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「陛下。程なく我が軍の布陣が完了します」
『ソ』字型の襟のゆったりした着物を着る、三梁冠を被った宰相が、拱手の礼の形で報告した。眉毛がフサフサと豊かで、喉にまで届く長いヒゲを垂らしている。
相手は宋の太宗、超光義だった。彼は金属製の兜を被って鎧を纏い、戦う装いだった。
彼等を中心に集合し、方形に整然と並んでいる大人数の者たちは、皆、武装した武人だった。戦が行われる気配が濃密に漂っている。
「うむ」、と太宗が答えるが、その面差は暗く、不安を抱えているように見える。他の兵士たちが無垢の金属を加工した鎧を装備しているのに対し、太宗は金色に煌めく装飾性の高い鎧を装備して、一際威光を放っていた。
彼の目は、夕焼けに橙に染まり、陰翳の濃い眼下の風景に注がれていた。向かって東西に長大に伸びる土塁があり、それは遥かなるかつて、偉大な帝王が国境の印として構築させたという万里の長城だった。長城とはいっても、ただの土塁に過ぎず、戦略的効果はあまり高くなく、突破するのはそう難しくはなかった。だが、長城の周りは、薄い下草が生えた野原で、勾配があり、進行は決して易しくなさそうだった。
長城の向こうは、『契丹』と呼ばれる、宋にとっての外敵の領域となっている。遊牧狩猟民族であり、略奪を常とし、帝王にとって悩みの種の一つである。
「やれやれ」、と太宗。「こういう荒っぽいことは本来好かんのだが」
「歴代王朝から今に至るまで、我が国は異民族との争いは避けられずに来ていると聞きます」
宰相が太宗と同じ方に目を向けて言う。
「政治というのは、片時も気を抜けぬものだな。国内は平穏であっても、国境は常にピリピリと緊張している」
二人は目線を上げたが、夕陽が眩しく、目が眩むようだった。
「宰相よ、武官たちに伝えてくれ。布陣を維持して、各自夜明けの開戦に備えて休養するように、と。わたしも少しゆっくりさせて貰うとするよ」
「仰せの通りに」
宰相は太宗に一礼して受諾し、太宗は場を離れ、どこかに行ってしまった。
夏の風なのに冷感が強いのは、高所だからだった。そこは高台で、上には軍人が集合しているが、下方には別動隊がいて、井蘭という高塔や衝車などの攻城兵器を木立に隠して目立たないように管理していた。
太宗の気配が完全になくなったと悟ると、宰相は頭を上げ、再び長城の方を見、考え事に耽った。
――陛下はあまり軍事に秀でてはおられない。それゆえ文官を重んじられ、他方あまり武官は重んじられないのだが。
「命令がある」、と宰相は手近にいる兵に声をかけた。兵は背筋をピシッと伸ばして色を正す。「将軍たちをただちに集めよ。陛下の下命を伝えねばならない」
そう命じると、兵はキビキビした動きで各方面に宰相の言を伝えるべく向かった。
命令の後、宰相は空を見上げた。夜の闇がうっすらと夕焼けの背後に潜んでいるような模様だった。
――地方に配した武人の勢力をそぎ落とし、権力を王朝に集約するというその狙いのために、陛下は政務に従事しておられる。だが、陛下の価値の置き方にはいささか偏頗があるように思われるが……。
宰相の名は、何仁安と言った。
◇
夕方の蔡家。
畑仕事を終えて荒円と芸輪が衣服を汚し、農具を持って帰宅するが、息子のいないことに気付き、荒円が「葵千」、と呼んでみるが、返事がなく、彼は不在のようだ。
荒円たちは、息子が外に勉強しに書物を持って出ていくことを知っているが、その書物は家の中に、一冊残らず置きっぱなしになっている。
「アイツ、ずっとしてきた勉強を、最近はあまりしてないようだが」
「最近、やる気が削げちゃったように見えます」、と芸輪。
「どうしてだ?」、と荒円は妻を睨み付けて訊く。
「さぁ、わたしにはさっぱり」、と答える芸輪の眉間には、困惑の皺が刻まれている。
「まったく」
そうボヤき、荒円は農具を壁に立てかけ、とりあえず地面にドサッと座り、どこか思い悩む感じだ。
その様を見て、芸輪も農具を片付け、その後、荒円の隣に座り、二人して、息子について頭を悩ませるのだった。
……。
その葵千は、外に出ていた。村の外の、村に程近い、荒円が釣りに出かける川辺にあぐらを組んで座り、何度もため息を吐いていた。
勉強しなければ、と思うのだが、雑念が絶えず湧いて、気が散った。
旭光の話が中々忘れられなかった。
彼の話によれば、近い将来、この村に政変が起きることになる。具体的にどうなるかは分からない。詳細の省かれた話で、そのため葵千は、なおさら想像が膨らみ、あれこれいたずらに思い浮かべてしまうのだった。
村がどうにかなってしまうのならば、今勉強などしている場合ではないのではなかろうか。葵千はそう考えた。だが、何がどういう形で起きるか分からない以上、有意なことは何も出来なかった。
流れる川面に、木の葉が一片、軽やかに落ちていった。木の葉は川の流れに運ばれて、遠くへと行ってしまう。
この虞丈も、流される木の葉のようなものではないか。そのように、葵千には思われるのだった。




