第89話
「そうか、モサヒーは残るのか」シャチは声量を落として安心したように穏やかに答えた。「それはよかった」
「あ、じゃあ例の件はやはり、モサヒーに?」レイヴンは確認した。
『例の件』とは、双葉ことタイム・クルセイダーズに先制攻撃として抗生物質を取り込ませる作戦の実行役を頼むという事だ。
「うむ」シャチらは総員で頷く。「我々としてもそれが最も効率的かつ確実だろうという結論に達した」
「わかりました。モサヒーにはもうすでに、あらましを伝えてあります。後は彼に、シャチさんたちと合流するように申し送りして」
「何か、来るぞ」シャチの一頭が叫び、直後すべてのシャチがざわめき動揺し始めた。
「えっ?」レイヴンは驚き不安に襲われた。「何かって? まさか双葉?」
「衝撃的な速度で」シャチの緊急通達は引き続き叫ばれた。「馬が海面上を走ってくる」
「──えっ?」レイヴンはもう一度驚いたが、不安ではなく大いなる猜疑心に襲われた。
「危ないぞ」
「気をつけろ」
「こちらに向かって来ている」
シャチらはそこここで互いに警告を叫び合っているが、それは一体どこの誰から伝わってきたものなのか? いや無論それは海中に棲む生き物たちからなのだろうけれども、一体全体何をどう思って、そんなばかげた冗談をさも危急であるがごとくに必死の様相で伝えて来ているんだ?
「レイヴン!」籠の中で最初に叫んだのは、後から考えるとやはりというべきことに、オリュクスだった。「すごいのが来る!」
「な」何が? そう訊き返そうとした時、レイヴン自身も遅れ馳せながらようやく感知した。
まずは突き刺さるような大気分子の圧力。
すぐに続けてその摩擦音。
そして足下、海水の小さくも激しい揺れ。
確かにこれは、何かが──近づいて来ている。
「うん、レイヴン」
呼ぶ声は、紛れもなくモサヒーだ。
「モサヒー?」レイヴンは茫然としつつも返事をした。「君、今どこに」
「うわあああ」
「逃げろおお」シャチらが冷静さを失ってその場から四散する。
レイヴンの受容帯には、水平線上の一点にぽつんと現れた黒い点が、急激に膨らみでこぼこに形を成しはじめるのが捉えられ、他には何も映らなかった。
迫りくる塊はついにその本性を現し、まさにそれは馬だった。
「馬?」レイヴンは叫んだ。
「うん、いえ」モサヒーが答える。
今や目の前、浮揚するレイヴンの真ん前にそそり立つ、巨大な四足獣のたてがみ近くに附着している、モサヒーが。
「キャンディさんです」




