」


「そうは見えません」


「見えないだけです」


 秋月さんは静かに言って、ガラス越しに店内を見た。


 棚の隙間から、帳場に座る店主の姿が見える。いつもと変わらないように見えた。けれど、貼り紙があるだけで、その古い店内がもう過去のものになり始めている気がした。


「ビルの老朽化も、店主さんの体調も仕方ないことですね」


 秋月さんが言った。


「仕方ない、で済ませられるんですか」


「済ませたくないですよ、でも、そう言うしかないこともあります」


 秋月さんは、店がなくなった後のことを、もう考えているのだろうか。

 私とのことも、その「後のこと」に含まれているのだろうか。


 考え込んでいると、秋月さんが扉を開けて入っていったので、私は慌てて後を追って中に入った。


 鈴が鳴る。


 老店主が帳場から顔を上げた。


「見たかい」


「はい」


 私が答えると、店主は小さくうなずいた。


「このビルも古いからね。建て替えることになったんだ。私も、そろそろ店に立つのがきつくなってね、この辺が頃合いかなと」


「そうなんですね」


「横にある喫茶店も同じビルだから閉めることになるね、うちの息子が経営してるんだが」


 喫茶店までなくなる。


 私は言葉を失った。


「建て替えた後は、息子がまた何か店をやりたいらしい」


「また喫茶店ですか」


「本と珈琲の店にしたいと言っていたよ。まあ、どうなるかは分からないけれどね」


 本と珈琲。


 その言葉に、私は少しだけ顔を上げた。


 店主は店内を見回した。


「ただ、この棚だけは処分するには惜しい」


 店の奥にある、古い本棚だった。私と秋月さんが、あの上下巻を取り合った棚でもある。傷だらけで少し傾いた、長い時間を支えてきた棚だった。


「よかったら、閉店まで少し棚の整理を手伝ってくれないか」


「私たち、ですか」


「ああ。君たちは、揃わない本の扱いには慣れているだろう」


 店主がそう言うと、秋月さんが小さく咳き込んだ。


「それは、褒められているんでしょうか」


「さあね」


 店主は楽しそうに笑った。


 私は秋月さんと顔を見合わせた。断る理由はなかった。むしろ、まだこの店に関われる理由ができたことに、少しだけほっとしていた。


「私でよければ」


「僕も手伝います」


 店主は満足そうにうなずいた。


 それから私たちは、棚の整理を始めた。


 古い本を箱に入れ、売るものと残すものを分けていく。埃をかぶった全集、背表紙の剥がれた文庫本、古い栞の挟まった単行本が出てきた。


 その中に、上巻だけの本があった。


「あ」


 私は思わず声を出した。


 続けて別の棚から、下巻だけの本も出てきた。けれど、それは別の本だった。どちらも相手を失くしたまま、長い間ここに残っていたらしい。


「揃っていない本って、思ったより多いんですね」


 私が言うと、店主は箱の中を覗き込んだ。


「そうだね。古書店にはよくある」


「こういう本は、どうするんですか」


「売れるものもあるし、売れないものもある。けれどね」


 店主は上巻だけの本を手に取った。


「片方だけ残った本にも、片方だけの時間が流れているんだよ」


 私はその言葉を聞いて、手を止めた。


「片方だけの時間」


「誰かが上巻だけを何度も読んだのかもしれない。下巻だけを失くさずに持っていた人がいたのかもしれない。揃っていないからといって、そこに何もなかったわけじゃないさ」


 店主は本を箱に戻した。


「揃っているから価値があるわけじゃない。本も、人もね」


 私は、自分の鞄の中にある下巻を思った。


 そして、秋月さんの手元にある上巻を思った。


 私たちが片方ずつ持っている本にも、時間は流れているのだろうか。そう思うと、秋月さんの顔を見ずにはいられなかった。


「春木さん」


 秋月さんに呼ばれて、私は顔を上げた。


「大丈夫ですか」


「はい。少し埃っぽくて」


 私は誤魔化すように笑った。


 秋月さんはそれ以上聞かなかった。その距離の取り方が秋月さんらしく、いつもなら心地よかった距離が、その日は少しもどかしかった。


 もう少しだけ、踏み込んで聞いてほしい。けれどそれは、私が踏み込めずにいるからこそ、彼に背負わせている願いでもあった。


 作業は夕方まで続いた。


 作業を終えたあと、私たちはいつもの喫茶店へ行った。


 閉店を知ったせいか、奥の席に座っても落ち着かなかった。ここも、あと一か月でなくなる。


 注文を聞かれて、秋月さんがいつものように言った。


「いつものでお願いします」


 店員さんはうなずいて、厨房へ戻っていった。


 私は窓の外を見た。


「お店がなくなったら、私たちどうするんでしょうね」


 言ってから、胸が少しだけ痛んだ。


 秋月さんはすぐには答えなかった。


「本の交換なら、別の場所でもできます」


「そういう話じゃなくて」


 思ったより強い声になった。


 秋月さんは私を見た。私はすぐに視線を逸らした。


「……そうですね」


 少し間を置いて、彼は言った。


「そういう話では、ないですね」


 その返事だけで、私は少し泣きそうになった。


 本も交換していない。関係に名前もない。

 それなのに、古書店も喫茶店も、先に終わりを決めてしまった。


 その夜、家に帰ってから、私は下巻を机の上に置いた。


 下巻は、これまでずっと読めない本だった。

 でも今は、片方だけ残るかもしれない本に見えた。


 片方だけ残った本にも、片方だけの時間がある。


 店主の言葉は優しいはずなのに、その夜の私には、心細さだけが残った。





   第5話 閉店前夜、言えない言葉


 閉店前夜の古書店の棚は、もうほとんどが空いていた。


 棚に並んでいた本は箱に詰められ、壁に貼られていた古いポスターも外されている。いつもなら本で狭く感じる通路が、その夜は妙に広く見えた。


 私は秋月さんと並んで、最後の棚整理を手伝っていた。


「ここ、ずいぶん空きましたね」


 私が言うと、秋月さんは棚の奥を見ながらうなずいた。


「最初に来た時は、もっと本が詰まっていました」


「最初に来た時?」


「春木さんと本を取り合った時です」


「あれは取り合ったんじゃなくて、私が先に手を伸ばしたんです」


「僕が先に見ていました」


「まだ言いますか」


 そう言い合って、私たちは同時に少し笑った。


 あの上下巻が置かれていた棚は、もうほとんど空になっていた。残っているのは、古い文庫本が数冊と、売り物にならない傷んだ単行本だけ。あの日のことが、急に遠く感じた。


 店主は帳場のあたりで、残す本と処分する本を分けていた。喫茶店の店主である息子さんも、時々こちらへ顔を出しては、箱を運んでくれる。


「この棚は、残せそうなんですか」


 私が聞くと、店主は少しだけ顔を上げた。


「ああ。息子が、建て替えた後の店に置きたいと言っていてね」


「本と珈琲の店、ですか」


「まだどうなるか分からないけれどね。少なくとも、この棚が残るなら、私も少しは安心できる」


 私は棚に手を触れた。


 傷だらけで、少し傾いた棚。ここで私は秋月さんと出会った。上巻と下巻を分け合った。


 棚が残ることは嬉しい。

 でも、そこに私たちがいるとは限らない。


 そう思った時だった。


「春木さん」


 秋月さんが静かに私を呼んだ。


 振り向くと、彼は一冊の本を箱に入れかけたまま、少し迷うような顔をしていた。


「少し、話してもいいですか」


「はい」


 店内は片づけの音で静かではなかった。けれど、その声だけが妙にはっきり聞こえた。


「来月から、海外に赴任することになりました」


 私は、すぐには意味が分からなかった。


「海外、ですか」


「はい。期間は、予定では二年です」


「二年」


 繰り返した声が、自分のものではないみたいだった。


 二年という長さが、長いのか短いのかわからない。まだ二人の時間は始まっていない。

 

 二年後に、二人の時間を繋ぎ直せたとして、まだ私は二十代ではある。けれど、そこから先の時間はどうなるのだろう。そんな混乱した気持ちでいっぱいだった。


 古書店がなくなる。

 喫茶店もなくなる。

 そのうえ、秋月さんまで遠くへ行く。


 一つずつなら受け止められたかもしれない。けれど、全部が同じ時期に終わっていくのは、あまりに急だった。


「言うのが遅くなって、すみません」


「いつ、決まったんですか」


「少し前です。でも、確定したのは最近で」


「そう、ですか」


 私はそれ以上、何を聞けばいいのか分からなかった。


 行かないでほしい。


 そんな言葉が喉の奥まで出かかった。けれど、それを言える立場でないのは分かっていた。私たちは恋人ではない。本を交換する約束をして、何度も会って、いつもの席までできた。それでも、私たちの関係にはまだ名前がない。


 秋月さんには仕事がある。人生がある。祖母の本を大切にしていたように、きっと大切にしているものがある。


 だから私は、何も言えなかった。


「向こうでも、その本を読むんですか」


 代わりに出てきたのは、そんな言葉だった。


 秋月さんは少しだけ驚いた顔をして、それから上巻を見た。


「読めたら、と思っています」


「まだ読み終わっていないんですか」


「……もう少しです」


「本当に?」


「本当です」


 それが本当かどうか、私はもう分からなかった。分からないまま、分からないふりをした。


 店主が休憩にしようと言って、帳場の奥から湯呑みを持ってきた。息子さんが喫茶店から持ってきたポットで、温かいお茶を注いでくれる。


「最後の夜だからね。少し休みなさい」


 湯気が立ちのぼった。


 秋月さんが湯呑みを受け取った瞬間、その眼鏡が白く曇った。


 あの日と同じだった。


 雨の日の古書店で、初めて会った時も、彼の眼鏡は曇っていた。あの時の私は、ハンカチを思い浮かべただけで何もしなかった。


 今度は、手が動いた。


 鞄の中のハンカチに、指先が触れる。


 けれど、私はそれを取り出せなかった。


 今ここで差し出したら、何かが変わってしまいそうだった。変わってほしいのに、変わるのが怖かった。


 秋月さんは自分で眼鏡を外し、ハンカチでレンズを拭いた。


 私は、ほんの少し遅かった自分の手を、鞄の中で握りしめた。


「熱いですね」


 秋月さんが言った。


「そうですね」


 私はそれだけ答えた。


 お茶の味は、よく分からなかった。


 休憩の後、私たちは最後の箱を運んだ。棚はほとんど空になり、店内には本の匂いだけが残っているようだった。


 店主が入口の方を見た。


「長いこと鳴ってくれた鈴だ」


 扉の上の鈴は、私がこの店に来るたびに鳴っていた。秋月さんと出会った日も、何度も待ち合わせをした日も。


 店主は店内の灯りを一つずつ落とした。


 最後に、私たちは外へ出た。


 店主が鍵を閉める。小さな金属音がする。もう一度扉が揺れて、鈴がかすかに鳴る。


 それが、古書店で聞く最後の鈴の音だった。


 隣の喫茶店も、明日で閉まると聞いた。窓の向こうには、椅子を片づける息子さんの姿が見えた。いつもの席も、もうすぐなくなるのだと思った。


「春木さん」


 秋月さんが言った。


「行く前に、本を交換しませんか」


 私は顔を上げた。


「交換」


「はい。僕が持っている上巻を、春木さんに。春木さんの下巻を、僕に」


「向こうへ持っていくんですか」


「そのつもりです」


 胸の奥が、きゅっと痛んだ。


 自分の下巻が、秋月さんと一緒に遠くへ行く。そう思うと寂しいのに、少しだけ安心もした。彼の手元に私の持っていた本があるなら、何かがつながっている気がした。


「戻ったら、また交換しましょう」


 秋月さんはそう言った。


 待っていてほしい、とは言わなかった。


 私も、待っています、とは言えなかった。


「はい」


 代わりに、私は頷いた。


「交換しましょう」


 それが約束なのか、別れの準備なのか、私には分からなかった。


 帰り道、私は鞄の中の下巻を握った。


 この本を、近いうちに秋月さんへ渡す。そうしたら、私の手元には彼の上巻が残る。


 古書店も、いつもの席も、少しずつ手を離れていく。

 秋月さんも、遠くへ行く。


 私はその夜も、行かないでとは言えなかった。


 待っているとも、言えなかった。




   第6話 下巻の彼と上巻の私



 彼の出発の日、空はよく晴れていた。


 雨が降ればよかったのに、と少し思った。


 あの古書店で出会ったのは雨の日だった。一つの傘で駅まで歩いたのも雨の日。雨があれば、何か似たものをもう一度なぞれた気がした。けれど空は澄んでいて、駅前のロータリーには冬の柔らかい日が差していた。


 待ち合わせ場所に行くと、秋月さんは先に来ていた。スーツケースは持っていない。前夜のうちに空港の宅配へ預けたのだと言った。


「身軽ですね」


「これからの方が、荷物は増えますから」


 駅前のベンチに、二人で腰を下ろした。冬の朝の空気は乾いていて、人の声が遠く聞こえた。


「では」


 秋月さんが言った。


「交換、しましょうか」


「はい」


 私は鞄から下巻を取り出した。秋月さんも鞄から上巻を取り出した。膝の上で、二冊が並ぶ。それは、あの雨の日の棚の前以来のことだった。


「なんとか読み終わりました」


 秋月さんが言った。


「上巻、ですか」


「はい。ようやく」


 彼は上巻を私の方へ差し出した。


「今度はあなたが読んでください」


 私はそれを両手で受け取った。少し重く感じた。表紙を撫でる。背表紙は色あせ、角は前と同じように傷んでいた。けれど彼の手元にあった、それだけの違いがあった。


 代わりに、私は下巻を彼に差し出した。


「私の方は、まだ読んでいません」


「では、向こうで楽しみに読みます」


「ゆっくり読んでください」


「はい」


 秋月さんは下巻を、丁寧に鞄へ入れた。


 それで、交換は終わった。


 たった一往復のやり取りだった。あの雨の日からここまで、半年以上かかった一往復だった。


「向こうのこと、また聞かせてください」


「もちろん。ご連絡します」


「待っています」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 待っています、と言えた。


 彼は私を見て、それから少し笑った。


「必ず、下巻を渡しに帰りますね」


 彼の眼鏡は今日は曇っていない。冬の朝の光が、レンズに少しだけ反射していた。


「行ってきます」


「いってらっしゃい」


 改札の前で、私たちは別れた。秋月さんは振り返らなかった。それが彼らしいと思った。


 ホームに彼の姿が消えたあと、私は一人で駅前に出た。


 鞄が、いつもより少しだけ重く感じた。


 その夜、私は上巻を机の上に置いた。


 長い間、下巻と並べたいと思っていたものだ。けれど今、私の前にあるのは上巻だけ。今度は私の方が、上巻だけを持っている。




 手に上巻をとる。


 あの雨の日からずっと秋月さんが持っていた本。

 

 半年のあいだ、彼の鞄の中にあって、彼の手で何度かページがめくられた本。背表紙の色あせ方は私の下巻と同じはずなのに、なぜか手のひらに伝わる重みが違って感じられた。


 ページをめくっていくと、古い栞が挟まっていた。押し花の栞。


 誰が、いつ挟んだものなのか、私には分からなかった。秋月さんが挟んだものなのだろうか。それとも、もっと前から、この本のどこかに挟まっていたのかもしれなかった。


 いつかどこかで、誰かが大切に挟んだ栞だ。それが今、私の手のひらにあった。


 私はその栞を手に取って、くるくる回して眺めた。


 一通り眺めた後に、私は、初めから読み始めた。


 一文一文、読み進めながら、そのたびにこれを読んだ秋月さんがどう思ったのか、それが気になった。 


 一冊の本に、二人の時間が層になっていた。


 考えながらだと、なかなか読み進めることができない。


 でも、急ぐ理由はなかった。下巻は私の手元にはない。彼が読み終えるまで、私もゆっくりここで読んでいればいい。


     *


 秋月さんからの最初の連絡は、出発の翌週に届いた。


『無事に着きました。時差ぼけがひどいです』


 たった一行のメッセージだったが、それを見ただけで、私は妙に安心していた。


 それから、私たちは時々連絡を続けていく。


 春になった頃、彼は住んでいる街並みの写真を送ってくれた。窓から見える景色、出勤の途中の小さなパン屋、休みの日に歩いた公園。


 私は、私の方の小さな出来事を返した。喫茶店の建物が解体されたこと、跡地に新しい工事が始まったこと、店主さんを駅前で見かけたこと。


『下巻、読み進めていますよ』


 夏に入った頃、そんなメッセージが届いた。


『どこまで読みましたか』


『言えません。ネタバレになるので』


『私はもう3回も読み直しましたよ』


『早いですね。僕も頑張って読みますね』


 彼の返事に、不思議と頬が綻んだ。


 夏の終わり、彼から夜景の写真が届いたことがあった。窓ガラスに彼の姿が薄く映り込んでいて、眼鏡をかけた横顔が一瞬だけ見えた。


『そちらの夜は、こちらの朝より早いんですね』


『はい。でも、こんな時間まで起きている日は、つい春木さんに送ってしまいます』


 その「つい」を、私は何度か読み返した。


 秋が深まる頃、メッセージの間隔は少しずつ開いていった。


 仕事が忙しいのだろう、と私は思った。私の方も、店主さんから預かった本棚や蔵書を整理する日々が続いていた。息子さんのブックカフェが、もうすぐ開く。話したいことはたくさんあった。けれど、向こうの夜と、こちらの朝の重なる時間を待っていると、結局そのまま流れてしまう日もあった。


     *


 そして冬が訪れ、別れてから一年が過ぎた頃、夜遅くに彼から短いメッセージが届いた。


『明日、少しバタつきます。落ち着いたらまた連絡します』


 私はそれを読んで、軽く返した。


『お疲れさまです。無理しないでください』


 既読がついた。


 それが、最後だった。


 一週間が過ぎても、次の連絡は来なかった。仕事が忙しいのだろう、と私は思った。


 二週間が過ぎた頃、私は短いメッセージを送ってみた。「ブックカフェの開店が決まりました」と、それだけ。


 既読は、つかなかった。


 一か月が過ぎ、二か月が過ぎた。既読のつかないメッセージが、私の画面に少しずつ積もっていった。


 最初は、仕事が忙しいだけだと思っていた。けれど、何ヶ月も途切れるのは、これまでなかった。


 事故にあったのではないか。病気で倒れているのではないか。海外で何かに巻き込まれたのではないか。


 あるいは、もう少し穏やかな理由かもしれなかった。新しい街に親しい人ができて、私との連絡を続けにくくなったのかもしれない。あるいは、もうこの関係を終わらせたいけれど、終わらせる言葉が見つからずに、黙っているだけなのかもしれない。


 いちばん怖かったのは、彼が私のことを忘れていることだった。


 時々、自分が何か悪いことを言ったのではないかと、過去のやり取りを遡ることがあった。最後の「お疲れさまです。無理しないでください」が、彼の負担になったのではないか。そんなはずはないと頭では分かっていても、夜に何度かそのメッセージを開いた。


 それでも、私は彼の勤務先に電話することはできなかった。私たちは、まだそういう関係ではなかった。本のためですから、と何度も言い合った関係のままだった。


 待っています、と駅で言った。


 それが、私の言える限界だった。


     *


 ブックカフェが開いたのは、最後の連絡から半年が過ぎた夏のことだった。

 私はその店で働かせてもらうことになった。


 店主さんは、私に古書店の棚と、選んだ蔵書の一部の管理を任せてくれた。


「あの棚に並べてくれる人がいて、よかった」


 そう、店主さんは笑った。


 ブックカフェのカウンターの奥に、あの傷だらけの棚が据えられた。私と秋月さんが、最初に本を取り合った棚だった。そこに私は、譲り受けた本を少しずつ並べていった。


 上巻は、その棚には並べなかった。


 下巻がここにない以上、片方だけを並べることはできなかった。「片方だけ残った本にも、片方だけの時間がある」と店主さんは言ったけれど、私はまだ、それを棚に並べる気持ちにはなれなかった。


 上巻は、カウンターの内側の、私だけが手を伸ばせる小さな棚に置いた。


 雨の日になると、私はその棚を見た。


 夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬になった。


 雨の日、私は時々スマートフォンを開いた。最後の彼のメッセージは、もう一年も前のものになっていた。既読のままで止まっている自分の返事を、私は何度か読み返した。


 返ってこない言葉に、新しい文字を書き足すことは、もうしなくなっていた。送れば送るほど、既読のつかないメッセージが増えるだけだった。それが、過ぎていく時間の意味のような気がしていた。


 扉のベルが鳴ると、無意識に顔を上げる癖が抜けなかった。お客さんが入ってくるたびに、ほんのわずか、息を止める。それから、別の人だと分かって、私は何でもない顔で「いらっしゃいませ」と言う。それを何度繰り返したかは、もう数えていなかった。


 彼から次の連絡が来ることは、なかった。





   第7話 同じ本棚に並ぶまで




 窓の外の雨が目に留まる。


 こんな日になると、私はカウンターの内側にある小さな本棚に目を奪われる。


 上巻だけのその本。


 これと出会ったのも、窓の向こうが淡く滲む日だった。


     *


 ブックカフェのカウンターに私が立つようになって半年以上が過ぎた。彼と別れてから、約束の二年はもう過ぎていた。


 店主さんの息子さんが始めた小さな店は、思っていたよりずっと地元の人に馴染んでくれた。雨の日も、晴れの日も、ぽつぽつとお客さんが来る。私のことを店の人として覚えてくれる人も増えた。


 最初の頃、私は注文を取るのが苦手だった。覚えきれなくて、メモをずっと手にしながら動いていた。


 本が好きでいつも来てくれるお客様たちは、そんな私を優しく見守ってくれた。そうこうしているうちに、私もこの店の仕事にすっかり慣れていた。


 待っています、と駅で言ったきり、何度も季節が過ぎた。


 彼から連絡が来ることは、もう、ないのかもしれなかった。それでも、上巻はあの棚に並べることができないままだった。並べないことが、私の中で、いまだに「待っている」ことの証拠のような気がしていた。


     *


 ベルが鳴ったのは、午後のことだった。


 雨の音が一瞬大きくなって、ふっと閉じる。私は「いらっしゃいませ」と顔を上げた。


 扉のところに、彼が立っていた。


 濡れた肩。畳んだ傘。少し疲れた顔。


 眼鏡が曇っていた。


 心臓が、一度強く跳ねた。


 現実味がなかった。あの古書店で何度も雨の日を待ったみたいに、この場面を私はずっと頭の中で繰り返してきた気がする。


 けれど、私が想像してきたどの場面とも、目の前の彼は少しずつ違っていた。


 彼は普通の顔をしていた。少し痩せたかもしれない。それくらいだった。


 彼は眼鏡を外して、自分のハンカチで拭いた。かけ直すと、店内をゆっくり見渡してから、私の方へ歩いてくる。


 手に、見覚えのある本があった。


 下巻。


 あの日、駅で渡したものだった。


「春木さん」


 彼が言った。


「ご無沙汰しています」


 その一言で、内側の何かが溢れそうになった。けれど、私は息を整えてから返事をした。


「秋月さん」


「はい」


「お元気でしたか」


 言うべき言葉ではなかった気がする。けれど、最初に出たのは、その言葉だった。


「元気です」


 彼は少し笑い、それから真顔に戻った。


「先に、謝らせてください」


 彼は頭を下げた。


「連絡が途絶えたまま、今日になりました。本当に、すみませんでした」


 話を聞くと、こうだった。


 あの「明日バタつきます」と送った翌日、彼は急な出張で別の街へ移ったそうだ。移動先でスマートフォンを落として壊した。データはほとんど失われた。新しい端末を手に入れたあとも、メッセージアプリは元のアカウントの復旧ができなかった。海外の通信事情と認証の手続きがことごとく噛み合わず、彼は私の連絡先を失った。


 覚えていたのは、私の名前と、古書店のあったビルの場所だけだった。


「日本に戻ってきたのが、先週です。あの古書店のあった場所を訪ねたら、新しいビルになっていました。一階に本のあるカフェがあって、もしかして、と思いました」


「探して来てくださったのですね」


「ずっと、探していました」


 その「ずっと」と言う言葉が、心に深く染み込んだ。


「もっと早く戻ってこられればよかった。連絡を絶やしたかったわけではないんです。けれど、結果として、長いあいだ春木さんを待たせてしまいました。本当に、すみません」


 彼はもう一度、頭を下げた。


 私は急いで首を振った。


「顔を、上げてください」


 秋月さんはそれでもしばらく頭を下げたままだった。やがてゆっくり顔を上げて、私を見た。


 私は、自分の中で長いあいだ整理してきた言葉を、ようやく口にすることにした。


「秋月さん。私の方こそ、謝りたいことがあります」


「春木さんが?」


「あの雨の日、本を譲らなかったのは、ただの意地でした。私の好きな作家の、最後のピースだったので」


 彼は黙って、私を見ている。


「でも、何度かお会いするうちに、秋月さんがお祖母さまのことを大切に思っているのが分かって、本当は私が下巻もお譲りするべきなんだと、ずっと思っていました」


「春木さん」


「それでも、譲れませんでした。交換してしまったら、もう会う理由がなくなる気がして。秋月さんと過ごす時間が、終わってしまう気がして」


 彼は、何も言わずに私を見ていた。


「最後まで、行かないでとも、待ってますとも、はっきり言えませんでした。駅で『待っています』と、それだけ言うのが私の精いっぱいだったんです」


「あの言葉は、嬉しかったです」


 秋月さんが、静かに言った。


「あれがなかったら、僕はたぶん、戻ってこられなかった」


 言いながら、私は少しだけ笑った。泣いてしまいそうだったから、笑った。


 秋月さんは、しばらく黙っていた。


 それから、ゆっくり口を開いた。


「僕の方も、本だけが欲しかったわけではありません」


「秋月さん」


「祖母の本だ、と言えば、あなたが引いてくれるかもしれないと、最初は少し思っていました。でも、何度かお会いするうちに、引かれたくないと思うようになりました。引かれてしまったら、もう会えなくなりますから」


「それで、なかなか上巻を読み終えなかったんですね」


「読み終えてしまったら、交換することになりますからね」


「そういうところは、私と一緒だったんですね」


「両成敗ですから」


 私たちは、少しだけ笑った。


 その笑いは、あの古書店で初めて二人で笑った時よりも、ずっと自然だった。


「『必ず返しに帰る』と、駅で言いましたよね」


「はい」


「軽率に言いすぎました。でも、あの言葉が、二年間、僕を支えていました」


「ちゃんと、返しに来てくれましたから」


「はい」


「秋月さん」


「はい」


「上巻、お返しします」


 私はカウンターの内側の棚から、上巻を取り出した。長いあいだ、私だけが手を伸ばせる場所に置いていた本だった。それを、彼の前にそっと置いた。


「いいんですか」


「はい」


 彼は上巻を手に取り、自分の鞄から下巻を取り出した。二冊が、ようやく揃って並んだ。


「春木さん」


「はい」


「これは、もう交換しないことにしませんか」


「交換、しない」


「上巻も下巻も、ここの棚に並べる。それでよければ、ですが」


 私は、店の奥の棚を見た。古書店から引き継いだ、傷だらけの本棚。私と彼が最初に出会った場所そのものだった。


 所有するためじゃなくて、共有するために。

 言葉にしなくても、私たちは同じことを考えている気がした。あの雨の日、二人で一冊を取り合った場所に、二冊で戻ってくる。それが、私たちなりの答えだった。


 秋月さんが私を見つめながら口を開いた。


「ここにくれば揃っている。僕はそれがいいです」


 私は笑顔で答えた。


「はい、私もそうなれば嬉しいです」


 私たちは二冊を、その棚に並べた。


 上巻と下巻が、ようやく寄り添うように並んだ。


 しばらく、私も秋月さんも、何も言わずにその二冊を眺めていた。

 


 あの雨の日、私たちはこの本を取り合っていた。どちらも譲らずに、店主に両成敗されて、半分ずつ持ち帰った。それからの長い時間が、私の中で短く巻き戻されていく。


 長かった、と思う。けれど、ここまで来てしまえば、長さよりも、二冊が並んでいるというその事実が、とても大切で、ここまでのいろいろな出来事が、無駄だとは思えなかった。




 それから彼はカウンター席に戻り、椅子に座った。


「ご注文は」


 私が聞くと、彼は少し考えて、笑った。


「いつもの、お願いします」


「いつもの、というと」


「ブレンド珈琲です。覚えていますか」


「もちろん」


 私はゆっくり珈琲を淹れた。あの古い喫茶店で何度も飲んだ味に近づくよう、息子さんに教わって覚えた淹れ方だった。


 白いカップから、湯気が細く立った。


 彼の眼鏡が、また少し曇った。


 今度は、私の手が迷わなかった。エプロンのポケットからハンカチを取り出し、自然に差し出した。


「どうぞ」


「ありがとう」


 彼は当然のように受け取り、眼鏡を拭いた。礼を言うその声に、初めて会った日のような遠慮はもう、なかった。


 外の雨が、少しだけ強くなった。


 ガラス越しの景色は滲んでいたけれど、店の中の湯気は静かに立っていた。


 私は、カウンターの内側からふと、奥の棚を見た。


 あの傷だらけの本棚に、上巻と下巻が、寄り添うように並んでいる。


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