同じ本棚に並ぶまで
第1話 雨の日、上巻の彼と下巻の私
窓の外の雨を眺める。
こんな日はいつも、私はカウンターの内側にある小さな本棚に目をやってしまう。
上巻だけのその本、これと出会ったのは、こんな薄く煙る日だった。
*
ある日の仕事帰り、駅へ向かっていた私は、途中で急な雨に降られた。天気予報では曇りだったはずなのに、細い雨粒が歩道を叩き始める。
その日はあいにく傘を持っていなかった。これ以上強くならなければと、私は天を仰いだ。
走れば駅まで行けない距離ではないけれど、鞄の中には、借りていた本が入っていた。これを濡らすわけにはいかない。私は目についた古いビルの軒先へ駆け込み、その一階にある古書店の扉を押した。
扉の上で、小さな鈴が鳴った。
雨の日の古書店は、普段と違い湿った紙の匂いが満ちていた。
時間がある時に古書店を見かけると、私は必ず立ち寄るようにしている。
その理由は一つ、好きな作家の本を探していたからだ。
どうしても手に入らない上下巻の小説、それをずっと探していた。
濡れた髪を軽く払ってから、私はいつもの棚へ向かった。文芸の棚の下段、奥まった場所。そこに、その作家の本が何冊か並んでいる。
今日もないだろう。
そう思いながら背表紙を目で追って、私は息を止めた。
あった。
棚の奥に、ネットで見たことのある装丁が二冊、ぴたりと並んでいた。色あせた背表紙。少し角の潰れた函。けれど間違いない。ずっと探していた本だった。
しかも、上巻と下巻がそろっている。
雨の音が遠くなった。
私は鞄を抱え直し、棚へ手を伸ばした。
その瞬間、横から別の手が伸びてきて、本の前で私の指先と、その人の指先が、ぶつかった。
乾いた指先だった。私のものよりほんの少しだけ温かい。触れたのは一瞬で、ぶつかった、と言うほどでもなかったのに、なぜか手を引くのが少しだけ遅れた。
「あ」
顔を上げると、そこに一人の男性が立っていた。年齢は私と同じくらいだろうか。濃い色のコートを着て、片手に畳んだ傘を持っている。
眼鏡が曇っていた。
外の雨と店内の湿気のせいだろう。彼の眼鏡は白く曇り、目元が少し見えにくくなっている。
私は一瞬ハンカチを思い浮かべたが、初対面の相手に差し出すほど大胆ではなかった。
先に声を出したのは彼だった。
「その本、僕が先に見ていました」
「手を伸ばしたのは、私が先だったと思います」
「見ていたのは僕です」
「見ていただけなら、まだ買っていません」
彼は少し黙った。
曇った眼鏡の奥で、たぶん眉をひそめたのだと思う。
「後から来たのはあなたですよ?」
「はい。ですが、先に手を伸ばしたのは私です。だから譲ってください」
「同意したのに、結論だけおかしくないですか」
「おかしくありません。私もずっと探していたんです」
「僕もです」
二人の手は、まだ本から離れていなかった。
でも私は引けなかった。
この本だけは、ずっと探していた。何度も探し、見つけては状態や値段に諦めてきた。ようやく目の前にそろって現れた上下巻を、はいそうですかと譲ることはできなかった。
彼も同じらしかった。
「あなたも、この作家が好きなんですか」
私が聞くと、彼は少し迷ってから首を横に振った。
「好き、というほど読んでいるわけではありません。ただ、この本は昔、祖母の家にありました」
「お祖母さまの?」
「はい。祖母が好きだった本です」
彼の声は、口論していた時より少し低くなった。
私は本をつかむ指に力を入れたまま、言葉を失った。
それは、ずるいと思った。
思い出の話をされたら、こちらが悪者みたいになる。けれど彼が悪いわけではない。大切な理由があるのは、むしろ当然だった。
でも、私にも理由はあった。
「私は、この作家の本を集めています」
私は言った。
「これ以外の本は集めました。でも、この上下巻だけ手に入れ損ねていて。ずっと探していました。だから、私も譲れません」
彼は少し困ったように黙った。
私も黙った。
本棚の前で、二人とも一歩も引かなかった。
「……店の中で、揉めるのはやめてもらえるかな」
横から声がした。
振り向くと、店主が帳場の奥からこちらを見ていた。白髪まじりの髪を後ろへ撫でつけた、細身の男性だった。何度か会計をしたことはあるが、長く話したことはない。
店主は呆れたようにため息をついたが、目元は少し笑っていた。
「どちらも譲る気はなさそうだね」
「ずっと探していたんです」
「僕もです」
「うん。だから揉めているんだろう」
店主は棚から二冊を抜き取った。私と彼の手が、同時に空になる。
「では、両成敗」
そう言って、店主は上巻を彼に、下巻を私に差し出した。
「今日は片方ずつ持って帰りなさい」
「え」
「それでは読めません」
私と彼の声が重なった。
店主は平然としていた。
「読めないなら、また会って交換すればいい。ここに来れば、少なくとも私はいる」
「でも、上下巻が別々になるのは」
「本は逃げないよ。君たちは何度かここで見たことのある顔だ。また来ることはできるだろう?」
その言い方が妙に落ち着いていて、私は反論の言葉をなくした。
彼も同じだったのか、黙って上巻を見下ろしていた。曇っていた眼鏡は少しずつ透明になっていた。
曇りが引いてようやく見えた彼の目は、思ったより穏やかだった。けれど、譲る気のなさだけは確かにそこにあって、私は返す言葉をなくした。
諦めたのではない。ただ、ここで意地を張っても本は揃わない。それは分かっていた。
私は店主の方を向いた。
「わかりました。今日はそれでいいです」
唖然としたような顔をした後、渋々といった表情で彼も事態を受け入れた。
彼が上巻を買い、私が下巻を買った。
会計を終えたあと、店の入口近くで、私たちは少し気まずく向かい合った。外の雨は弱くなっていたが、まだ細く降り続いていた。
「交換するためには、連絡先が必要ですね」
彼が言った。
「本のためですからね」
「もちろん。本のためです」
念を押すように言い合ってから、私たちはスマートフォンを取り出した。
「秋月、です。秋月透」
「春木舞です」
私たちは、それぞれの名前を登録した。
店を出る頃、雨はほとんど上がっていた。
彼の眼鏡は、また少しだけ曇っていた。私は鞄の中のハンカチを思い出したが、やっぱり差し出さなかった。
代わりに、下巻を鞄の奥へ入れた。
まだ読めない本。
上巻は彼の手にある。
下巻は私の鞄の中にある。
一冊の本は、雨の日に二つに分かれた。
第2話 交換できない再会
彼から最初の連絡が来たのは、あの雨の日から三日後のことだった。
『秋月です。上巻の件ですが、読み終えるまで少し時間がかかりそうです』
私は鞄の中の下巻を思い出した。買った日からずっと、下巻は鞄に入れたままだった。持ち歩く意味はないのに、置き場所を決められずにいた。
『私もまだ読んでいません』
そう返すと、すぐに既読がついた。
『下巻からですからね』
『逆だったらよかったのにと、後悔してます』
『そうですか、ごめんなさい』
『それなら早く読んでください』
画面を見ながら、私はそうお願いをした。
その日の夜、私たちは次の休日に会う約束をした。目的はもちろん本の交換、ということになっていた。
けれど本当に交換できるのか、私は少し疑っていた。
*
待ち合わせ場所は、古書店から角を曲がったところにある、喫茶店だった。
入口の木製の扉には小さなベルがついていて、窓際には観葉植物が置かれている。流行のカフェというわけではなく、古くから営業してきた純喫茶という雰囲気だった。
私が店に入ると、秋月さんはすでに奥の席に座っていた。
今日は彼の眼鏡は曇っておらず、穏やかな眼差しがはっきりと見えていて、こちらを見つめていた。
「お待たせしました」
「いえ、僕も今来たところです」
定番のやり取りを済ませると、私は向かいの席に座った。鞄から下巻を取り出し、テーブルの上に置く。
彼がこちらの目をまっすぐに見つめてくる。それが何か気恥ずかしくて、私は視線をテーブルの方に向けた。
上巻と下巻が、三日ぶりに並んでいる。
それだけなのに、少しだけ落ち着かない。
「では」
秋月さんが言った。
「交換しますか」
私は下巻に手を添えたまま、彼を見た。
「読み終えたんですか」
「まだです」
「ではまだ交換できないじゃないですか」
「春木さんは?」
「読んでいません」
「下巻からですからね」
「だから読んでいないんです」
秋月さんは、少しだけ笑った。
「下巻だけ持って帰ったので、下巻から読む方なのかと思っていました」
「そんな変わった人間ではありません。変人扱いしないでください」
抗議したのに、彼の表情が笑っていて、私もつい笑ってしまった。
「ごめんなさい」
「笑ってしまったので、許します」
そこで店員が水を置きに来たので、私たちは一度黙った。
私はブレンド珈琲を頼み、秋月さんも同じものを頼んだ。注文が終わると、彼は上巻の表紙に視線を落とした。
「この本、ずっと探していたんです」
「お祖母さまの家にあったんですよね」
秋月さんはうなずいた。
「祖母は本が好きな人でした。家に古い本棚があって、そこにいろんな本が並んでいたんです。この本も、その中にありました」
「読んだことは?」
「ありません。子どもの頃の僕にはまだ難しくて、表紙だけ覚えていました。祖母は何度も読んでいたみたいで、背表紙がかなり傷んでいて」
彼は懐かしむように、上巻の角を指先でなぞった。
「大人になったら読もうと思っていました。でも、祖母が亡くなって、家を整理した時にはもうなくなっていました」
「それで、探していたんですね」
「はい。祖母が好きだったものを、ちゃんと知っておきたかったんだと思います」
祖母への想いがにじむ口調に、私は何も言えなくなった。責められているわけではない。ただ、彼も本当にその本を大切にしているのだ。
「春木さんは?」
今度は秋月さんが聞いた。
「どうしてこの本を?」
「私は、その作家のファンです。推しというやつですね」
その推しという言葉に秋月さんが軽い笑顔を見せる。
「ほかの本はもう集められているとおっしゃってましたか?」
「はい。最初に読んだのは大学生の頃でした。ちょうど何をしても上手くいかない時期で、たまたま手に取った一冊に救われたというか」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
「そういう本は、あると思います」
秋月さんのその言葉が自然だったので、私は続きを話せた。
「それから少しずつ集めました。新刊で買えるものは新刊で、絶版になったものは古書店や通販で。でも、この上下巻だけ、どうしても手に入らなかったんです」
「これが最後のピースというわけですね。それは欲しいですね」
「はい、そうです」
私たちは同時にテーブルの上の本を見た。
上巻と下巻は、今ここに並んでいる。けれど、どちらも相手の手元にあるべきものでもあり、自分が手放したくないものでもあった。
「今日、交換しますか」
秋月さんが言った。
私は答える前に、下巻を見た。
彼にとってこの本は、亡くなった祖母の記憶につながっている。私にとっても、ずっと集めてきた作家の最後の作品だ。どちらの理由が重いかなんて決められるものではない。
だから余計に、簡単には交換できなかった。
「今日はやめておきませんか」
そう私が言うのと、秋月さんが「もう少し持ってもらってもいいですか」と言うのは、ほとんど同時だった。
私たちは思わず顔を見合わせて、そして、また笑った。
悔しいけど、いい笑顔だと思った。
「では、今日は交換しないということで」
「はい。平和的解決ですね」
「解決はしていない気がします」
「ええ、先送りです」
店員が珈琲を運んできた。白いカップから、湯気が細く立っている。
私はカップを手に取り、ひと口飲んだ。苦みが強すぎず、古い喫茶店によく合う味だった。
「ここ、美味しいですね」
「もっと早く来ればよかったです」
「では、次もここにしますか」
口にしてから、少しだけしまったと思った。
秋月さんは瞬きをして、それからうなずいた。
「そうですね。またお会いするのを楽しみにしています」
私は返事の代わりに小さく頷いて、珈琲を口にした。
そのあと、秋月さんは上巻の冒頭を少しだけ話してくれた。私は下巻のあらすじを読まずに我慢していることを話した。ネタバレは禁止という約束もした。
気づけば、話は、本そのものではなく、お互いの話になっていった。
仕事のこと。休日のこと。古書店で本を選ぶ時、値札を先に見るか、状態を先に見るか。
「春木さんは、どちらですか」
「状態の方です。中身が悪ければ、安くても買えませんから」
「僕は逆ですね。値段でつい諦めることが多いです」
「秋月さんなら、状態を優先しそうに見えますけど」
「身銭を切るとなると、現実的になるみたいです」
「正直で結構です」
どうでもいいことばかりだった。
けれど、そのどうでもいい話が、思っていたより途切れなかった。
店を出る頃には、外の空が少し暗くなっていた。雨は降っていない。けれど、空気にはまだ湿り気が残っていた。
私たちは古書店の前まで並んで歩いた。店の灯りはついていて、扉の向こうに店主の姿が見えた。
「次までには、もう少し読み進めます」
秋月さんが言った。
「私は下巻を開かずに待っています」
「それは、少し申し訳ないですね」
「そう思うなら早く読んでください」
「努力します」
彼は上巻を鞄に入れた。
私は下巻を抱え直した。
交換するために会ったはずなのに、本はそれぞれの手元に残ったままだった。
けれど私は、次のことを考えていて、それが少しも嫌じゃなかった。
第3話 読まない下巻といつもの席
あれから私たちは、何度か古書店と喫茶店で会った。
名目は、いつも本だった。
『上巻を少し読み進めました』
『どこまでですか』
『ネタバレになるから話せませんね』
『わかりました、聞きません』
『話せないのに会うというのも変ですね』
『変ですね。早く読み終わってくれれば済む話ですよ』
そんなやり取りをして、休日や仕事帰りに古書店で待ち合わせる。棚を眺め、本を買う時もあれば、何も買わずに店を出る時もある。
そのあとは、角を曲がった先の喫茶店へ行く。
最初はたまたま座った奥の席が、いつの間にか私たちの席になっていた。窓からは通りが少しだけ見える。けれど人通りは多くなく、話すにはちょうどいい場所だった。
その日も、私たちは奥の席に向かおうとした。
「いつもの席、空いていますよ」
水を持ってきた店員さんにそう言われて、私は一瞬足を止めた。
いつもの。
まだ数回しか来ていないはずなのに、その言葉は妙に耳に残った。
「いつものか」
席に着いてから、秋月さんが少し笑った。
「私たち、そんなに来てますか?」
「少なくとも、店員さんに覚えられるくらいには来てるみたいですよ」
そう言って、秋月さんはまた笑顔を私に向けた。
「本のためですから」
「もちろん。本のためですよ」
もう何度目か分からない言い訳を、私たちは真面目な顔で繰り返した。
注文を取りに来た店員に、秋月さんが悪戯な笑顔でこう言った。
「いつもの頂けますか?」
「はい、ブレンド2つでよろしいですか?」
そう聞き返す店員さんに私も笑顔で答えた。
「はい、それで」
秋月さんは珈琲を一口飲むと、店内を見回した。
古い木の椅子。少し曇った窓。壁にかかった振り子時計。棚に並んだカップ。新しい店ではないけれど、長く使われてきたものだけが持つ落ち着きがあった。
「祖母の家にも、こういう棚がありました」
秋月さんがふと口にした。
「本棚ですか」
「はい。勝手に触って怒られたのを覚えています。特別に厳しい人ではなかったですが、本のことだけは例外でした」
「だから、本を大事に扱うんですね」
「そうかもしれませんね」
秋月さんは上巻の背表紙に指先をそっと置いた。
「大切なものを、離れて眺めているのが好きなんです。俯瞰して見るというか」
私はその言葉を聞いて、少しだけ秋月さんらしいと思った。
触れて壊すくらいなら遠くで見ていたい、そういう人なのだろう。
でも、あの雨の日には手を伸ばした。
私と同じ本に。
「春木さんは?」
「私ですか」
「本を集める時、迷いませんか。状態とか、値段とか」
「迷います。でも、欲しい時は買います」
「意外と積極的ですね」
「本に関してだけです」
そう言ってから、自分でその言葉に少し引っかかった。
欲しい本に関してだけ。
では、それ以外はどうなのだろう。
私は、欲しいものを欲しいと言える人間だろうか。
テーブルの上には、今日も上巻と下巻が並んでいた。秋月さんの手元に上巻。私の手元に下巻。並べれば一冊の物語になるはずなのに、まだどちらも相手に渡されない。
「今日もまだ上巻は、お借りできないですね」
「すみません」
申し訳なさげな表情で、伏せた目の睫毛が意外に長いのに気づく。
私は下巻を膝の上に置いた鞄へしまった。これ以上見ていると、何かを見透かされる気がした。
その夜、家に帰ってから、私は下巻を机の上に置いた。
表紙を撫でる。角は少し傷んでいて、背表紙は色あせている。それでも、ずっと探していた本だ。手元にあるだけで嬉しい。
でも、私は開かなかった。
最初は、下巻から読んでも仕方ないからだった。
今は、少し違う。
もし秋月さんが上巻を読み終えたら。
もし本を交換したら。
そのあと、私たちはどうなるのだろう。
会う理由は、まだ残るのだろうか。
そんなことを考えてしまった自分が嫌で、私は下巻を閉じたまま鞄へ戻した。
*
次に会った時、秋月さんは少し眠そうだった。
「お疲れですか」
「少しだけ。昨夜、上巻を読んでいたら遅くなりました」
私は思わず顔を上げた。
「読み終えたんですか」
秋月さんは一瞬だけ、言葉を探すように黙った。
「あと少しです」
「そうですか」
それ以上、私は言葉を続けることができなかった。
「はい。次には交換できると思います」
秋月さんはそう言って、珈琲を飲んだ。
次。
その言葉に、私は安堵し、そしてその次を考えて不安を覚えた。
喫茶店を出ると、外は小雨になっていた。
「おや、降ってきましたね」
秋月さんが空を見上げる。
「傘、お持ちですか?」
「今日は降らないと思っていました」
「前もそうして雨宿りする羽目になりましたね」
「それは春木さんでは?」
「だからこそ、今日は持っています」
私は鞄から折り畳み傘を取り出した。小さな紺色の傘だった。二人で入ると、少し狭い。
「駅まで、ご一緒しませんか」
「いいんですか」
「本が濡れると困るんで」
「僕じゃなくて本の心配なんですね」
「もちろんです」
そう言いながら、私は傘を開く。
秋月さんが少し身をかがめて、傘の中に入る。肩が触れるか触れないかの距離。雨の音が傘の上で細かく跳ねている。
「ありがとう」
「あら、そんな言葉は素直に出るんですね」
「人として当然ですよ」
「女性に本を譲る余裕はないようですけど」
「両成敗ですから」
「便利な言葉ですね」
言葉と裏腹に、二人とも顔には笑顔があった。
駅までの道を、私たちはいつもより少しゆっくり歩いた。
傘の中は狭く、時々身体が触れる。そのたびに、呼吸が速くなる。
秋月さんの肩越しに、私の傘が斜めに傾いていることに気づく。
彼の半身が、雨に濡れている。何か言わなければと思いながら、私は何も言わずに、傘を持つ手だけを少し彼の方へ寄せた。
けれど、不思議と窮屈だとは思わなかった。
駅前に着く頃、雨は弱くなっていた。
「次こそ、交換しましょう」
秋月さんが言った。
「はい、やっと読めますね」
それは本を交換する約束のはずだった。
けれど、私にはもう、そうとだけは思えなかった。
改札の前で別れ、私は一人で歩き出した。鞄の中には、今日も下巻が入っている。
まだ読めない本。
けれど今の私は、読めないことに少しだけ安心していた。
第4話 片方だけ残った本
古書店の前の貼り紙に、最初に気づいたのは私だった。
その日、私は秋月さんとの待ち合わせより少し早く着いてしまい、いつものように古書店の入口へ向かった。扉の上の鈴はまだ鳴っていない。けれど、ガラス戸の内側に貼られた白い紙を見た瞬間、足が止まった。
閉店のお知らせ。
その文字を読んで、私はしばらく動けなかった。
理由は、建物の老朽化と店主の体調。閉店日は、一か月後の日付になっていた。
いつもの古書店がなくなる。
そう理解した途端、胸の奥が冷たくなった。
ここで秋月さんと出会い、何度も待ち合わせをした。
店がなくなったら、私たちの関係はどうなるのだろう。
そんなことを考えていると、後ろから声がした。
「春木さん?」
振り向くと、秋月さんが立っていた。いつもの笑顔を怪訝そうに傾げて。
「どうかしましたか」
私は何も言わず、貼り紙を指さした。
秋月さんはそれを読んで、少しだけ目を伏せた。
「……そうですか」
「驚かないんですね」
「驚いています」
「そうは見えません」
「見えないだけです」
秋月さんは静かに言って、ガラス越しに店内を見た。
棚の隙間から、帳場に座る店主の姿が見える。いつもと変わらないように見えた。けれど、貼り紙があるだけで、その古い店内がもう過去のものになり始めている気がした。
「ビルの老朽化も、店主さんの体調も仕方ないことですね」
秋月さんが言った。
「仕方ない、で済ませられるんですか」
「済ませたくないですよ、でも、そう言うしかないこともあります」
秋月さんは、店がなくなった後のことを、もう考えているのだろうか。
私とのことも、その「後のこと」に含まれているのだろうか。
考え込んでいると、秋月さんが扉を開けて入っていったので、私は慌てて後を追って中に入った。
鈴が鳴る。
老店主が帳場から顔を上げた。
「見たかい」
「はい」
私が答えると、店主は小さくうなずいた。
「このビルも古いからね。建て替えることになったんだ。私も、そろそろ店に立つのがきつくなってね、この辺が頃合いかなと」
「そうなんですね」
「横にある喫茶店も同じビルだから閉めることになるね、うちの息子が経営してるんだが」
喫茶店までなくなる。
私は言葉を失った。
「建て替えた後は、息子がまた何か店をやりたいらしい」
「また喫茶店ですか」
「本と珈琲の店にしたいと言っていたよ。まあ、どうなるかは分からないけれどね」
本と珈琲。
その言葉に、私は少しだけ顔を上げた。
店主は店内を見回した。
「ただ、この棚だけは処分するには惜しい」
店の奥にある、古い本棚だった。私と秋月さんが、あの上下巻を取り合った棚でもある。傷だらけで少し傾いた、長い時間を支えてきた棚だった。
「よかったら、閉店まで少し棚の整理を手伝ってくれないか」
「私たち、ですか」
「ああ。君たちは、揃わない本の扱いには慣れているだろう」
店主がそう言うと、秋月さんが小さく咳き込んだ。
「それは、褒められているんでしょうか」
「さあね」
店主は楽しそうに笑った。
私は秋月さんと顔を見合わせた。断る理由はなかった。むしろ、まだこの店に関われる理由ができたことに、少しだけほっとしていた。
「私でよければ」
「僕も手伝います」
店主は満足そうにうなずいた。
それから私たちは、棚の整理を始めた。
古い本を箱に入れ、売るものと残すものを分けていく。埃をかぶった全集、背表紙の剥がれた文庫本、古い栞の挟まった単行本が出てきた。
その中に、上巻だけの本があった。
「あ」
私は思わず声を出した。
続けて別の棚から、下巻だけの本も出てきた。けれど、それは別の本だった。どちらも相手を失くしたまま、長い間ここに残っていたらしい。
「揃っていない本って、思ったより多いんですね」
私が言うと、店主は箱の中を覗き込んだ。
「そうだね。古書店にはよくある」
「こういう本は、どうするんですか」
「売れるものもあるし、売れないものもある。けれどね」
店主は上巻だけの本を手に取った。
「片方だけ残った本にも、片方だけの時間が流れているんだよ」
私はその言葉を聞いて、手を止めた。
「片方だけの時間」
「誰かが上巻だけを何度も読んだのかもしれない。下巻だけを失くさずに持っていた人がいたのかもしれない。揃っていないからといって、そこに何もなかったわけじゃないさ」
店主は本を箱に戻した。
「揃っているから価値があるわけじゃない。本も、人もね」
私は、自分の鞄の中にある下巻を思った。
そして、秋月さんの手元にある上巻を思った。
私たちが片方ずつ持っている本にも、時間は流れているのだろうか。そう思うと、秋月さんの顔を見ずにはいられなかった。
「春木さん」
秋月さんに呼ばれて、私は顔を上げた。
「大丈夫ですか」
「はい。少し埃っぽくて」
私は誤魔化すように笑った。
秋月さんはそれ以上聞かなかった。その距離の取り方が秋月さんらしく、いつもなら心地よかった距離が、その日は少しもどかしかった。
もう少しだけ、踏み込んで聞いてほしい。けれどそれは、私が踏み込めずにいるからこそ、彼に背負わせている願いでもあった。
作業は夕方まで続いた。
作業を終えたあと、私たちはいつもの喫茶店へ行った。
閉店を知ったせいか、奥の席に座っても落ち着かなかった。ここも、あと一か月でなくなる。
注文を聞かれて、秋月さんがいつものように言った。
「いつものでお願いします」
店員さんはうなずいて、厨房へ戻っていった。
私は窓の外を見た。
「お店がなくなったら、私たちどうするんでしょうね」
言ってから、胸が少しだけ痛んだ。
秋月さんはすぐには答えなかった。
「本の交換なら、別の場所でもできます」
「そういう話じゃなくて」
思ったより強い声になった。
秋月さんは私を見た。私はすぐに視線を逸らした。
「……そうですね」
少し間を置いて、彼は言った。
「そういう話では、ないですね」
その返事だけで、私は少し泣きそうになった。
本も交換していない。関係に名前もない。
それなのに、古書店も喫茶店も、先に終わりを決めてしまった。
その夜、家に帰ってから、私は下巻を机の上に置いた。
下巻は、これまでずっと読めない本だった。
でも今は、片方だけ残るかもしれない本に見えた。
片方だけ残った本にも、片方だけの時間がある。
店主の言葉は優しいはずなのに、その夜の私には、心細さだけが残った。
第5話 閉店前夜、言えない言葉
閉店前夜の古書店の棚は、もうほとんどが空いていた。
棚に並んでいた本は箱に詰められ、壁に貼られていた古いポスターも外されている。いつもなら本で狭く感じる通路が、その夜は妙に広く見えた。
私は秋月さんと並んで、最後の棚整理を手伝っていた。
「ここ、ずいぶん空きましたね」
私が言うと、秋月さんは棚の奥を見ながらうなずいた。
「最初に来た時は、もっと本が詰まっていました」
「最初に来た時?」
「春木さんと本を取り合った時です」
「あれは取り合ったんじゃなくて、私が先に手を伸ばしたんです」
「僕が先に見ていました」
「まだ言いますか」
そう言い合って、私たちは同時に少し笑った。
あの上下巻が置かれていた棚は、もうほとんど空になっていた。残っているのは、古い文庫本が数冊と、売り物にならない傷んだ単行本だけ。あの日のことが、急に遠く感じた。
店主は帳場のあたりで、残す本と処分する本を分けていた。喫茶店の店主である息子さんも、時々こちらへ顔を出しては、箱を運んでくれる。
「この棚は、残せそうなんですか」
私が聞くと、店主は少しだけ顔を上げた。
「ああ。息子が、建て替えた後の店に置きたいと言っていてね」
「本と珈琲の店、ですか」
「まだどうなるか分からないけれどね。少なくとも、この棚が残るなら、私も少しは安心できる」
私は棚に手を触れた。
傷だらけで、少し傾いた棚。ここで私は秋月さんと出会った。上巻と下巻を分け合った。
棚が残ることは嬉しい。
でも、そこに私たちがいるとは限らない。
そう思った時だった。
「春木さん」
秋月さんが静かに私を呼んだ。
振り向くと、彼は一冊の本を箱に入れかけたまま、少し迷うような顔をしていた。
「少し、話してもいいですか」
「はい」
店内は片づけの音で静かではなかった。けれど、その声だけが妙にはっきり聞こえた。
「来月から、海外に赴任することになりました」
私は、すぐには意味が分からなかった。
「海外、ですか」
「はい。期間は、予定では二年です」
「二年」
繰り返した声が、自分のものではないみたいだった。
二年という長さが、長いのか短いのかわからない。まだ二人の時間は始まっていない。
二年後に、二人の時間を繋ぎ直せたとして、まだ私は二十代ではある。けれど、そこから先の時間はどうなるのだろう。そんな混乱した気持ちでいっぱいだった。
古書店がなくなる。
喫茶店もなくなる。
そのうえ、秋月さんまで遠くへ行く。
一つずつなら受け止められたかもしれない。けれど、全部が同じ時期に終わっていくのは、あまりに急だった。
「言うのが遅くなって、すみません」
「いつ、決まったんですか」
「少し前です。でも、確定したのは最近で」
「そう、ですか」
私はそれ以上、何を聞けばいいのか分からなかった。
行かないでほしい。
そんな言葉が喉の奥まで出かかった。けれど、それを言える立場でないのは分かっていた。私たちは恋人ではない。本を交換する約束をして、何度も会って、いつもの席までできた。それでも、私たちの関係にはまだ名前がない。
秋月さんには仕事がある。人生がある。祖母の本を大切にしていたように、きっと大切にしているものがある。
だから私は、何も言えなかった。
「向こうでも、その本を読むんですか」
代わりに出てきたのは、そんな言葉だった。
秋月さんは少しだけ驚いた顔をして、それから上巻を見た。
「読めたら、と思っています」
「まだ読み終わっていないんですか」
「……もう少しです」
「本当に?」
「本当です」
それが本当かどうか、私はもう分からなかった。分からないまま、分からないふりをした。
店主が休憩にしようと言って、帳場の奥から湯呑みを持ってきた。息子さんが喫茶店から持ってきたポットで、温かいお茶を注いでくれる。
「最後の夜だからね。少し休みなさい」
湯気が立ちのぼった。
秋月さんが湯呑みを受け取った瞬間、その眼鏡が白く曇った。
あの日と同じだった。
雨の日の古書店で、初めて会った時も、彼の眼鏡は曇っていた。あの時の私は、ハンカチを思い浮かべただけで何もしなかった。
今度は、手が動いた。
鞄の中のハンカチに、指先が触れる。
けれど、私はそれを取り出せなかった。
今ここで差し出したら、何かが変わってしまいそうだった。変わってほしいのに、変わるのが怖かった。
秋月さんは自分で眼鏡を外し、ハンカチでレンズを拭いた。
私は、ほんの少し遅かった自分の手を、鞄の中で握りしめた。
「熱いですね」
秋月さんが言った。
「そうですね」
私はそれだけ答えた。
お茶の味は、よく分からなかった。
休憩の後、私たちは最後の箱を運んだ。棚はほとんど空になり、店内には本の匂いだけが残っているようだった。
店主が入口の方を見た。
「長いこと鳴ってくれた鈴だ」
扉の上の鈴は、私がこの店に来るたびに鳴っていた。秋月さんと出会った日も、何度も待ち合わせをした日も。
店主は店内の灯りを一つずつ落とした。
最後に、私たちは外へ出た。
店主が鍵を閉める。小さな金属音がする。もう一度扉が揺れて、鈴がかすかに鳴る。
それが、古書店で聞く最後の鈴の音だった。
隣の喫茶店も、明日で閉まると聞いた。窓の向こうには、椅子を片づける息子さんの姿が見えた。いつもの席も、もうすぐなくなるのだと思った。
「春木さん」
秋月さんが言った。
「行く前に、本を交換しませんか」
私は顔を上げた。
「交換」
「はい。僕が持っている上巻を、春木さんに。春木さんの下巻を、僕に」
「向こうへ持っていくんですか」
「そのつもりです」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
自分の下巻が、秋月さんと一緒に遠くへ行く。そう思うと寂しいのに、少しだけ安心もした。彼の手元に私の持っていた本があるなら、何かがつながっている気がした。
「戻ったら、また交換しましょう」
秋月さんはそう言った。
待っていてほしい、とは言わなかった。
私も、待っています、とは言えなかった。
「はい」
代わりに、私は頷いた。
「交換しましょう」
それが約束なのか、別れの準備なのか、私には分からなかった。
帰り道、私は鞄の中の下巻を握った。
この本を、近いうちに秋月さんへ渡す。そうしたら、私の手元には彼の上巻が残る。
古書店も、いつもの席も、少しずつ手を離れていく。
秋月さんも、遠くへ行く。
私はその夜も、行かないでとは言えなかった。
待っているとも、言えなかった。
第6話 下巻の彼と上巻の私
彼の出発の日、空はよく晴れていた。
雨が降ればよかったのに、と少し思った。
あの古書店で出会ったのは雨の日だった。一つの傘で駅まで歩いたのも雨の日。雨があれば、何か似たものをもう一度なぞれた気がした。けれど空は澄んでいて、駅前のロータリーには冬の柔らかい日が差していた。
待ち合わせ場所に行くと、秋月さんは先に来ていた。スーツケースは持っていない。前夜のうちに空港の宅配へ預けたのだと言った。
「身軽ですね」
「これからの方が、荷物は増えますから」
駅前のベンチに、二人で腰を下ろした。冬の朝の空気は乾いていて、人の声が遠く聞こえた。
「では」
秋月さんが言った。
「交換、しましょうか」
「はい」
私は鞄から下巻を取り出した。秋月さんも鞄から上巻を取り出した。膝の上で、二冊が並ぶ。それは、あの雨の日の棚の前以来のことだった。
「なんとか読み終わりました」
秋月さんが言った。
「上巻、ですか」
「はい。ようやく」
彼は上巻を私の方へ差し出した。
「今度はあなたが読んでください」
私はそれを両手で受け取った。少し重く感じた。表紙を撫でる。背表紙は色あせ、角は前と同じように傷んでいた。けれど彼の手元にあった、それだけの違いがあった。
代わりに、私は下巻を彼に差し出した。
「私の方は、まだ読んでいません」
「では、向こうで楽しみに読みます」
「ゆっくり読んでください」
「はい」
秋月さんは下巻を、丁寧に鞄へ入れた。
それで、交換は終わった。
たった一往復のやり取りだった。あの雨の日からここまで、半年以上かかった一往復だった。
「向こうのこと、また聞かせてください」
「もちろん。ご連絡します」
「待っています」
言ってから、自分でも少し驚いた。
待っています、と言えた。
彼は私を見て、それから少し笑った。
「必ず、下巻を渡しに帰りますね」
彼の眼鏡は今日は曇っていない。冬の朝の光が、レンズに少しだけ反射していた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
改札の前で、私たちは別れた。秋月さんは振り返らなかった。それが彼らしいと思った。
ホームに彼の姿が消えたあと、私は一人で駅前に出た。
鞄が、いつもより少しだけ重く感じた。
その夜、私は上巻を机の上に置いた。
長い間、下巻と並べたいと思っていたものだ。けれど今、私の前にあるのは上巻だけ。今度は私の方が、上巻だけを持っている。
手に上巻をとる。
あの雨の日からずっと秋月さんが持っていた本。
半年のあいだ、彼の鞄の中にあって、彼の手で何度かページがめくられた本。背表紙の色あせ方は私の下巻と同じはずなのに、なぜか手のひらに伝わる重みが違って感じられた。
ページをめくっていくと、古い栞が挟まっていた。押し花の栞。
誰が、いつ挟んだものなのか、私には分からなかった。秋月さんが挟んだものなのだろうか。それとも、もっと前から、この本のどこかに挟まっていたのかもしれなかった。
いつかどこかで、誰かが大切に挟んだ栞だ。それが今、私の手のひらにあった。
私はその栞を手に取って、くるくる回して眺めた。
一通り眺めた後に、私は、初めから読み始めた。
一文一文、読み進めながら、そのたびにこれを読んだ秋月さんがどう思ったのか、それが気になった。
一冊の本に、二人の時間が層になっていた。
考えながらだと、なかなか読み進めることができない。
でも、急ぐ理由はなかった。下巻は私の手元にはない。彼が読み終えるまで、私もゆっくりここで読んでいればいい。
*
秋月さんからの最初の連絡は、出発の翌週に届いた。
『無事に着きました。時差ぼけがひどいです』
たった一行のメッセージだったが、それを見ただけで、私は妙に安心していた。
それから、私たちは時々連絡を続けていく。
春になった頃、彼は住んでいる街並みの写真を送ってくれた。窓から見える景色、出勤の途中の小さなパン屋、休みの日に歩いた公園。
私は、私の方の小さな出来事を返した。喫茶店の建物が解体されたこと、跡地に新しい工事が始まったこと、店主さんを駅前で見かけたこと。
『下巻、読み進めていますよ』
夏に入った頃、そんなメッセージが届いた。
『どこまで読みましたか』
『言えません。ネタバレになるので』
『私はもう3回も読み直しましたよ』
『早いですね。僕も頑張って読みますね』
彼の返事に、不思議と頬が綻んだ。
夏の終わり、彼から夜景の写真が届いたことがあった。窓ガラスに彼の姿が薄く映り込んでいて、眼鏡をかけた横顔が一瞬だけ見えた。
『そちらの夜は、こちらの朝より早いんですね』
『はい。でも、こんな時間まで起きている日は、つい春木さんに送ってしまいます』
その「つい」を、私は何度か読み返した。
秋が深まる頃、メッセージの間隔は少しずつ開いていった。
仕事が忙しいのだろう、と私は思った。私の方も、店主さんから預かった本棚や蔵書を整理する日々が続いていた。息子さんのブックカフェが、もうすぐ開く。話したいことはたくさんあった。けれど、向こうの夜と、こちらの朝の重なる時間を待っていると、結局そのまま流れてしまう日もあった。
*
そして冬が訪れ、別れてから一年が過ぎた頃、夜遅くに彼から短いメッセージが届いた。
『明日、少しバタつきます。落ち着いたらまた連絡します』
私はそれを読んで、軽く返した。
『お疲れさまです。無理しないでください』
既読がついた。
それが、最後だった。
一週間が過ぎても、次の連絡は来なかった。仕事が忙しいのだろう、と私は思った。
二週間が過ぎた頃、私は短いメッセージを送ってみた。「ブックカフェの開店が決まりました」と、それだけ。
既読は、つかなかった。
一か月が過ぎ、二か月が過ぎた。既読のつかないメッセージが、私の画面に少しずつ積もっていった。
最初は、仕事が忙しいだけだと思っていた。けれど、何ヶ月も途切れるのは、これまでなかった。
事故にあったのではないか。病気で倒れているのではないか。海外で何かに巻き込まれたのではないか。
あるいは、もう少し穏やかな理由かもしれなかった。新しい街に親しい人ができて、私との連絡を続けにくくなったのかもしれない。あるいは、もうこの関係を終わらせたいけれど、終わらせる言葉が見つからずに、黙っているだけなのかもしれない。
いちばん怖かったのは、彼が私のことを忘れていることだった。
時々、自分が何か悪いことを言ったのではないかと、過去のやり取りを遡ることがあった。最後の「お疲れさまです。無理しないでください」が、彼の負担になったのではないか。そんなはずはないと頭では分かっていても、夜に何度かそのメッセージを開いた。
それでも、私は彼の勤務先に電話することはできなかった。私たちは、まだそういう関係ではなかった。本のためですから、と何度も言い合った関係のままだった。
待っています、と駅で言った。
それが、私の言える限界だった。
*
ブックカフェが開いたのは、最後の連絡から半年が過ぎた夏のことだった。
私はその店で働かせてもらうことになった。
店主さんは、私に古書店の棚と、選んだ蔵書の一部の管理を任せてくれた。
「あの棚に並べてくれる人がいて、よかった」
そう、店主さんは笑った。
ブックカフェのカウンターの奥に、あの傷だらけの棚が据えられた。私と秋月さんが、最初に本を取り合った棚だった。そこに私は、譲り受けた本を少しずつ並べていった。
上巻は、その棚には並べなかった。
下巻がここにない以上、片方だけを並べることはできなかった。「片方だけ残った本にも、片方だけの時間がある」と店主さんは言ったけれど、私はまだ、それを棚に並べる気持ちにはなれなかった。
上巻は、カウンターの内側の、私だけが手を伸ばせる小さな棚に置いた。
雨の日になると、私はその棚を見た。
夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬になった。
雨の日、私は時々スマートフォンを開いた。最後の彼のメッセージは、もう一年も前のものになっていた。既読のままで止まっている自分の返事を、私は何度か読み返した。
返ってこない言葉に、新しい文字を書き足すことは、もうしなくなっていた。送れば送るほど、既読のつかないメッセージが増えるだけだった。それが、過ぎていく時間の意味のような気がしていた。
扉のベルが鳴ると、無意識に顔を上げる癖が抜けなかった。お客さんが入ってくるたびに、ほんのわずか、息を止める。それから、別の人だと分かって、私は何でもない顔で「いらっしゃいませ」と言う。それを何度繰り返したかは、もう数えていなかった。
彼から次の連絡が来ることは、なかった。
第7話 同じ本棚に並ぶまで
窓の外の雨が目に留まる。
こんな日になると、私はカウンターの内側にある小さな本棚に目を奪われる。
上巻だけのその本。
これと出会ったのも、窓の向こうが淡く滲む日だった。
*
ブックカフェのカウンターに私が立つようになって半年以上が過ぎた。彼と別れてから、約束の二年はもう過ぎていた。
店主さんの息子さんが始めた小さな店は、思っていたよりずっと地元の人に馴染んでくれた。雨の日も、晴れの日も、ぽつぽつとお客さんが来る。私のことを店の人として覚えてくれる人も増えた。
最初の頃、私は注文を取るのが苦手だった。覚えきれなくて、メモをずっと手にしながら動いていた。
本が好きでいつも来てくれるお客様たちは、そんな私を優しく見守ってくれた。そうこうしているうちに、私もこの店の仕事にすっかり慣れていた。
待っています、と駅で言ったきり、何度も季節が過ぎた。
彼から連絡が来ることは、もう、ないのかもしれなかった。それでも、上巻はあの棚に並べることができないままだった。並べないことが、私の中で、いまだに「待っている」ことの証拠のような気がしていた。
*
ベルが鳴ったのは、午後のことだった。
雨の音が一瞬大きくなって、ふっと閉じる。私は「いらっしゃいませ」と顔を上げた。
扉のところに、彼が立っていた。
濡れた肩。畳んだ傘。少し疲れた顔。
眼鏡が曇っていた。
心臓が、一度強く跳ねた。
現実味がなかった。あの古書店で何度も雨の日を待ったみたいに、この場面を私はずっと頭の中で繰り返してきた気がする。
けれど、私が想像してきたどの場面とも、目の前の彼は少しずつ違っていた。
彼は普通の顔をしていた。少し痩せたかもしれない。それくらいだった。
彼は眼鏡を外して、自分のハンカチで拭いた。かけ直すと、店内をゆっくり見渡してから、私の方へ歩いてくる。
手に、見覚えのある本があった。
下巻。
あの日、駅で渡したものだった。
「春木さん」
彼が言った。
「ご無沙汰しています」
その一言で、内側の何かが溢れそうになった。けれど、私は息を整えてから返事をした。
「秋月さん」
「はい」
「お元気でしたか」
言うべき言葉ではなかった気がする。けれど、最初に出たのは、その言葉だった。
「元気です」
彼は少し笑い、それから真顔に戻った。
「先に、謝らせてください」
彼は頭を下げた。
「連絡が途絶えたまま、今日になりました。本当に、すみませんでした」
話を聞くと、こうだった。
あの「明日バタつきます」と送った翌日、彼は急な出張で別の街へ移ったそうだ。移動先でスマートフォンを落として壊した。データはほとんど失われた。新しい端末を手に入れたあとも、メッセージアプリは元のアカウントの復旧ができなかった。海外の通信事情と認証の手続きがことごとく噛み合わず、彼は私の連絡先を失った。
覚えていたのは、私の名前と、古書店のあったビルの場所だけだった。
「日本に戻ってきたのが、先週です。あの古書店のあった場所を訪ねたら、新しいビルになっていました。一階に本のあるカフェがあって、もしかして、と思いました」
「探して来てくださったのですね」
「ずっと、探していました」
その「ずっと」と言う言葉が、心に深く染み込んだ。
「もっと早く戻ってこられればよかった。連絡を絶やしたかったわけではないんです。けれど、結果として、長いあいだ春木さんを待たせてしまいました。本当に、すみません」
彼はもう一度、頭を下げた。
私は急いで首を振った。
「顔を、上げてください」
秋月さんはそれでもしばらく頭を下げたままだった。やがてゆっくり顔を上げて、私を見た。
私は、自分の中で長いあいだ整理してきた言葉を、ようやく口にすることにした。
「秋月さん。私の方こそ、謝りたいことがあります」
「春木さんが?」
「あの雨の日、本を譲らなかったのは、ただの意地でした。私の好きな作家の、最後のピースだったので」
彼は黙って、私を見ている。
「でも、何度かお会いするうちに、秋月さんがお祖母さまのことを大切に思っているのが分かって、本当は私が下巻もお譲りするべきなんだと、ずっと思っていました」
「春木さん」
「それでも、譲れませんでした。交換してしまったら、もう会う理由がなくなる気がして。秋月さんと過ごす時間が、終わってしまう気がして」
彼は、何も言わずに私を見ていた。
「最後まで、行かないでとも、待ってますとも、はっきり言えませんでした。駅で『待っています』と、それだけ言うのが私の精いっぱいだったんです」
「あの言葉は、嬉しかったです」
秋月さんが、静かに言った。
「あれがなかったら、僕はたぶん、戻ってこられなかった」
言いながら、私は少しだけ笑った。泣いてしまいそうだったから、笑った。
秋月さんは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくり口を開いた。
「僕の方も、本だけが欲しかったわけではありません」
「秋月さん」
「祖母の本だ、と言えば、あなたが引いてくれるかもしれないと、最初は少し思っていました。でも、何度かお会いするうちに、引かれたくないと思うようになりました。引かれてしまったら、もう会えなくなりますから」
「それで、なかなか上巻を読み終えなかったんですね」
「読み終えてしまったら、交換することになりますからね」
「そういうところは、私と一緒だったんですね」
「両成敗ですから」
私たちは、少しだけ笑った。
その笑いは、あの古書店で初めて二人で笑った時よりも、ずっと自然だった。
「『必ず返しに帰る』と、駅で言いましたよね」
「はい」
「軽率に言いすぎました。でも、あの言葉が、二年間、僕を支えていました」
「ちゃんと、返しに来てくれましたから」
「はい」
「秋月さん」
「はい」
「上巻、お返しします」
私はカウンターの内側の棚から、上巻を取り出した。長いあいだ、私だけが手を伸ばせる場所に置いていた本だった。それを、彼の前にそっと置いた。
「いいんですか」
「はい」
彼は上巻を手に取り、自分の鞄から下巻を取り出した。二冊が、ようやく揃って並んだ。
「春木さん」
「はい」
「これは、もう交換しないことにしませんか」
「交換、しない」
「上巻も下巻も、ここの棚に並べる。それでよければ、ですが」
私は、店の奥の棚を見た。古書店から引き継いだ、傷だらけの本棚。私と彼が最初に出会った場所そのものだった。
所有するためじゃなくて、共有するために。
言葉にしなくても、私たちは同じことを考えている気がした。あの雨の日、二人で一冊を取り合った場所に、二冊で戻ってくる。それが、私たちなりの答えだった。
秋月さんが私を見つめながら口を開いた。
「ここにくれば揃っている。僕はそれがいいです」
私は笑顔で答えた。
「はい、私もそうなれば嬉しいです」
私たちは二冊を、その棚に並べた。
上巻と下巻が、ようやく寄り添うように並んだ。
しばらく、私も秋月さんも、何も言わずにその二冊を眺めていた。
あの雨の日、私たちはこの本を取り合っていた。どちらも譲らずに、店主に両成敗されて、半分ずつ持ち帰った。それからの長い時間が、私の中で短く巻き戻されていく。
長かった、と思う。けれど、ここまで来てしまえば、長さよりも、二冊が並んでいるというその事実が、とても大切で、ここまでのいろいろな出来事が、無駄だとは思えなかった。
それから彼はカウンター席に戻り、椅子に座った。
「ご注文は」
私が聞くと、彼は少し考えて、笑った。
「いつもの、お願いします」
「いつもの、というと」
「ブレンド珈琲です。覚えていますか」
「もちろん」
私はゆっくり珈琲を淹れた。あの古い喫茶店で何度も飲んだ味に近づくよう、息子さんに教わって覚えた淹れ方だった。
白いカップから、湯気が細く立った。
彼の眼鏡が、また少し曇った。
今度は、私の手が迷わなかった。エプロンのポケットからハンカチを取り出し、自然に差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
彼は当然のように受け取り、眼鏡を拭いた。礼を言うその声に、初めて会った日のような遠慮はもう、なかった。
外の雨が、少しだけ強くなった。
ガラス越しの景色は滲んでいたけれど、店の中の湯気は静かに立っていた。
私は、カウンターの内側からふと、奥の棚を見た。
あの傷だらけの本棚に、上巻と下巻が、寄り添うように並んでいる。




