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 葵千は必ずしも勉強ばかりして過ごしていたのではなかった。勿論、科挙に合格したいのなら、寸刻さえ注ぎ込むのが理想だが、人間は、書物にかじりついてのみ生きるわけにはいかないのだった。


 葵千の暮らしは大半が勉強だったが、合間には他のことをした。栄月が言ったからといって、両親と共に農作業に従事することはなかったが、簡易の織機で布を織って自分、家族用の服を作ったり、農具を修繕したりした。散歩に出かけることもあった。


 家の中は窓が小さく、日中でも暗かったので、葵千は書物をよく読めるように、外出することが少なくなかったし、また、夜なべの灯火用の火口を採集する目的で出ることがあった。


 ある日の昼、葵千は樹皮を集めるのと、勉強のために、小さいカゴに何冊かの書物を入れ、外出した。


 樹皮は大抵、近傍の山林に行けば、夥しい木々が生えていて、採り放題だった。虞丈は、連山の麓に佇む小村で、山側に住居が集中し、平野部の方に、田畑があるのだった。


 山林には、葵千のように何らかの用事で来ている者があり、大抵の場合、その用事は採集だったが、葵千は、山林で樹皮を集めていると、近くに人の気配がし、誰かと思って恐る恐る斜面の上の方を見てみると、彼女と目が合った。青色の耳環……。


 樹幹に手を回して、憑円が葵千を見下ろしている。足元にはカゴがあり、丸い木の実が入っている。


 葵千は堅い金属片で木の皮を毟っていたが、手を止めた。




 ……。




 葵千は、憑円に木の実を分けて貰って、斜面に腰を下ろしていっしょに食べた。赤いブツブツの木の実は、水分が豊富で、甘酸っぱい味がしておいしかった。


「木の実なんか食べても、体は丈夫にならないけどね」、と憑円は、果汁で汚れた指を唇の辺で拭って言う。


「最近ぼく、思うんだ」、と葵千が悄然と顔を伏せ気味にして言う。「試験のために勉強してるけど、そればかりではうまく行きそうにないんじゃないかって。食事だって、一日二食だけだし、家計は苦しいし、そういう状況で、息子のぼくは、勉強ばかりしてていいのだろうかって」


「わたしは、あんまり試験のこととか、官僚?さんのこと、詳しくないけど、葵千って、わたしと同じ十四歳でさ、まだ若いじゃん。官僚って、そんな若さでなれるものなの?」


「ぼくもよく分からないんだ」


 葵千が首を傾げる。


「分からないのに、勉強してるんだ」


「無駄かな」


「さぁ? どうだろうね」


 そう言って、憑円は葵千のカゴにある樹皮の下の書物を一冊手に取り、特に興味があるわけでもなさそうにパラパラめくってみた。


「わたしは」、と憑円。「父上の教えで武術を鍛錬してるよ」


「将来は何になるの?」、と葵千が彼女の方を向いて聞く。


「分かんない。多分、父上と同じように、藩鎮に所属する武人になるんじゃないかな」


「それは、すごいね」、と葵千は劣等感と共に言う。「憑円、女の子なのに強いし、駘東さんは、立派な武人だもんね。きっと大丈夫だよ」


「けど」、と憑円は言って、書物を閉じてカゴに戻す。「父上が言ってたでしょ。世の中は変わりつつあるって。武人中心だった政治が終わり、教養とか知性とか、そういうものを、新しい王様が大事にしだしたって」


「そうだったっけ」、と葵千は返すが、彼はぼんやりしていて覚えていなかった。


「案外、わたしより葵千の方が偉くなるのかもね」


「それは、難しいな」、と葵千は、儚げな微笑を浮かべて答える。「ぼくはしがない貧農の倅で、出世街道とは無縁のところにいるから」


 憑円は彼のその面差しを見つめると、立ち上がり、「そろそろ帰るよ」、と続けた。


 彼女は、カゴを脇に抱えて斜面を下りていった。葵千は彼女を見送り、しばらくその場に座って、考え事に耽った。




 ――駘東は、あの性悪の栄月の配下でありながら、その実、蔡家を始めとした農民たちの味方だった。虞丈で過ごす父母は、その恩義に浴し、彼等が困った時、駘東はよく相談に乗ってくれ、のみならず、実際的に支援してくれるのだった。


 駘東は圧政を嫌い、調和が望ましいと思っているようだった。葵千は、彼を父母のように頼もしく思っていたし、その娘である憑円とは、互いに同い年ということで、親の身分の差なしに、親しく接していた。


 葵千は、しかし、不安になった。彼が心血を注いでいる勉強に意味があるのか、疑わしくなったのだった。科挙について教えてくれたのは駘東だったし、書物を貸与してくれたのも彼だった。下級の農民に過ぎない蔡家は、そもそも、学問とは無縁で、虞丈には書物の製造などしている家はなかったのだし、紙の製法さえ伝わっていないのだった。書物のような高度な物品を手に入れるには、縁故以外ほぼありえなかった。駘東は、武人として求められる教養のために、書物を所有していたのだった。


 葵千は今度、直接駘東に、科挙について質問してみようと思った。彼以外に頼れる人間はいなかった。


 彼はそう決めると立ち上がり、もう少しだけ余分に樹皮を集めると、斜面を下っていった。そして静けさを求めてさまよい歩き、木漏れ日の明るいところを見つけ、そこに腰を下ろし、憑円に分けて貰った木の実で口さみしさを慰めながら、書物を開いて勉強し始めた。


 


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