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「父上」


 憑円がポツリと呼びかける。


 駘東は特に返事しなかったが、娘は続けた。


「葵千が持ってる書物って、父上がお貸しになったものでしたよね」


 灯火が灯火器で揺れて、小さい空間を明るく照らしていた。


 夜、馮家は就寝の頃合いだった。


 憑円と駘東の二人はそれぞれ、板間に並ぶ布団で寝ていた。布団というのはぜいたく品だが、彼女の家は、あるじである駘東の、栄月の侍従という卑しからぬ身分のため、小ぎれいな四合院建築で、家具調度が備わっていた。憑円には母がいなかったが、小さい頃に病気で他界したのだった。


「そうだが」、と駘東。


「葵千は勉強を頑張ってますけど、十四歳っていう年で、科挙……でしたっけ?って受けられるものなのかなぁ、と思って」


「科挙に年齢制限はない、受験者の年齢は実に幅広い、童もいれば、老人もいる。求められる学力さえあれば、だれでも受かる。だが――」


 駘東は少しためらうように間を置くと、続けた。


「葵千くんの家は貧しい。彼が科挙に受かるまで、家計が持つかどうか」


「……」


 父の言葉に、娘は小さく鼻でため息し、沈黙した。葵千への同情のためだった。


「学力さえあれば、と言ったが」、と駘東。「試験には政策提言も含まれる。それは書物の勉強だけでは思考することの出来ないもので、実際の政治と社会問題を学ばなければいけない。葵千くんは熱心に勉強しているが、まだ世の中を知らな過ぎる。お前のようにな」


「はい。父上」


「憑円。寝る前に、お前に言っておかねばならないことがある。重要なことだ」


「重要なこと……」


「わたしは今、栄月に仕えているが、中央政府の使いから、ある仕事を命ぜられたのだ」


 憑円は相槌も打たず、黙然と耳を傾けていた。天井に向いている視界の大半は真っ暗闇だが、その一部が、灯火でポッと明るい。


「栄月を始末せよ、そうわたしは言われた」


「……!!」


 父の言葉に、娘は驚倒した。


「帝は徐々に権力の基盤を固めていっている。栄月はこの虞丈を含む一帯の支配権の大半を掌握しているが、中央政府には、それは都合が悪いのだ」


「でも」、と憑円。「父上は、栄月の侍従でいらっしゃいます。父上のお言葉が本当ならば、父上はつまり、離反されるのですか?」


「そうだ」


 明快な返事に、憑円はようやく事情が悟られてくるようだった。彼女は、布団に包まれている体が、緊張のために熱くなり、足の裏などが、汗ばんでくるようだった。


「栄月がいなくなれば、ヤツに苦しめられていた蔡さんたちは多少楽になるだろう……あくまでこれは楽観に過ぎないが」


 物騒な話に、まだ若い少女は恐怖を抱いた。そして彼女は、この一件に関して、自分には直接関係ないと、あまり真剣に考えないことにした。







 村外の川まで、葵千の父、荒円が釣竿とカゴを携行し、釣りに行ったその帰り道、彼はある者と遭遇した。


 夕暮れ時だった。畑の世話をした後、荒円は釣りに行ったのだが、夕方まで釣り糸を垂らして、得られたのは取るに足らない小魚数匹だった。


 芳しい成果が得られずトボトボと歩く荒円は、ふと「おい」、と嫌に不躾に声をかけられた。


 ハッとして顔を上げると、そばに、荷を積まれた馬に跨る男の姿が見えた。彼は、眉が太く、両目は水平に並んでおり、鼻の下に髭を生やしている。砂色の袍を着て、黒いつば無しの帽子を被り、年のころは、二十歳代半ばという感じだ。三十歳の荒円に彼は、年下のように見えた。


 男に見下ろされている荒円は、誰だと聞きたいように、ポカンと目を丸くして見上げている。


「この村に馮という姓の武人がいるそうだが」


「馮……駘東さんのことだろうか」、と荒円が呟くように小声で言うが、自信がなく、モジモジした。


「早く返事しろよ! もうじき日が暮れるっていうのに」


 男は眉間にキツい皺を寄せて声を荒げ、腰の剣の柄に手をやる。


「ヒッ! す、すみません。家の方にご案内しますので、どうか暴力だけは……」


 荒円はビクッと震えあがって跪き、命乞いの気持ちを込めて返答する。


「フン」、と男は居丈高に鼻を鳴らすと、馬を歩かせて、小走りで先導する荒円に付いていった。




 ……。




「やけに遅いわねぇ、あの人」


 地べたに座って穴のあいた竹籠を修繕している芸輪が呟く。採集で用いるカゴだが、くたびれて穴があいたのだ。


「……」


 隅っこで灯火を頼りに書物を読んでいる葵千は顔を上げ、「そうですね」、と返す。そして書物を閉じると、「見てまいりましょうか」、と提案し、彼は勉強を中断して、外に出ていった。


 夏の長い日がようやく暮れようとしていた。空は明るい橙色だったが、あちこちに暗い陰が落ち始めている。




 ……。




「お前」


 馬に乗る男が、先導役の荒円に、やはり不躾に呼びかける。


 荒円は立ち止まり、振り向いて「はい」、と恭しく返事する。


「見た感じ、ずいぶん冴えない男だが、職はちゃんとあるのか」


「はい。しがない百姓でございます。妻と子供がおります」


「何だ。所帯まで持ってるのか。おれはてっきり、ただの釣り好きの乞食かと思ったが」


「……」


 ひどい言いようだった。だが、栄月に虐められることがしょっちゅうの荒円にとっては、馴染みのある遇され方ではあった。


「おれは商人の何阿蘭(か あらん)って言うんだが、最近、小間使いが欲しくてな。きちんと言うことが聞けるなら、そいつが乞食だろうが鼠だろうが、構わず雇い入れるんだが……」


 そう言われてみたものの、父であり、専門の農民である荒円は、いい返事が出来ず、困惑してしまった。この阿蘭という男は、人手を欲しているらしい。一人だけでいいという。


 だが、今は道案内が先決であり、荒円は、取りあえず馮家の方まで、阿蘭を導くのだった。




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