第88話
ハシナガイルカは、レイヴンたちが浮揚している下方の海面近くをしなやかに泳ぎ回りながら、水中深く、あるいは遠くに向かって、鳴き声を発していた。
恐らく、他の海棲動物たちに、レイヴン間もなく帰国の報を伝えてくれているのだろう。その声に応じて、様々なレベル、トーンの声が返って来る。それはまた驚くほど大量の、多彩な鳴き声たちだった。
「本当に、どうもありがとう」レイヴンは幾度となくその言葉を発した。
けど、本当は──
そんな想いが中枢帯の下から湧き出て来そうになるのを、ぐいと押し込める。それはオリュクスを殻に押し込めるのとは違い、何故かレイヴンの代謝循環系の真ん中に痛みのようなものを伴うのだった。
本当は──
「うわーっ」突如ハシナガイルカが叫ぶ。「シャチが来るー!」
「えっ」レイヴンは現実世界に引っ張り戻された。「シャチ?」
「うん、じゃあレイヴン、コス、キオス、オリュクス、元気でねー! またねー!」ハシナガイルカは早口で言いながら高速で泳ぎ去って行った。
「あ、ありがとう!」レイヴンが大声で叫び、
「ありがとう!」
「またね!」
「今度は一緒に泳ごうねー!」動物たちも別れを告げる。
遠くから、ピィ──という笛のような甲高い声が戻って来た。きっとそれが、ハシナガイルカの最後の声だと思われた。
「レイヴン!」
入れ替わりに後ろからそう呼ぶ声が届き、はっと振り向く。
ハシナガイルカの予告通り、シャチが──シャチの群れが──シャチの大群が、そこに居た。
「ど、どう、どうも」レイヴンは圧倒されつつ挨拶をした。「皆さん、こんにちは」
「君は帰るのか? それは本当なのか?」シャチの一頭が叫ぶように訊く。
その個体が、先日作戦の進捗状況を伝えに来た者なのか、はたまたいつぞや、タイム・クルセイダーズに賠償請求をすると吠え立てていた者なのか、レイヴンにはまったく判らなかった。
「そ、はい、ええ」しどろもどろに答える。「ぼくの所属する会社からの命令で、戻ることになりまし」
「モサヒーという者は?」シャチが被せて訊く。「モサヒーも共に帰るのだろうか?」
「あ、いえ」レイヴンは触手を横に振った。「モサヒーはここ、地球に引き続き滞在する……はずです」
モサヒー。
その名を聞いた時レイヴンは、先日その本人とやり取りした最後の通信のことを思い出した。
「うん、レイヴン」
モサヒーは、ただその一言を放った。
コードセムーに気取られぬよう、密やかなる受信のみで返事や返信はしなくて良いという約束に背いて──とはいってもその『約束』はレイヴンの側から一方的に押しつけただけのもので、結局そんな『約束』はやり方として間違っていたということを思い知らされたのではあるが。
それにしてもモサヒーは一体、何を思ってあの一言を放ったのだろうか。
どうしようもない感情に衝き動かされて放ったのか。
そうだとすると、それはモサヒーの遺伝的性質からみて大変珍しい、稀有なことだ。
レイヴンは、少し嬉しく思った。どうしようもない感情に衝き動かされて、モサヒーはぼくを呼んだのかな──同時にそれは、レイヴンにとってもまたどうしようもなく、哀しみを呼び起こした。
◇◆◇
モサヒーは持てるだけのエネルギーを惜しげもなく駆動し、高速浮揚推進を続けていた。
コードセムーは、ひょろ長く伸ばしていた双葉を頭頂部にぴったりと収め、モサヒーに遅れずついて来ている。特に喋ることもしないところを見ると、彼女としても最大限のスピードを絞り出しているのだろう。さすがはギルド、といえるところかも知れない。
しかしキャンディはどうだろう──?
高速推進しながらもふと気に留める。振り向けば推進速度に僅かながらも影響が出るだろう。今は何も見ないことを徹底すべきか。薄情と思われるかも知れないが、今この状況においては──
「私、もっと速く走れるわ」
突然キャンディの声が聞こえたかと思うと、彼女は推進するモサヒーの前方、進行方向に、つまりモサヒーを追い越して、割り込んだ。
「モサヒーさん、どうか私のたてがみにつかまってくださいな」首を少しだけ振り向けて言う。「私、全速力でレイヴンさんのところへあなたをお連れするわ」
「うん、はい」信じがたいなどと思うよりも早く、モサヒーは承諾した。
キャンディは少しだけ速度を緩め、モサヒーは滑り込むようにその背の上に移動し、いまだ丸くなって顔を上げもしないでいるボブキャットの上を通り過ぎ、キャンディのたてがみに触手を巻きつけた。
「え、ちょっと」後ろでセムーが困惑の声を挙げる。
「あなたは特につかまらなくてもいいわ」キャンディは前方に向き直りセムーに向けて言った。「また私のたてがみを消し飛ばされても困るし」
「なっ、う」後ろでセムーが言葉をなくす。
「うん、セムーさんは、うん、ぼくの触手につかまっていてください」モサヒーが後方にサブ触手を伸長させる。
「まあ、ええ、そうするわ」セムーはたちまち喜びの声を発し、夫の触手に双葉をからみつかせた。「うふふ、優しいのね」
「うん、たてがみには一切触れないように、うん、してください」
「──ええ」
「それじゃ、行きますわよ」キャンディが宣言し、彼女の全力疾走が始まった。
ごおおおおお
モサヒーは、大気の裂ける音を感知すると同時に、念のため気の毒な状態のボブキャットにも触手を巻きつけておくことにした。




