第1話 モブ、学園アイドルの彼氏にされる
「走って!」
そう叫んだのは、学校で誰もが知る美少女――橘紗月だった。
俺、水野悠真はと言えば、現在進行形で彼女に腕をがっちり掴まれ、必死に駆けていた。
息が上がって足がもつれそうになる。
それでも橘は振り返りもせず、一直線に路地裏を突き進む。
いやいやいや、なんで俺がこんな状況に巻き込まれてんの!?
「ちょっ――速い! お前、足速くない!?」
「いいから走って!」
「走ってるけど!? つか説明してくれ!」
「後で! 全部あとで!」
「全部って何だよ! 全部の意味がわからないんだよ俺!!」
橘は一切振り返らない。
商店街の裏を抜け、住宅街を駆け抜ける。
振りほどく暇もないし、学園のアイドルの手を無理やりほどいていいのかもわからない。
◇
俺の平穏な日常は、つい数分前まで確かに存在していた。
放課後の帰り道。
悪友の矢野暁斗と並んで歩いていた。
こいつはいつも通りポテチを片手に、スマホで何かのガチャを回している。
「やべ。デイリーミッション忘れてた」
矢野が足を止め、ポテチの袋を俺に押しつけて両手でスマホを操作し始めた。
「早くしろよ。コンビニ寄るんだろ」
「うるせ、三十秒で終わる」
こいつの三十秒はだいたい三分だ。
俺はポテチを一枚つまんで、ぼんやりと視線を彷徨わせた。
商店街の裏手に続く路地。
そこに、スーツ姿の男が二人いた。
その間に挟まれるように、うちの制服を着た女子が立っている。
橘紗月。
別クラスの有名人。俺とは住む世界が違う人。
遠目からでもわかるくらい、嫌そうな顔をしていた。
「紗月ちゃん、お兄さんに頼まれてるんだから。ね? 今日は大人しく――」
「だから、大丈夫だって言ってるのに!」
不穏すぎる。
「悠真、警察呼ぶか?」
矢野がスマホの画面から目を上げないまま、冷静な声を出した。
それが一般市民の正解だ。
俺はモブだ。
こういう時は速やかにその場を離れて通報するか、見なかったことにするかのどちらかを選ぶべきなのだ。
――なのに。
俺はポテチの袋を矢野の胸に押し返し、勝手に足を踏み出していた。
「あの、すみません。その人、知り合いなんですけど」
……なんで声かけてんだ俺!? 知り合いでもなんでもないだろ!
振り向いたスーツの男たちがいかつい。
完全に失敗だ。無理無理無理!
しかし橘は違った。
ハッとして顔を上げた彼女と、バチッと目が合う。
制服を――うちの学校の制服を、橘の目が捉えた気がした。
次の瞬間。
橘が猛然と飛びついてきた。
そして俺の後ろに回り込むようにして、腕をがっしり掴んだ。
「この人が私の彼氏です!」
「は?」
「ごめん、走って!」
そして現在に至る。
待ってくれ。
彼氏ってなんだ。俺さっき彼氏って言われた?
っていうか矢野のヤツ、絶対ポテチ食いながら見てるだろ!
「橘さん! もういいだろ、誰も追ってきてないって!」
「だめ! お兄ちゃん、しつこいから絶対追ってくる!」
「お兄ちゃん!?」
「心配症なだけで、悪い人じゃないんだけど……」
「さっきの状況で悪い人じゃないは無理がある!!」
「細かいことは気にしない!」
気にするわ! 全然細かくないだろ!
すれ違う人たちの怪訝な視線を浴びながら、住宅街を猛スピードで駆け抜ける。
万年帰宅部の俺の体力は、すでに底を突きかけていた。
「ひっ、はっ……肺が、死ぬ……!」
「あ、公園! あそこ入ろ!」
俺の悲鳴は届かない。
◇
桜ヶ丘公園の広場まで走り込んで、橘がようやく立ち止まった。
俺はベンチに倒れ込む。
肺が限界だ。今日だけで数ヶ月分の運動をした気がする。
――すとん。
軽い音がして、橘が俺のすぐ横に座り込んだ。
近い。肩が触れそうな距離感だ。
橘が、笑った。
「あっはは、走った走った! すごい、めっちゃ走ったね!」
「笑いごとじゃ……ないだろ……っ」
「ごめんごめん。でも助かったー」
息を切らす俺の横で、橘は平然と事情を説明し始めた。
心臓がまだうるさい俺との温度差がすごい。
「あの人たち、うちの親戚なの。お兄ちゃんが様子見に寄こしたっぽくて」
「し、親戚?お兄ちゃん?」
「そう! 私に変な虫がつかないかって――もう、ほんとしつこいんだよ」
「はぁ、はぁ……。か、過保護すぎ?」
「ね! 私もう高校生なのに!」
心の底から共感を求める目で見つめてくる。
……いや、巻き込まれてる俺に言われても。
「ていうか、さっき、俺を何て言った?」
橘がわずかに目をそらした。
「……彼氏って言ったね」
「俺、橘さんと今日が初対面だけど」
「そうだね」
「知り合いですらない」
「そうだね」
「彼氏はさすがに飛びすぎじゃない?」
「知り合いだと弱いじゃん。でも彼氏だったら追いかけにくくなるでしょ」
「なるほど……?」
橘はあっさり言った。
そのせいで思わず納得しかけたけど、それ理屈繋がってるのか……?
とりあえず落ち着け俺。
橘は笑っていた。申し訳なさの欠片もなく、本当に楽しそうに。
学園のアイドルが、公園のベンチで俺の隣で笑っている。
意味がわからない。
「怒ってる?」
「状況の整理が全然追いついてない」
「そっか」
橘は少しだけ視線を落とした。
「助けてくれてありがとう」
橘からさっきまでの勢いがなくなってる。
……そんな表情されても困るんだけどな。
「……誰もいなかったし」
「え?」
「通りかかって、誰も動かなかったから。声上げたくなっただけ」
つい言い訳がましく説明してしまった。
橘は少しだけ黙って、俺を見た。
「……面白い人だね」
「いや、面白くはねえだろ」
ようやく息が整ってきたところで、俺は自分の腕に気づいた。
掴まれている。
走り終わって、止まって、呼吸も整い始めているのに。
橘の指は、俺の腕からまだ離れていなかった。
本人は完全に気づいていない顔で喋っている。
パーソナルスペースって概念がないのかこいつは。
「あの……」
「え、なに?」
「……手」
橘が首をかしげる。
マジか。この至近距離でわからないのか。
「腕、まだ掴んでる」
「あ」
指が、すっと離れた。
「ごめん! 掴みっぱなしだった」
「いや、まあ」
なんだか急に手が軽くなった気がする。なんでだ。
そんな軽い葛藤をしてたら、橘が動いた。
もう少し近くから、横顔を覗き込むように。
「っ……ちかっ」
「名前、なんていうの?」
「……水野。水野、悠真」
「水野くん」
橘が繰り返した。
学園のアイドルに名前を呼ばれた。
今更ながらその衝撃に、思わず俺は完全に言葉に詰まってしまった。
「私、橘紗月」
「……知ってる」
「知ってたんだ」
橘は少し嬉しそうに言った。
なんでそこで嬉しそうにするんだ。
知ってて当然だろ……。
橘は勢いよく立ち上がった。
「ごめんね、急に巻き込んで。ありがとう、水野くん。本当に助かった!」
全開の笑顔。
思わず見惚れる。
「じゃあね!」
手を振って、橘は高台の方に走っていった。
振り返りもしなかった。
取り残された俺は、ベンチで一人呆然としていた。
……なんなんだ、マジで。台風かよ。
さっきまで掴まれていた袖を見た。指の形なんか残っていない。
残っていないのに――まだ、温かい気がする。
いや、走った直後で体温が上がっているからだ。
それだけだ。勘違いするな。
ブーッ、と。
ポケットのスマホが震えた。矢野からのLINEだった。
『見てたぞ』
『自分から声かけといて、巻き込まれたとか言うなよ?』
……コイツ。
ていうか、完全に巻き込まれ事故だろ!
俺は逃げるように画面を閉じた。
そう、巻き込まれただけだ。
明日からも俺の平穏なモブライフは続くはず……だ。
――学園のアイドルと、自分から関わってしまった事実。
そして何より、矢野にすべて見られていたという事実が、明日の学校生活にとんでもない波乱を呼ぶ気がしてならなかった。




