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葵言葵行~宋代を生きた或る青年の傳記~  作者: Yuki_Mar12
【第一章】運命の村 虞丈
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 中国の古い言い伝えに、『巫蠱(ふこ)』というものがある。器の中に、蛇などの有毒生物を複数閉じ込めて争わせる。最期に生き残ったものが最も強い毒性を有しており、これを用いることで、その者は呪力を手に入れることが出来るというものである。


 鄙びた農村である虞丈には、いくつもの思念が渾然と渦巻いていた。栄月の強欲、駘東の大義、葵千の夢、旭光の理性……。


 虞丈はいわば一つの器だった。彼等の思念はそこに閉じ込められ、互いに排斥し合い、そして、最終的に生き残ったのは、栄月の強欲のようだった。




 ……。




 朱家に上がる火事の炎に、後方で待機していた農民たちは、やがて異状を察し、自軍が罠に陥って敗北したのだと悟って逃げ出した。だが、反乱に加わった農民たちの逃げ場などなく、大半は、栄月の騎兵に追われてたやすく刈り取られた。


 葵千は、芸輪と共に麓の林に潜み、敵の目を盗んで木立の深奥に進み、そのまま山を登っていった。荒円の存否がはっきりしなかったが、あの炎の中にいることは間違いなく、そうなると、きっと死んでいるに違いないと推定された。大半が子女である他の農民は、葵千たちのように逃げているだろうが、仮に逃げ果せたところで、根無し草になって、虚無にさまよい込んでいくだけだった。


 憑円はどうなったのだろう。葵千は気になった。彼女が生き残っていてくれるといいが……。




 虞丈がその麓にある山は、決して低くはないが、雲に届くほどの高さはなかった。村民にとっては、木材や食料などの採取のために利用されており、だが、その程度で、寺院もなければ、神仙もいなかった。山は、実益のために利用されると同時に、道教的な意味合いにおける畏敬の対象であり、あまり深入りはされなかった。




 湿っぽい空気の中、葵千と芸輪はひたすら山をのぼっていき、その内疲労感と空腹感に襲われた。


 彼等はその辺の木の根元に座り込み、しばらく休んでから食料を探そうと思った。


 葵千は起きてボーッとしていたが、芸輪は休んでいる最中にウトウトして、座ったまま寝てしまった。


 葵千は、辺り一帯を見るともなしに見まわしたが、草木が鬱然と繁茂しており、ここは人の来るところではないという風に思われた。体中、細かい擦り傷だらけで、出血し、痛かった。


 ふと、葵千は、草葉に覆われた地面に、何かくぼみらしきものが見える気がした。彼は手で草葉を掻き分け、よく見てみると、それは、足跡のようだった。人間ではなく、鋭く太い爪を持った……獣?


「アァァァ!」


 ふと、おどろおどろしい叫び声がし、葵千はビクッとしたが、芸輪のものだった。


 木の根元で座って寝ていた芸輪に、彼女よりずっと大きくて高い巨影が密着している。それは、芸輪を抱擁するように見え、その実苦しめており、毛むくじゃらのそれは、ヒグマなのだった。


 ヒグマは、痩身の芸輪の肩にその恐ろしい牙のある大顎で噛み付き、充分に苦痛を与えて離すと、今度は喉元に噛み付き、芸輪は人形のように魂を失い、ピクリとも動かなくなった。


 この辺には実の成る木々が生えており、木の実はヒグマの餌だった。あるいはここは縄張りだったのかも知れない。ヒグマは捕食するためではなく、排除するために、侵入者を攻撃したのだろう。


 葵千は一気に血の気が引き、ヒグマに感付かれないように出来るだけそっと立ち上がると、一散に逃げだした。




 ――体力が許す限り、葵千は全力で荒れた道なき道を疾走した。彼の中で、命の火が大きく燃えていた。父、そして母を失った悲しみ、ふるさとを追われることになった嘆き、そういった感傷は現今、無用だった。ただ生きること、この窮境を潜り抜けて生き延びることだけが、唯一意味を持っていた。




 ずっと薄暗かった木立の先に、明るさが透けて見えて来、どこかに出られるのだと葵千は思い、喜びに似た感情に急かされてそこまで急いで行ったが、出た先はただの崖だった。地面が岩に変わり、下は急流になっている。葵千は期待を裏切られ、落胆した。


 ヒグマは追ってきておらず、ここで止まってもいいようだった。だが葵千は、勇を鼓して急流に飛び込んでしまおうと思った。後戻りは出来なかった。


 彼は崖の際で四つん這いになり、下を窺見した。急流が轟然と唸り、白い飛沫が飛び散っている。死ぬほど高さがある崖ではなかった。だが、ゴツゴツした岩がせり出しており、うまく受け身を取らなければ、体を打って溺れかねなかった。


 葵千はゴクリと固唾を飲み込み、目を細目にすると、息を止め、サッとその身を宙に投げた。


 体が空気にすっぽりと抱かれ、そして重力で落下する。激しい空気の摩擦の後、葵千は着水し、致命傷は辛うじて負わなかったが、水中に隠れていた岩に腕や腰を打ち、その痛みに意識がぼんやりすると、その内途絶え、失神してしまった。




 勉強ばかりして運動せず、食事もあまりいいものを摂れなかった痩身の青年の肢体は、急流に乗って、途中岩に引っかかったり、渦で回転したりして、奈辺に運ばれていった。




 葵千は、決して死ぬつもりで崖から身を投げたのではなかった。ある種の勇気と、確固とした生きる意志を持って、覚悟を決めて跳躍したのだった。




 彼の人生は、まだ続く。それが幸福に続くのか、不幸に続くのか、まだ分からない。だが、彼の前に伸びる生の道が、生易しくないものであることは、疑いようがなかった。




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