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 馬の扱いに、彼女は慣れていた。


 馮駘東の娘、憑円は、馬に乗り、野原を慌ただしく疾駆していた。栗毛の馬の白っぽいたてがみが、向かい風になびいていた。野原は広大で、背後に虞丈がその麓にある山が見えていて、野原は山々に囲まれていた。この辺は盆地なのだった。


 彼女にとって、馬術は馴染みのものだった。父には、武術と共に、武術と組み合わせて馬術も教えられたのである。


 憑円は一人だった。栄月の謀殺が失敗に終わり、父は返り討ちに遭い、父と二人きりで過ごしてきた彼女は、身寄りを失ってしまった。その日食べるものさえ、寝る場所さえ、覚束なかった。


 彼女において唯一明らかだったのは、逃げなければいけないということだった。栄月への反乱軍を率いた駘東の娘として、命を狙われていることは間違いなく、少しでも遠くまで虞丈から離れるべきだった。


 夏の空が、どこまでも青かった。太陽は高く昇り、昼を示している。


 長時間、無補給で走り続けてきた馬が、とうとう疲労で速力を落としてくると、憑円はそれを察して馬を歩かせ、やがて馬がすっかり歩みを止めると、彼女は馬を下り、草の上に仰向けになった。


 ずっと気を張っていて、憑円は精神的に参っていた。追手の気配はなく、少し休もうと思い、彼女は目を瞑った。しかし、目蓋の裏に、死んだ駘東や、憎々しい怨敵の栄月の顔が浮かんで来、中々気が休まらなかった。




 草原を吹き抜ける大風が、轟轟と唸っていた。







 風は、そこではいつも吹いていた。ある時は追い風であり、ある時は向かい風だった。




 宋を北方より脅かす遊牧民族契丹は、諸部族を統一して『遼』を建国した。その領域は、北は蒙古から、南は中国北部にまで到る。


 宋は遼に対し、領土奪還の名目で幾度も遼に戦をしかけたが、文化人の国と武人の国では、戦力の差は歴然たるもので、宋はほとんどいつも、苦戦を強いられた。


 宰相、何仁安は、遼軍に対し、攻城兵器の不必要を悟った。なぜなら遼軍は、砦などの施設をあまり持たず、身軽でいたからである。彼等はどっしり構えた戦い方をしない代わりに、怒涛の勢いで攻め寄せ、遊牧民族ゆえの優れた馬術で、宋軍を圧倒した。


 勾配のある複雑な地形でも、遼軍の騎兵は俊敏に移動し、宋軍の兵士は翻弄され、中々万里の長城を大きく越えて攻めることが出来なかった。


 遼軍の兵士は北方の者であるため、分厚い毛皮の防具を装備しており、彼等の剣の刃は、直線ではなく湾曲していた。


 剣や矛での戦いでは、宋軍は遼軍に対して不利であった。だが、宋には優れた文化があり、最近発明された火薬は、新たな武器の源となり、その武器が、不利である分を補い、万里の長城付近では、宋と遼の勢力が拮抗した。(対外戦における武力不振を補うため、宋における軍事費は、財政を圧迫することになった。)


 みずから国境まで出張ってきた太宗、超光義は、戦争が膠着状態になってしばらくした後、遼軍の将軍と対話の場を持った。和平交渉に臨んだのである。太宗には劣等感があり、宋が譲歩することで、一時的に遼と不戦の契りを結び、しかしそのために、宋は遼に対して貢物をしなければいけなくなった。




 ……。




「これでよかったのだろうか」


 終戦後、宋軍の退却の途上で、黒光りする青鹿毛の馬に乗って進む太宗は独り言めかして呟いた。


「……」


 すぐそばに、同様に乗馬している宰相、仁安は難しい顔で押し黙り、返事に窮している様子だ。彼の馬は栗毛だった。


 周りには夥しい数の兵士たちがおり、負傷した者が多く、牛車で運ばれる者は、馬に速力で劣るので、必然的に、遅れてしまっていた。


「此度の交渉、合意に漕ぎ付けたのはいいが、国同士の関係を、ずいぶん不平等にしてしまった」


「我らが宋と、敵たる遼とが対等であればよかったですが、悔しい哉、戦力はあちらの方が勝っている。我々は下手に出る必要がありました」


「やはり、強い武力が必要か……」


 太宗は夕焼け空を見上げてしみじみと言った。


「時代、そして人々を制するには、強さを証明して見せねばなりません。その意味では、武力は必要と言えるでしょう」


「仁安よ、都に着いたら、各地から精鋭を集めるよう、手配して欲しい」


「かしこまりました、陛下」




 夕焼け空は明るい橙色だった。だが、宋軍の兵士たちは、太宗と宰相と合わせ、すっきりしない灰色の気分で、都までの帰路を進むのだった。







 憑円は知らぬ間に眠ってしまっていた。悪夢などない透明な眠りだった。彼女が目覚めると、時はすでに夕方だった。


 乗ってきた栗毛の馬は、そばで立っている。すでに休息を済ませた感じだ。


 憑円において、だんだん頭が冴えて来、彼女は取りあえず近傍に人里を探そうと思った。辺りは見渡す限り野原と山々だったが、山や川のそばには、きっとひと気があるに違いなかった。


 暗い時分に、人里の外に行くこと、いることは、いいことではなかった。危険であり、身の安全は保障されなかった。


 憑円がギシギシとこわばる体を起こそうとすると、唐突に人の気配がし、彼女は肝を冷やし、胸が詰まるようだった。


「――昼が夕になるほどの長時間、こんな見通しのいい野原に寝そべっていて、ずっと誰にも気付かれないと、まさか思うまい」


「……!!」


 憑円はサッと上半身を起こし、警戒のため、両手を地に着けて、胴を引いて構える。


 男がそばに、あぐらを組んで座っている。彼は白の袍服を身に纏い、暗赤色の束帯を巻いた腰に、小袋をさげている。鼻の下と顎に髭を生やし、肌は日焼けしたようにいくぶん黒っぽい。彼のそばには、仲間と思しき彼と似た格好の男たちが複数座っている。


「驚いたろうが、恐れないで欲しい」、と男は怯え切った少女の警戒心を解きほぐすように言った。「わたしは曽旭光という者だ。王朝の官僚で、今は、ちょっとした旅の途上といったところなんだが」


「王朝の偉いお方が、わたしなんかに何のご用で?」


「君はあの虞丈という村の娘だろう。わたしには見覚えがある」




 思いがけず、憑円は旭光という男とでくわした。旅しているという彼は、睡眠中の彼女を見かけ、その顔に見覚えがあったので、ちょっと話してみようという気になったようだ。


 彼の雰囲気は、敵対者のそれとは違うようであり、完全に気を許したわけではないが、ある程度、警戒を緩めてもいいように、憑円には思われるのであった。




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